本編・10

ベテルスロッジ

 軽やかに舞い降りた滑走路の脇には、3名ほどの人々がカメラを抱えて集っていた。
 どうやら、この飛行機の雄姿を撮影しようとしていたようだった。遠目からではあったが、それ一事で彼らが日本人であることがわかる。
 団体客がいたらどうしようという不安は、3名だけの姿を見て解消された。

 その彼らのそばに、これまでネット上の写真で何度も見ていたベテルスロッジがあった。本当に滑走路のそばにあるのだなぁ…。ムースの角が、誇らしげに並んでいた。
 ほらほら、あれがロッジだよ、と、うちの奥さんに示した。もしかするとロッジの姿形すら知らないんじゃないかと思ったのだ。さすがに彼女も1度や2度はすでに目にしていたようだった。

 飛行機を降りた。
 さ、さ、寒い…………。
 これが北極圏の寒さか。これがアラスカの冬か。
 とにかく寒い。
 上着はともかく、下はウィンドをブレークするものを履いておらず、ジーンズの下は薄手のハイテクパッチだけだったからとにかく寒いのである。
 飛行機のそばには黒い犬がやってきていた。そして、4駆のトラックも。そのトラックで、宿まで荷物を運んでくれる。
 「私がお迎えのスタッフなので、では一緒に……」
 というヒサさんに導かれてメインロッジに向かった。メインロッジであれなんであれ、寒くてたまらないので一刻も早く建物の中に入りたかった。

 人口50人ほどのベテルスには他にも宿泊施設があるけれど、有名なのは当ベテルスロッジである。
 このベテルスロッジは最初からロッジとして建てられているのに、国が定める大変由緒ある歴史的建造物であるという。民宿大城が100年後に国指定の歴史建造物になるようなものなのだから今ひとつピンと来ない。それもこれも、国自体にそれほど長い歴史がないアメリカだからだろうか。

 一応、敬意を込めて襟を正し、ヒサさんに案内してもらってロッジに入った。
 飛行機から降りて150歩くらいのところだった……。

 ここのオーナー夫妻はダン&リンダという人たちであることはネットの旅行記を読んで知っていた。けれどオーナー夫妻は今の時期はフェアバンクスにいるという。
 代わりに番頭として頑張っているのはピートだ。
 生まれ故郷を遠く離れてアラスカでわざわざ暮らしている白人というのは、てっきり西部劇に出てくるカウボーイのようにキリリと引き締まった肉体の持ち主なのかと思っていた。けれど我らが番頭ピートは、牛は牛でもどちらかというと牧場主のような、どこか牧歌的なファットマンだった。

 ヒサさんがとりもってくれつつ、彼にバウチャーを手渡した。さあ、最後の関門である。頑張れトランスワールド。
 ………ここでもちゃんとバウチャーはその機能を発揮してくれた。

 それにしても、やっぱりピートも言葉が早い。ナイストゥミーチューのあとは、いったい何を言っているのかさっぱりわからないじゃないか。アメリカンって誰もがみんなこんなに早口なんだろうか。
 僕らが聞き取れないように、彼も日本語は不得手であるようだった。
 母音が子音のあとに必ずつく日本名の発音が難しいのか、自己紹介で僕ははっきりとSATOSHI UEDAと言ったのだが、それ以降最後まで僕はピートに
 「SATO」
 と呼ばれることとなった。ヒサさんも本当はヒサヨさんなのだが、同じ理由でそうなっているのだろう。
 ところがうちの奥さんはちゃんとMASAEと呼ばれていた。連続する母音は発音しやすいのだろうか……。ま、マサと略されるとでっかいプロレスラーのようになってしまうけど…。

 トラックに乗せられた荷物が宿泊棟に届くであろう時間まで、ここでしばらく説明を受けつつ一服することにした。
 ここはメインロッジで、夏場は宿泊客を泊めることがあるのかもしれないが、今の時期はおおむね食堂&休憩所、そしてオーロラ観察時の待機所となっている。
 お土産コーナーがあり、そこにある冷蔵庫には、各種ビールやジュースがズラリと並び、棚にはバーボンからスコッチからワインから、ありとあらゆるお酒が圧倒的な量で並んでいた。とにかくビールの量に安心する我々。
 コーヒーメーカーのコーヒーや紅茶はもちろんのこと、冷蔵庫の中の缶やペットボトルのソフトドリンクやミネラルウォーターまでが飲み放題というのには驚いた。こういうところでは、ビールよりもジュースや水が高い、ってこともよくあるのに。

 おっと、大事なことを忘れていた。
 防寒着アラスカンスペシャル・オールセットを借りねばならない。
 サイズの見当をつけて地下倉庫からヒサさんが持ってきてくれた。
 アラスカンスペシャルである。
 だが、上着は僕が着ているものと防寒的には大差ないようだった。というか、これは昨年の北海道旅行のために、以後10年着ると決意して購入したものなのだが、北海道で着るにはあまりに大げさなものだったということらしい……。

 強烈だったのは僕の靴。
 うちの奥さんのものは、なかなかおしゃれな、そのまま街をうろつけそうなものだったのに対し、僕のは色こそ違え、まるでミッキーマウスの靴のようなのである。分厚い靴下を履いたり中にカイロを入れたりするためにやや大きめのサイズを希望したこともあって、なんだか着ぐるみの足のようになってしまった。
 実はこれ、米軍の寒冷地用の靴。
 朝鮮戦争の際に極寒地戦用に開発されたそうで、その名も「バニーブーツ」という。ミッキーの靴と思ったのも見当違いではなかった。
 名前はバニーちゃんながら、その防寒の実力は地上最強の防寒靴とまで言われているそうな。なんでも、マイナス40度以下で靴の中に雪が入って靴下がビショビショになっても、まったく寒さを感じないというのだ。
 それがホントかウソかはともかく、すでに製造が終わっているというのに、今でもアラスカでは最強最高の防寒靴として重宝されているという。ニコノスV型のような名品なのだ。

 そろそろ荷物も届いているだろうということで、宿泊棟に案内してもらうことにした。
 由緒あるメインロッジから雪の小道をテクテクテクと2、3分歩いたところにあるその離れは、オーロラロッジと名づけられた比較的新しい別館だ。
 雪に埋もれていて、いったいどこからどこまでが滑走路で、どこからどこまでがこのベテルスロッジの土地なのか、慣れない僕らにはさっぱりわからなかったけど、とりあえずこのあたりの建物はどうやらみなベテルスロッジの建物であるらしい。

 さて、オーロラロッジ。
 なんと室内にはジャグジー付きの浴槽が備えられている!!
 それもなんというか、ベッドの位置からみると、まるで日本間の床の間のような場所に唐突に…。なんとも不思議な存在感だが、滞在中、冷え切った体をたっぷりと湯船で暖めることができた。
 その他、洗面台も、普通の人間には考えも及ばない位置にドデンと設置されていて面白い。なんか順序として、部屋を作ってトイレの位置も決めて……ここにジャグジーを置こう!って決めたら洗面台を置く場所がなくなった……って感じである。なんか沖縄っぽい。

 このオーロラロッジにも、巨大なムースのトロフィーが飾られた広いロビーがあり、冷蔵庫のジュースは飲み放題、コーヒーメーカーは好きに使ってよし、電子レンジもなんでもかんでも、とにかく自由に使ってくれという。
 まことに大らかな場所である。
 そこに我々の荷物が届いていたので、部屋に戻りようやく本格的に旅装を解いた。
 これから5日間ここで暮らす。
 すでになんの不安もなかった。