I東京駅(3月7日)

 和田倉門の広い道をそのまままっすぐ進むと、ほんの3〜400mほど先に見えてくるのが、次の目的地。
 そう、天下の東京駅だ。

 ……といいつつ、すみません、またしても無知をさらけ出しますが、はっきり言いましょう、ワタクシ、東京駅が皇居とこんなに近かったなんて、これっぽっちも……ホントに1ミリも知りませんでした。

 マジで、今回地図を見て驚いたのなんの。
 今回の都内滞在において、行きたいところの一つがこの東京駅だった。そして、皇居も行ってみたいなぁ…と思い始めて地図を見てビックリ。

 計ったような位置関係ではないか!!

 いや、実際計った位置にあるのだ。しかし、まさか自分の行きたいところがこうも隣り合わせに位置しているとは……。

 いかに田舎モノの我々でも、さすがに東京駅はこれまでの人生で何度も利用したことがある。特に大阪方面へ行く際などは、飛行機が今の100倍嫌いだった昔はよく新幹線を利用したから、東京駅はいつも出発口ではあったのだ。

 そんな東京駅になぜ行きたいのか。

 それは………

 これまで一度として駅舎を外側から見たことがなかったからである。
 というより、経由をしたことはあっても、東京駅で降りたことはこれまでなかったかもしれない。あったとしても、利用したのは八重洲口だったはず。

 一度として見たことがない赤レンガの駅舎を、この際とくと見てみよう!!

 そう思い立ったのだった。

 さてこの東京駅。
 駅舎は、大正3年に完成している。
 日本建築界の父、辰野金吾の設計である。

 とにかくスゴイ人らしいのだが、僕はよく知らない。知らないけれど、彼がこの世に残した建物なら、日本銀行本店、奈良ホテル本館、大阪市中央公会堂といった具合に、東京駅のほかにもいくつか知っているほどだから、相当スゴイ人だったということはそれだけでもわかる。

 そんなスゴイ人の集大成的仕事のひとつが、この東京駅だった。
 時は日露戦争後からずっと勝利に沸き立ち続けている頃である。帝都の中央停車場として、世界に冠たる駅舎を、と大きな期待のもとに設計されたに違いない。
 そしてもちろん、天皇陛下が利用される駅にもなる。

 皇居に向かって辰野金吾が土俵入りしている姿なのだという人もいるほどの立派なこの駅舎は、唐津藩の超下級武士の家に生まれた辰野金吾の、栄達の極みを象徴する建築物でもあったのだ。

 その東京駅の竣工当時の姿がこれ。

 これじゃあその豊かな色彩がわからないだろうから、こちらもどうぞ。


中央停車場建物展覧図(交通博物館蔵)

 それはそれは見事な、当時は世界有数の駅舎だったのである。
 たしかに、真正面に皇居に向かい、両翼を広げたその姿は、まさに横綱土俵入り。

 ところが、この東京駅もまた、アメリカ軍の大空襲により、その3階部分と特徴的な屋根を失ってしまった。跡形もないほどに消え去らなかっただけでもよかったというところか。

 この駅舎見たさに皇居からテクテク歩いてきたわけである。
 やがて、巨大ビル群のなかにあってはかなり異質の、赤い建物が見えてきた。おお、あれが東京駅か!!

 ……しかし僕は、初めて見る東京駅を前に、それがあるものに似ているなぁという感想を抱いてしまった。
 そのあるものとは……

 
昔のゴミ焼却場

 ああ、建築界の父の作品が、島の旧チリ捨て場に似ているだなんて!!

 ま、美術とは「わかる」ものではなく、「感じる」ものなのだから仕方がない。

 チリ捨て場とは一味違うところを間近でじっくり見てみようと思いたち、もっと近づこうと思ったら………
 なにやら工事中のようだ。
 なんてことだ、中央口付近にはニョキニョキとクレーンが建ち並び、あろうことか工事現場の柵があちこちに。どうやら地上部分で利用できるのは出入り口だけらしい。

 うーむ………。

 あとでわかったことなのだが、戦災で失われた3階部分とかつてのドーム型の屋根を復元することが決定し、その工事が現在行われているのだという。
 バブル期にはこの駅舎の取り壊しが検討されるほどだったというから、やはりほんの少しくらいは、時代はいいほうに向かっているのかもしれない。

 東京駅を間近で眺めることを諦めた我々は、ともかく腹が空いていた。
 そりゃそうだ、朝ホテルを出てから、乃木神社、そして皇居と歩き回り、時刻はすでに午後1時。腹が減らないはずがない。

 時間さえあれば迷うことなくこのあとは築地まで行くところだったものの、前述のとおり今宵にイベントを控えている我々にはあまり時間が残されていない。
 かといってこの方面での「江戸を喰う」的情報が皆無だったので、とにかく食べ物屋ならたくさんあるだろう的丸ビルに入った。ちょっとだけ期待することもあったのだ。

 で、入ったのは、アジア料理が食べられるCITA−CITAというところ。
 天麩羅やそばといった日本食系がどこも空き待ち状態で客がいたというのに、さすがにこの時間帯にこのあたりをヒマそうにウロウロしている世代にはアジア料理はまだ遠い存在なのか、すぐに座れた。
 タバコを吸わない旨伝えると案内された席はもちろん窓際。そしてその窓から……

 東京駅が見えた!!
 そう、実はこれを期待していたのだ。

 手前の換気口(?)が邪魔っけだけれど、本来の中央口が写真左端になってしまっているけど、ゼータクは言っていられない。
 ともかく、ここに座れたおかげで、歩き回って疲れた体を休めつつ、お腹が減って倒れそうな体に栄養補給しつつ、念願だった東京駅の赤レンガ駅舎を、存分に眺めることができたのだった。

 もちろん、これつきで。

 この稿で東京のアジア料理やについて書いてもしょうがないので詳述はしないけれど、さすがに丸ビル内の店舗だけあって美味しかった。僕のワガママにつき合わされ、電池が切れかかっていたオタマサもたいそうご満悦である。

 いつものように昼間からいいコンコロもちになっているわけだが、まさかこの日このビルの上階で働いているクロワッサンゲストがいらっしゃろうとは夢にも思わなかった。すみません、昼間からビール飲んでます……。

 ところで、さすがに都心のお店、ウェイトレスやウェイターも洗練されている。やはりこういうところでは、そういったサービス業がプロフェッショナルな稼業として欧米並みに確立しているようだ。

 ただ、このCITA−CITAに限らず、羽田空港到着時にバス待ちの間に入った空港内のカフェでも感じたのだが、都内のこういう感じの飲食店の雰囲気は、「ここは沖縄です」って言われたら、ああそうなのかぁって納得してしまいそうなほどに、まったく差を感じない。昔なら、絶対にそんなことはなかったのに…。

 近年、沖縄の、特に都会のお店が洗練されてしまいすぎているからである。だんだん東京のお店と変わりがなくなっているのだ。

 そりゃ、地元にいる者としては便利になってヨゴザンショってところだけれど、これ、観光地としてはどうなのだろう?国際通りがバカみたいにコンビニだらけになっているのと同じくらい、旅情という意味でかなり質が下がっているのではなかろうか。
 おまけに!!
 さすがに深川めしとかどうじょう鍋ともなると毎日食べるわけにはいかないエクスペンシブさながら、こういったランチやコーヒーとかになると、もはやほとんど那覇あたりの店とお値段が変わらない。
 スープと前菜、ライス付きのランチで1000円ほどですぜ。この丸の内で。
 今那覇でそういったランチを700円くらいで食べられるとしたら、食材はすべて中国産であるといってもいいかもしれない。
 それくらい、沖縄の飲食店の値段は上がっている。

 ランチだけではない。
 飲み屋だって、ちょっとこじゃれたところに行ったら、東京で飲むのとそう変わりはない。

 沖縄での、特に都市部での値段が上がっているなぁということには気づいていたものの、東京での値段が予想以上に安かったので、かなり驚いた。というか、これって実はホントに深刻な問題なのではないのだろうか………。

 それとは別に、これまた不思議なことに、東京、埼玉、福島で今回それぞれ外食した結果、どういうわけか沖縄と決定的に違うことが一つだけあった。

 テーブルにナプキンの束がないのである。食事後に口を拭くための、ティッシュのようなあれが。
 喜多方のラーメン屋では、ティッシュさえ置かれていなかった。

 ティッシュさえ置いない飲食店なんて、沖縄にはまずないといっていい。
 これって、今流行のエコエコアザラクなの??
 それとも、単に経費節約のため??

 後日那覇に戻ったおり、営業終了間際のさく菜やさんに立ち寄ってみたら、やはり当然のようにナプキンが置かれてあった。
 ひょっとして飲食業界では有名な話なのだろうかと思い、この道4年のプロフェッショナルさく菜やさんに訪ねてみたところ、

 「さぁ………。全然知りませんでした」

 うーむ、ナゾだ……。
 誰かご存知の方がいらっしゃいましたら、是非ご教示くださいませ。

 というわけで、今回の東京探訪「江戸名所図えッ!?」は、ひとつナゾを残しつつも無事に終了したのだった(ちなみにこのタイトルは「江戸名所図会」のパロディです)
 惜しむらくは、もう少しじっくりゆっくり、時間を気にすることなくのんびりしたいところではあった。が、なにしろ夜の予定が詰まりすぎていた。
 よくよく考えたら、今回は都内に合計5泊したというのに、一度として我々2人だけで過ごした日がない………。一日くらい、どこかでゆっくり飲めても良かったのに。

 そうだ!!
 これからは行き先を告げずに出発すればいいのだ!!

 そうか、その手があったのか………!!

 ところで、今回こうして都内の一部をテクテク散歩してみたわけなんだけど、無知なる僕は一つ重大なことがわかってしまった。

 ある程度とはいえ、僕はこれまで東京都内、それも江戸時代の歴史小説に出てきそうな地名は知ってはいた。ただ、僕の田舎モノ的オボロゲな距離感では、それぞれの土地は遠かった。
 たとえば鬼平の火付盗賊改方の同心が、自分の受け持ちの範囲を見回りするとする。するとその同心(たとえば忠吾とか)は、上野あたりまで足を伸ばすことなどざらだし、鬼兵本人がしばしば本所や深川あたりまで歩いてやってくる。
 それらを読んでいて、

 なんともまぁ、遠路はるばる足を延ばす人たちなんだろう!!

 その健脚ぶりに感嘆していたわけだ。
 ところが、今回皇居をグルリとまわってみたのをはじめ、チョコチョコッと地図を見ながら歩いているうちに、いろいろわかってしまったのだ。
 たとえば桜田門から深川あたりなんて、せいぜい3〜4キロ程度しかない。清水門あたりから上野なんて、3キロあるかないか程度だ。フツーに歩いても、どちらも半刻もかからない。

 どうやらこれまでの僕は「飯田橋」とか「神田」とか、それぞれの地名を、なんとなく一つの市町村レベルの面積にイメージしてしまっていたようだ。だから、今回皇居の千鳥ヶ淵から見たら飯田橋まで1キロも無いことを知り、僕はひどく狼狽してしまった。

 東京って………小さい。

 なんてことだ。
 これだったら、もっともっと時間があれば、昔の人のように江戸市中を隈なく歩いてまわれるではないか。
 歩いてまわれば、さらに魅力溢れる「江戸」を発見できるに違いない。
 そのためには、頭の中身を豊かにしなければ。頭の中身が一つ豊かになるだけで、目に見えている景色はいっそう素晴らしくなるのだから。

 ……といいつつ、そのベクトルはいつも「食べ物」に向いてしまうんだよなぁ。

 というわけで、いつになるかわからない次回のために、もっと「江戸」と「東京」を知ることにしようっと!