D大内宿散歩(3月8日)

 さあ、いよいよ大内宿の散策だ!

 ちなみに、ひと月前はこうだった。


撮影:オタマサ

 沖縄に住む我々からすればこれでもすごい雪って感じなんだけど、やはりこれでは少なかったらしい。この少し後に開催された雪祭りでは、なんとわざわざ山のほうから雪を運んできたのだという。
 ホントに、温暖化は将来の危機ではなく、今そこにある危機なのである。

 この江戸時代さながらの姿を残す宿場の街道沿いには用水路がある。雪解け水の季節ということもあって水量が豊富で、せせらぎのように爽やかな水音が耳に心地いい。
 そんな用水路で、栃の実らしきものをアク抜きしていた。普段から生活用水として使用されているのだ。

 これもすべて、雪あってこそなのである。

 この旧宿場町の街道沿いの建物には、トタン屋根も散見できるものの、基本的に茅葺き屋根で、この用水路といい茅葺き屋根といい、そのたたずまいのタイムスリップ度は本当に夢を見ているかのようで、それがまた実際に現役の建物である、ということが、思わずため息をついてしまうほどに素晴らしい。

 以下、我々と一緒に散策したつもりになって、写真をいくつかご覧いただきたい。

 

 意図して撮ったわけではないので写真だけではわかりづらいけれど、どこを眺めても背後には山山が連なっているのがお分かりいただけるだろうか。
 半径数キロメートルはすべて山だらけで、ここ大内宿だけがポッカリと平らかになっているのだ。そこに人が暮らし始めるのは自然のことで、やがて街道が整備されれば、周囲の山を越え谷を越え峠を越えてきた旅人にとってのこの宿場は、砂漠を旅するアラビア商人にとってのオアシスのようなものだったことだろう。

 ひと月前はけっこうな雪の量だった大内宿も、ご覧のとおり、このときの雪はそれほどでもなかった。でも、屋根から伝い落ちる雪解け水で出来上がった氷柱が美しい。

 昔からこの氷柱を見るたびに、これが解け落ちて来たら殺人的脅威じゃないのかと、やや先端恐怖症気味の僕などはいつも戦々恐々としていたものだったのだが、いざ持とうとすると、脆くもあっけなく崩れ落ちる。こうやって氷柱を手にするまで、5本くらいボロボロと崩壊させてしまったほどだ。

 これほど脆ければ、たとえ真上から直撃を食らっても突き刺さるということはあるまい。今までの恐怖はなんだったのだ。

 こうやってひとしきりメインストリート近辺を散策した後、ツアコンマサエ略してコンマサが、一度下見をした人ならではの案内をしてくれることとなった。
 まずは、宿場の突き当たりやや左にある階段。

 マジッすか………。

 腹一杯の体にはやや堪える辛さながら、この階段の遥かな上にある小さな祠のその先をちょこっと回ると………

 絶景かな絶景かな!!
 大内宿を一望できる高台だったのだ。
 ちなみにここもひと月前の様子をどうぞ。

 まったく別世界である。
 雪の降り積もった階段を登るのは命懸けだったそうで、かろうじて登れたはいいものの、今度は果たして無事に帰れるのかどうか不安になったという。
 実際、帰り道の彼女は、この程度の残雪でもオタマサ化していた。

 この程度の雪でこうなのである。このときとは比べ物にならないくらいの積雪だった当時、よくぞまぁ無事に帰れたものだ……。

 さて、コンマサが案内してくれた大内宿の次なる名所はここだった。

 アフラック♪

 ……って、おいっ!!ここまできてまた鳥かいッ!!
 これはちょこっと裏にまわったところの民家で、囲いの向こうに雪解け水を利用した1畳ほどの立派な池があって、そこでアヒルとカモが飼われているのだ。
 前回の下見でここを発見したうちの奥さんは、この日の再会を心待ちにしていたのだった。

 再会に気をよくし、さらにテックテックと大内宿のはずれを散歩すると、宿場町はすぐに途切れ、一面雪に覆われた田畑が広がっていた。
 そこでオタマサは……

 
 走って…


コケて…


 寝転がった。

 我々が雪を見てやりたいことなんて、雪やコンコン霰やコンコン……の犬と大して変わらない。
 実はこの雪原は、ガイドブックによると蕎麦畑らしい。もとより雪に覆われていれば、たしかめようもないけれど……。

 この雪原を見渡しながら道をまっすぐ進むと、鳥居が見えてくる。この先に、ヒッソリと佇む神社がある。

 高倉神社という。
 驚くべきことに、この高倉神社は大内の宿場よりも歴史が古く、西暦がまだ3ケタの頃からずっと続いているという。そこで祀られている神様は、年に一度、7月2日に大内宿で行われる半夏祭りのときにだけ、人前に現れる。
 いわば地元に思いっきり密着した神様で、実は大内宿のメインストリートには、この神社へと続く道の入り口、つまり参道にちゃんと大きな鳥居が設けられてあるのだ。

 あとでタクシーの運ちゃんにお聞きしたところによると、この高倉神社にもちゃんと神主さんがいらっしゃって、大内宿で南仙院と表札が出ているところがご自宅なのだという。

 さて、神社といえば普通手水があるものだが、さすが大内宿、これまた雪解け水を利用していた。

 雪解け水なれば当然冷たく、身も心も引き締まる。
 身を清め訪れた高倉神社は、その歴史と伝統と存在感の大きさのわりには、拍子抜けするほどにとても素朴な社で、そのまったく大げさではないたたずまいは、水納島にある拝所で感じる神様の優しげな気配にどこか相通じるものがあった。
 どうやら大内宿は、とてつもなく優しい神様に見守られているらしい。

 ただし、今でこそ江戸時代にタイムスリップ、南会津屈指の観光地としてその名が轟く大内宿だけれど、交通機関が発達していくにつれ旧街道は廃れ、自動車用の新たな道はこの宿場とはまったく掛け離れた場所を通るようになっていたため、江戸時代に宿場町として栄えたここ大内宿は、宿場としても町としても、一時期まったく廃れてしまっていたという。
 逆にそれだからこそ、他の宿場町が時代とともにその姿を変えていったのに対し、ここはヒッソリ佇んだままだった。

 それがやがて「価値」となる日が訪れたわけである。
 いわば、忘れ去られた宿場町だったからこそ、今の時代にこうして往時の姿を我々が味わうことができるのだ。

 かつて飛騨高山行などでも触れたとおり、景観や風情といった、それ自体の価値を計る客観的な数値をつけられないものを保存する、というのは並々ならぬパワーを必要とすると思うのである。海という海、山という山が埋め立てられ、削られていく沖縄の現状を思えば、飛騨高山にしろこの大内宿にしろ、この景観の保存は奇跡といっていい。

 そんな地域の人々の努力の成果を、ジワリジワリと削いでいくのが今の日本の行政ではなかろうか。
 たとえばこの大内宿には、これまで分校があった。今でも校舎がそっくり残っている。
 しかし、児童数の減少による財政的「合理化」のため、大内分校は廃校となり、湯野上温泉にある江川小学校に統合された。大内宿で暮らす子供たちは、毎日スクールバスに乗り、山の向こうの5〜6キロ離れた小学校に登校しているそうだ。

 地域を興そうと住民ががんばっているにもかかわらず、あっけなく地域から学校を無くしてしまう行政。
 過疎対策とか地域振興とか、お題目だけは地域に目を向けているかのように見せているけれど、その実「地域」とか「振興」というものを何もわかっていないのが行政なのである。

 この大内宿の入り口に、この宿場町の保存のために自らを律する条文が掲示されていた。


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 その気合というか意気込みというか、地域のためにこうあれかしという思いを込めた住民自身の迫力は、かつて会津藩士の信仰の対象でもあった、家訓十五か条を見る思いがするほどだ。

 この大内宿には、土産物屋や蕎麦屋など飲食店のほかに、もちろん民宿もある。宿場町にある茅葺き屋根の宿なんて、なんとも素敵ではないか。
 我々は温泉を重視したので宿は湯野上温泉にとったものの、ここの宿に泊まり、日帰り客が来る前の夜明け頃や、帰った後の薄暮の頃の風情も味わってみたかった………というのが唯一の心残りだったりする。

 海に囲まれた南国の小さな島と、山に囲まれた雪国の小さな集落では、共通点などまったくないように思われるかもしれないけれど、多くの問題を抱えた島に住む我々が学ばなければならないことが、ここにたくさんあるような気がするのだった。