本編・11

それは突然現れた

 短期間の滞在では、そこでいかにペースをつかむかがリラックスへの道につながる。
 特に、寝泊りする場所周辺の早急なる状況把握は重要な要素だ。
 どこに何があって、何をするにはどうするのか、ということを早く知ることによって、滞在中の時間がとっても有意義になっていく。
 ……と思っている我々は、いきなりつまづいてしまった。
 周囲をちょっと散策してから部屋に戻ってきたときのことである。部屋の鍵を開けようと思ったら、鍵はビクとも動かない。
 1度はちゃんと開いたので、鍵が違うってことはない。
 何がどうおかしいのかさっぱりわからないまま鍵と奮闘していると、さっき滑走路の脇にいた同宿のコービィ石橋さん(日本人)が通りかかって、
 「鍵は特にかけなくても大丈夫ですよ……」
 といった。彼はすでにいちいち鍵を開け閉めするのが面倒になってしまったそうだ。
 そうだよなぁ。渡されたから使ったけど、これって民宿大城で鍵を使っているようなものだものなぁ……。
 彼にも試してもらったが、やはり鍵は開かない。こんなところで鍵と格闘するよりは早々とヒサさんにでも泣きついて開けてもらったほうが話は早い。
 というわけで、コピーではなく元の鍵を手にした彼女によって扉は開いた。一応その鍵と交換してもらったけれど、これ以降、部屋に鍵をかけることはなくなった。

 低弾道を描く極北の太陽は、飛行機で到着したときからすでに今にも沈みそうな位置にあったが、これがなかなかしぶとい。下ではなくて斜め横に進むので、地平線すれすれでずっと頑張っている。
 そのため、沈む前と沈んだあとのいわゆる夕焼けの時間がとても長い。
 澄んだ空気に満ち溢れるこの夕焼けの美しいことといったら……。
 遠く北に臨むブルックス山脈が、ホント、絵に描いたような、フォトショップで画像処理をしたデジカメ写真のような、一目見ただけで思わず涙が出そうな美しいたたずまいを見せるのだ。長く続く夕焼けは、この雪を頂いた純白の山々の色合いを徐々に徐々に変化させていく。
 この山々の色合いの変化を
 アルペングロー(
Alpine glow
 というのだそうだ。
 この荘厳なる山並みを境に、タイガとツンドラが隔てられている。あの向こうはもうツンドラの大地。そしてその緩やかな斜面は、まだ見ぬ北極海へと続いている。

 あらかた持ってきた荷物や部屋の周囲のチェックを終え、ロッジに向かった。ロッジのロビーはのんびりだべっていられる場所のようなので、コーヒーでも飲みながら夕食を待とう。
 この、ロッジからロッジへの移動に上着完全装備で臨まねばならないというのが面倒くさい。
 けれど面倒だからといって薄着で行くと、おそらく志半ばで雪に倒れることだろう。

 ロッジの入り口にかけてある寒暖計は、マイナス10度を示していた。
 昨夜のフェアバンクスよりも気温があるのか………。
 それにしてはメチャクチャ寒い。風があるせいで体感温度はガクンと下がるのである。

 外は寒いが、建物の中はとにかく全館暖房である。
 だから、着て脱いでの繰り返しになる。着るものがいちいちでかくかさばるし、そのうえ手袋や帽子といったコマモノもあるから、それらは何度も何度も行方不明になった。冬であってもスウェット程度で過ごすことがもっぱらの我々には、それだけで大変な労力だ。

 夕食は6時からということだったので、その前にひとっ風呂。
 部屋には床の間風呂ジャグジー付きがあるにはあるが、それにはシャワー設備がないうえに「床の間」なので、湯船でジャブジャブ水しぶきをたてられない。
 必然的に、部屋の外にあるシャワーを浴びることになる。湯船はもっぱらオーロラを見終わった後、冷え切った体を暖めるために使った。
 さてこのシャワーおよび風呂。
 ロッジの説明中、
 「水は……飲めないことはないけど、直接飲んだらまずいです…」
 とヒサさんが言っていた意味は、シャワーを浴びるとすぐにわかった。
 シャワーを浴び始めたときのことである。顔をバシャバシャッと洗ったら、鼻血の匂いがした。
 なんだ俺、そんなに興奮しているのか??
 しかしあわてて手の平を見たけど血はついていない。
 あれ???

 ………お湯の匂いだった。
 水道は地下水を利用しているのだが、配管のせいなのかそもそもがそうなのか、鉄分がものすごいのである。人間の血に含まれている鉄分と同じだけの量であることは間違いない。
 それは部屋の湯船を使ったときにさらに明らかになった。
 お湯を張ると、湯船は出がらしの紅茶のように薄く色づくのだ。おまけにジャグジーを使うと、そういった鉄分の澱のようなものが
 ジョジョジョジョッジョワー…………
 とパイプの内側から噴出するので、湯船の中はティーパックが破けてしまった紅茶のようになってしまう……。

 という話を聞き、途端に眉をひそめてしまう日本人は多いかもしれない。
 それこそが、空港の床で寝転がったりできない国民的美意識かもしれない。
 でも、赤く色づいた温泉にはありがたがって入るではないか。桜島にある温泉はここ以上に茶色く濁っていたぞ。
 ………成分の違いに差はあれど、鉄骨飲料に浸かっていると思えばいいのである。
 我々は心地よく利用した。

 鼻血シャワーで旅の垢を落とし、6時前からロビー兼食堂でだべっていると、先客である3人が徐々にやってきた。
 タケウチ夫妻と、先ほど鍵騒ぎのときにアドバイスをくれたコービィ石橋さんである。
 とりあえず周囲の状況を把握してペースをつかもうとしている我々にとって、すでに客としてここで経験を積んでいる方々の話は大変ためになった。1日かけて得られるかどうかということを、夕食時の短時間ですべて把握してしまった。
 タケウチ夫妻は翌日ベテルスを発つ予定だったが、コービィさんにはこのあとずっと世話になることになる。

 今日の宿泊客はこの4名だけだった。
 夕食時にはテーブルがセットされていて、広いロビー内を広く使って4名は点在した。でも他に誰もいないので、結局テーブル越しに話をする。
 ヒサさんが、飲み物のオーダーを取りに来た。
 オーダーといっても、ソフトドリンクはただなのだが。
 もちろん我々は最初から心に決めている。
 アラスカン・アンバーだ。
 フェアバンクスのストアで買うよりやや割高ながら、この琥珀色の液体を一口でも飲んでしまえば食事のときに手放せなくなる。
 それほどに美味しいビール、他のみんなももちろん飲むのだろうと思っていたら、ビールを飲むのは我々夫婦だけであった。なんで??
 なんでも何も、みんなオーロラを見に来ているのだ。夜酔っ払っていては話にならない。
 それに、タケウチさんの奥さんはいけるクチらしいけど、だんなさんはからっきし弱いらしい。コービィさんも最近弱くなっちゃって……という。
 みんな、なんて健康的なんだ…。

 再びヒサさんがやってきて、サラダにかけるドレッシングのアンケートをとった。
 「フレンチか、サザンアイランドか、ブルーチーズか………」
 迷わず
 ブルーチーズ!!
 というと、みんないっせいにブルーチーズを選んだ。そのため、ブルーチーズはこの日で売り切れになってしまった……。

 昨夜、あまり期待していなかったフェアバンクスでの食事がけっこう満足のいくものだったので、宿の食事にも多大なる期待を寄せたいところではある。けれど、なんといってもここは北極圏の村。物資が限られている中で、そんなゼイタクを言っている場合ではないに違いない。まさにこういう場所こそ、
 食えりゃいい……
 のだ。

 と覚悟していたら、初日の夕食はいきなり人生のヨロコビとシアワセに満ちた一品であった。

 ムースのシチュー!!

 あくまでもここはロッジなので、前夜のカリブーのシチューのような、よそ行き顔で取り澄ました盛り付けではない。とはいえ、その魅惑の味はカリブーを軽く凌駕していた。
 うちの奥さんいわく、
 くどくなくてGood!!

 ムースとはヘラジカのこと。アラスカの動物といえば誰もがまっさきに思い浮かべるであろう動物で、鹿の仲間の中では最大。熊よりも大きい。ちなみに、このアラスカ旅行記のページの背景にしているシルエットはムースなのだ。
 昨夜食べたカリブーと今日のムースとの肉質は似ていた。牛肉に比べるとやはりアッサリしている。
 カリブーやムースを食べた感想で、
 「ややくさみが……」
 という話を目にしたこともあったけれど、普段からアヒルやヤギを食べている我々には、においもクセも何にも気にならない素敵な肉だった。

 昨夜のシチューがやや塩分大目の味付けだったのに対し、このムースのシチューはとても素朴な地元の料理って感じだった。シチューの味でいろんな具の味が消されていないから、ジャガイモやセロリ、人参などを味わえる。
 ピートが切ったこれらの野菜は、彼の体格同様にとってもでかかった。でも、昨夜のシチューはジャガイモが皮付きだったのでビックリしたけど、ピートはちゃんと皮を剥いていた。

 これがまぁ、ビールに合うこと!!

 これをたった1本のビールで済ますにはあまりに惜しい。迷わずもう1本。
 ウーン…。このまま心地よく酔ってそのまま眠ってしまってもいいや………
 目の前に「チョコン……」と鎮座する欲望という名のヨロコビにより、僕のオーロラは遠く地平線の向こうに去っていこうとしていた。

 そのときである。
 夏場はナチュラルガイド、冬場はロッジのよろず雑用係である青年ラッソル(ラス)が、ロビーに入ってくるやいなや、

 「ヘイ、ガイズ、オーロラが出てるぜ!」

 と言った。
 午後6時30分である。日本ならまだ宵の口ともいえない時刻。
 ところがここアラスカでは、すっかり夜の帳が下りようとしている。
 まだ食事中ではあったが、すぐにみんなで外に出てみると………

 オーロラだ!!!

 夜空に、淡くつましく輝く緑色のオーロラが浮かんでいた。
 夢にまで見た……という言葉にまったく説得力がないけど……オーロラに、いともたやすく、ビールを飲んでウハウハしている最中に出会ってしまった。
 生まれて初めて洋上でザトウクジラを見たときのように、人生初のオーロラを目にしてしまえば、目に涙を浮かべてしまうのではないかと密かに危惧していたのだが……。
 感慨とか興奮とか、そういった心の準備はまったくなかった。
 規則が変わったために突然名球会入りが決まった佐々木の気分はきっとこんな感じだったのだろう。

 ほろ酔いで眺めるオーロラは、星々の羽衣であるかのように、ゆらゆらと妖しく天に舞っていた。