I飯盛山(3月9日)

 鶴ヶ城天守閣の展示物にて白虎隊のあらましを知ったうちの奥さんは、飯盛山に参るに際し、

 「さすがに浮ついた気持ちでいたらダメだよねぇ」

 などと殊勝なことを言っていた。
 が。
 タクシーで飯盛山の登り口まで来てみたらビックリした。
 自刃の地や白虎隊士のお墓まで長い階段が参道になっているのだけれど、その両脇には、まるで金比羅山の参道の如く土産物屋が建ち並んでいるのだ。
 シーズンオフなので開いている店こそわずかだったけれど、この飯盛山って……

 そ……そういうところだったのですか。

 さらに驚いたことに、この長い階段という労苦を厭う人用に、傍らには「動く歩道」が設けられているのである。

 整備中につき動いてなかったけど。

 土産物屋にしてもこの動く歩道にしても、なんというか飯盛山は、想像していたたたずまいとは少し様子が違うようだ。その歴史上の惨憺たる物語とはまったく関係なく、その名にあやかった商売が成立しているあたり、人々のたくましさを思わざるを得ない。

 ひぃーひぃー言いながら階段を登ると、やがて広場に出た。
 順路的にはお墓へ行くべきらしいところ、まずはここから鶴ヶ城を見たかったので、白虎隊自刃の地へ。

 すると、途中にこういう案内が。

 ドイツ人ハイゼ父子など我々が知る由もないから、ただただ、「世界には変わった人がいるものだ…」と思うしかない。
 でも、広場にはこのほか、ローマから贈られた記念碑やらドイツから贈られたなにやらが立っていて、景観と比べたその様相の節操のなさはともかくとして、白虎隊に代表される会津藩士の精神に共鳴する人々が世界中にいた、ということは、会津の人はもっと誇っていいと思う。

 その白虎隊の自刃の地は、会津盆地を見渡せる墓地の上方にあった。

 奮闘むなしく退却を余儀なくされ、地獄の三丁目の入り口もかくやという洞穴をくぐってようやくこの飯盛山に難を逃れた彼ら少年兵が見たものは、黒煙に包まれた鶴ヶ城の姿だった。
 あの美しかったお城が………。

 生き抜こうと思えばいくらでも手はあったろうけれど、彼らの士風が、そして、ここに至るまでの絶望的な戦局が、それを許さなかったに違いない。
 生まれ育った国を見納めつつ、彼らはその命を絶った。

 この地から眺める鶴ヶ城が、彼らが最後に見た景色とおおむね変わらない風景なのだ。


鶴ヶ城を見やる白虎隊士の像と同じポーズをするうちの奥さん。

 かつてのテレビドラマなどで白虎隊のこのシーンになると、手の込んだドラマなら鶴ヶ城城下が黒煙を上げているシーンが出るとはいえ、CGなどない当時、こういうワイドな絵を見せてくれることは稀で、そのため、実際に飯盛山から鶴ヶ城を見たらどういうふうに見えるのか、これまで知らなかった。
 それがついに今、明らかに!

 ここから眺めると、鶴ヶ城はこう見える。

 真ん中あたりに、細くポールが立っているのがおわかりいただけるだろうか。
 その向こうに小さく小さく、鶴ヶ城天守閣が見える。
 予想していたよりもさらに遠かった。

 黒煙を上げていたとはいえ、会津軍はまだ降伏しておらず、鶴ヶ城も落城はしていなかったのだけれど、絶望的な状況の中で、あんな遠方でお城が黒煙をあげているのを見れば、少年兵ならずとも万策尽きたと思うだろう。

 この自刃の地の奥の、木々に囲まれた静かな広場に、白虎隊士19名の墓が並んでいた。

 この日もそうだったけど、ガイドブックなどによると、ここには地元のみならず全国から参拝者が訪れ、花や線香を手向ける人があとを絶たないそうである。
 …そういうイメージを僕も抱いていたものだから、なおさら参道下の土産物屋に違和感を感じたのだろう。

 戊辰戦争における会津戦争といえば、とかく白虎隊の悲劇のみクローズアップされる。16、17歳の少年たちの雄々しくも悲しい物語だからそれはそれで当然なのだが、我々日本人としては、少年たちの悲劇物語としてだけ捉えていてはバチが当たるかもしれない。
 というのも、悲劇は白虎隊だけではないからだ。
 篭城するにも兵量その他で足を引っ張ることになる、と覚悟した女性たちは、藩が城に入るよう勧めたにもかかわらず自発的に死を選び、自害して果てた婦女子の数は相当な数だという。なかには10歳にも満たない少女たちもいたのである。

 僕が全面的に参考にしている作家司馬遼太郎は、この会津戦争についてその著書の中でいう。

 「歴史のなかで、都市一つがこんな目に遭ったのは、会津若松市しかない」

 しかもその戦争は、官軍による「逆賊」討伐が名目だったのである。いわゆる朝敵というヤツだ。
 しかし。
 松平容保がその死まで肌身離さず持っていたという天皇からの手紙を思い起こしていただきたい。
 彼ら会津藩は、天皇のために奮闘していたのである。それも身勝手な尊皇ではなく、帝ご自身の願いでもあったのだ。

 つまり会津戦争における官軍の、つまり国家の大義名分は、根底からまったくもって成り立っていなかったということになる。

 にもかかわらず、戦後の会津藩に対する国家の仕置きはどうだったか。青森県の先っちょに藩ごと「流刑」に処された彼らの艱難辛苦は、いかに勝利者であるとはいえ、官軍=国家の権力者によるいじめ以外のなにものでもなかった。

 それやこれやを考えるなら、太平洋戦争における周辺諸外国への行為を謝罪しまくる日本政府は、会津藩に対しても同じく公式に謝罪すべきではなかろうか。

 ……ということなどまったく感じさせないくらいに、麓の土産物屋さんはあくまでも陽気に賑やかだった。
 そもそも、長州藩のように農民町民を含めた藩民すべてが一致結束していたわけではない会津藩である。白虎隊や会津藩の悲劇といっても、それは侍の世界の話で、領主が代わろうとどうしようと、いつの時代もたくましく生きていた大地に生きる農民たちにとっては、ひどい暴風が吹き荒れた程度の話だったのかもしれない。
 この土産物屋の列を見ていると、

 「最後に勝ったのは彼ら百姓だ」

 映画「七人の侍」でそうつぶやいた勘兵衛のセリフを思い出すのだった。