本編・18

北極圏でやってみたかったこと

 昨日とはうって変わり、この日1月23日は朝から快晴だ。
 そして、昨夜マイナス30度に達していた気温は、さらにもうひとふんばりしてマイナス31,5度になっていた。
 雲ひとつない空いっぱいに満ちる空気は、指ではじけばピンと音が出るほどに厳しく冷えている。おかげで朝から鼻毛が凍る。なんだかもう、寒いという言葉ではとうてい表せない気がする……。

 極北の午前10時の朝焼けは美しい。
 そしてほんの少し明るくなったかと思うと、そのまま夕焼けに突入する。
 まるで、クレヨンしんちゃんの映画に出てくるオトナ帝国のように、ずーっとずーっと穏やかな斜陽の風景なのだ。
 冬至近辺の暗い日々をのぞくと、冬は始終こうである。厳しい寒さにもかかわらずこの地の人々が大らかでのんびりなのは、ひょっとすると斜陽がかもし出すこの穏やかな風景が一役買っているのではなかろうか。
 アルペングローに色づくブルックス山脈を見つつ、凍った鼻毛をカピカピさせながら僕は一人うなずいた。

 一方うちの奥さんは、ヒサさんからあるものを借り受けていた。
 釘である。
 まさかここでガーデニング作業をするのではない。
 北極圏にきたら、ぜひやってみたかったことがうちの奥さんにあったのだ。
 昨年のスキー旅行での彼女の3大目標は、
 ゲレンデでビールを飲む
 ゲレンデで雪だるまを作る
 雪の中に倒れこんで埋まる
 であった。
 はたしてこの北極圏では……

 第一回!バナナで釘を打とう!!(パフパフッ)

 モービル1のCMをご記憶だろうか。
 零下何十度でも凍らないオイルの宣伝である。
 そのCMでは、寒さを画面で表すために、凍ったバラの花をパリパリパリッと割り、そしてバナナで釘を打っていた。
 ぬかに釘とはうちの奥さんのことではあるが、彼女がやりたいのはバナナで釘だった。

 しかしそれには問題が。
 釘はともかくとして、バナナはどこで手に入れればいいのだろうか……。
 日本から持っていくってのも変だし(泡盛は持ってったけど)、かといってベテルスで手に入るとは思えないし。
 チャンスはフェアバンクスにしかないと思っていた。
 ところが、英会話で疲労の極にあった我々に、バナナのために遠出するという気力はもはや残ってはいなかった。

 すっかりあきらめていたのだが……。
 なんとロッジのご自由にお取りくださいコーナーに、各種フルーツに混じって新鮮なバナナが一房ドドンっと置いてあったのである。

 で、昨夜のうちに外に置いておいたバナナを手に、釘をもらってついに実行にうつすこととなった次第。

 さあて、あのCMは真実だったのか!?

 真実だった!!
 本当に、バナナは釘が打てるほどにカチンコチンに凍っていた。

 我々が帰るまで玄関先で凍らしておいたこのバナナは、帰り際にヒサさんの手に戻っていった。これでバナナマフィンをつくるということだった。

極北の米軍

 バナナで釘に大変満足しつつ、酸味がさわやかなブルーベリージャム入りパンケーキの朝食を食べ終え、コーヒーを飲みながらゆっくりしていた。別に行動をともにしているわけではないのだが、眠る時間と起きる時間に大した差がないので、ほぼ毎日コービィ石橋さんも朝食時には一緒にいる。配膳や厨房の仕事を終えたヒサさんともども、この時間はこの地にいる全日本人が歓談していた。
 ときおりピートもやってきては、なにかとケアしてくれる。

 こういう何気ないひとときにも、ロッジには入れ替わり立ちかわり人がやってくる。
 みんな気安くピートやヒサさんやラッソルたちと話しているので、当初はてっきりロッジのスタッフなのかと思っていたのだが、前述の通りこの時期のベテルスロッジは3人。
 ではいったい何しにやって来ている人たちなのかというと、酒を買いにということもあるけれどほとんどの場合ただ単に話をしにきているだけに見えた。ちょっと近くまで来たからって感じだ。
 ブイーンとスノーマシン(スノーモービルとは言わないらしい)でやってきて、ビールか酒かを買い、再びブイーン…と去っていったおばちゃんもいた。
 まるで水納島の夏期限定人気カフェ、ティーダのようだ。

 そのような「ちょっと近くまで来たから」的に、飛行機までやってくる。
 ベテルスロッジは、ベテルスエアーサービスというのも運営しているのだが、この時期は飛行機を飛ばしてはいない。春から秋のシーズン中には、ゲストを自然の真っ只中へ案内しているそうだが、この時期は着水すべき湖が雪に閉ざされているので、フロート付きは使えない。
 そんなわけで飛行機は飛ばさないベテルスエアーサービスだけれど、飛行機への燃料サービスはしている。
 滑走路の傍らにガソリンやジェット燃料などの給油マシーンが建っている。近くに来て燃料が必要になった飛行機は、エンジンの音も快調に飛来し、給油するのだ。
 給油は、もちろん冬期よろず雑用係ラッソルの仕事だった。
 その間、名高きブッシュパイロットは、ロッジに来て
 「最近どうだい?」
 なんていいながらコーヒーなどを飲んでいる。
 飛行機版サービスステーションなのである。

 この日も、ベテルスエアーでサービスを受けるべく、飛来した機体があった。
 しかしなんだか音が違う……。
 滑走路を滑ってくるそれは……
 なんとヘリコプターだった!!
 車輪の代わりにスキー板を履いたようなツインローターのヘリが、ローターを思いっきり回しながら給油所に近づいていた。
 傍らにいたピートに、ヘリだ!!というと、
 「うむ。あれはパイプラインを定期チェックする米軍のヘリだ」
 といった。

 米軍ヘリだったのだ。
 畠山アナウンサーが現れた。
 「それでは、軍事評論家のエバタ・ハギチブル・ケンスケさんにお話をお伺いします。
 エバタさん、このヘリコプターは……」
 「これはボーイング・バートルCH−47チヌークです。米陸軍の空中機動部隊のために開発された大型輸送用ヘリコプターですね。日本でもCH-47Jの呼称で陸上自衛隊と航空自衛隊がしようしております。搭載量およそ10トンの巨大な機体と、胴体前後にローターを持つタンデム形式が大きな特徴で、兵員44名または担架24名分と看護員2名の搭載が可能です。もちろん全天候の飛行能力をもってます。あのスキー板上のものは寒冷地仕様ですね。おそらくオイルはモービル1でしょう……」
 「エバタさんにお話をうかがいました」

 水納島でも米軍ヘリは上空を飛来するけれど、ここでは着地して給油までする。
 燃料を補給するのはヘリだけではなかった。
 せっかくだから表に出て間近で見ていると、パカンと開いた後部ハッチから、まるでヤッターワンの口から出てくるなすびロボットの団体のように、ゾロゾロと米兵たちが出てきた。
 給油に来るブッシュパイロットと同じく、彼らもまたロッジまで来て、自分たちの燃料を補給するのである。突如飛来し、突如ロッジまで来て、
 「12人分の食事を頼めるか?」
 だって……。にわかに忙しくなるロッジの厨房。しかしピートたちの対応を見る限り、どうやら特別なことではないようだった。

 一方、給油を受けるヘリは、暖機運転のためになかなかローターの回転を止めなかった。思えば米軍のヘリにこれほどまでに接近するのは初めてで、二刀流のローターが起こすダウンウォッシュの、極北のブリザードもかくやというほどの凄まじさを初めて味わった。
 ようやく回転が止まったので近寄ってパシリ。
 写真をのんきに撮っているのは僕だけではない。
 給油中の様子を米兵自らが撮っていたのだ。そのほか、ロッジに行った連中もけっこうカメラを手にしていて、ロッジの壁にかけられているオーロラの写真を見ては、
 「おー、これがオーロラであるか」
 と珍しがっていたという。みんな新米の兵隊さんのようである。
 明日をも知れぬイラクで軍務を敢行している米兵もいれば、こんなところでカメラを構えて観光している米兵もいる………。