27・福江島ドライブ・4〜火山の島〜

 前日来のナゾを解決し、レンゲの懐かしさに心打たれつつ太田海岸をあとにし、再び車を走らせる。

 そしてこの日も来てしまいました、富江町。

 しかし今日はさすがにコロッケに執着していないので中心街までまっすぐ行くことはせず、福江島の南にポコンと突き出た富江半島を海沿いに走らせてみることにした。

 山がちな福江島は平地が広がるところはあまりないのだけれど、ここ富江の南部一帯は、小高い丘がある程度の平坦な地形で、一望田畑という景色が広がるところでもある。

 前日寄ったJAの産直市場のレジの女性によれば、五島ルビーは富江あたりで作っているのではないか、ということだった(自信なさげではあったけれど)。

 やはりハウス栽培だろうか。
 五島ルビーのふるさとも観てみたいなぁ。

 というおぼろげな希望を抱きつつテキトーに海に沿って道を進んでいると、畑で目立つ色はルビー色ではなくてグリーンだった。

 行きの飛行機で上空から見た福江島は、枯野が多いかと思いきや、畑地に緑が多いのが意外だった、ということはすでに触れた。
 で、その緑の正体はいったいなんだろう…という謎があって、この日に至るまでの間に、牧草ではなかろうか、という判定がくだされかけていた。

 ところが。

 たしかに牧草地帯もあったかもしれないけれど、少なくともここ富江のグリーンランドは、これすべて麦だった。

 これを撮りながら口ずさんでいたのが、もちろんあの歌だったのは言うまでもない。

 はたしてこの麦、焼酎「五島麦」になるのか、はたまた五島うどんになるのか…。

 もっとも、五島うどんの需要をまかなえるほどに小麦の生産が五島列島で行なわれているわけではないらしく、近年になってようやく、五島産の麦で五島うどんを、という取り組みがなされ始めているという。

 その一環として、10年くらい前からJAが、五島うどんの原料に適した「ミナミノカオリ」という品種の作付面積の拡大を図っているそうな。
 その試作地の一つとして白羽の矢が立ったのがここ富江という話だから、この麦もひょっとするとそのミナミノカオリか?

 麦の鮮やかなグリーンもさることながら、随所で目にするハウスの中身が気になるオタマサ。
 しかしここまでは季節的なものなのか、ハウスの中はもぬけの殻というケースが多く、なかなか目当てのものに出会えないでいた。

 それがここでようやく、ハウスの中で実っているものに出会えた。

 

 曇ったビニール越しだからオボロゲだけど、これはトマト。

 五島ルビーの中玉じゃなく大きな玉のトマトだった。

 やっぱりハウスで大事に育てられているのだ。

 …というジジツがわかったのはいいとしても、ハウスの脇に車を停め、ハウスの中を覗き込んでいる姿なんて、傍から見ると限りなく怪しく、トマト泥棒以外のナニモノにも見えなかったことだろう。

 そんなトマトハウスのとなりの藪に止まっていた小鳥たち。

 カワラヒワだ。

 初遭遇時こそ目の色を変えたものだったけど、すでにこの時にはもう我々でさえ「フツーにいる鳥」と思えるようになっていた。
 いつの間にやら、旅も終盤になっているのだ。

 引き続き海沿いの道を行く。

 最南端を過ぎてそのまま進み、さらに海沿いへ近づく脇道にそれると、軽自動車じゃなけれりゃつらそうなサイクリングロードのような海沿いのステキな道になり、やがてたどり着くのが勘次ヶ城跡。

 遺構の正式名称としては、山崎の石塁跡ということになるのだそうだけど、地元では勘次ヶ城跡という名で通っているようだ。

 このあたりに中世の倭寇の拠点となっていた石塁があって、その石塁の復元模型というか、素材は同じダウンサイジングタイプが海岸縁に設置されている。

 これの実物が、この後背地に遺構として残っているという。
 あいにく木々が生い茂っていて、何がどうなっているのやらさっぱりわからない。

 さっぱりわからないといえば、海岸に唐突に出現するこの像も随分と意味不明である。

 勘次ヶ城の名の由来の大工、勘次さんだそうな。

 それにしても、倭寇の石塁の大工にしては、なんだか突拍子もない像だよなぁ…と不思議に思っていた。
 案内文が書かれたボードもあったものの、サッと読み飛ばしただけだったため、彼が大工であることしかわかっていないままである。

 幸い解説文を一応撮ってあったので、後日じっくり読んでみてビックリ。

 なんとこの勘次さんは江戸末期の腕のいい船大工さんで、お殿様からの下命で大きな船を造っていた最中に、突如行方をくらましてしまったのだとか。

 捜索の果てに玉之浦で発見された時には、彼はすっかり気がふれていて、その後この地にあった石塁跡に住み着き、「この石塁は河童とともに築いたものじゃあ」と村人に語りながら暮らしたとさ……

 …という、まんが日本昔ばなしのようなエピソードなのだった。

 つまり彼は倭寇とは時代からしてなんのカンケーもなく、伝奇以外に特に何を残したわけでもない気のふれたオッサンなわけで、そんなヒトの像をこの海岸にドドンと立てる意味っていったい……。

 しょうがない、かくなるうえは、おそらくこの地を訪れたヒトのマストとなっているであろう写真を撮るしかない。

 わからないといえば、現場ではわからなかったことがもうひとつ。

 駐車場近くに、海に矢印を向けた標識があった。

 八幡と書いて「ばはん」と読むなんて珍しいなぁと思いつつ、この海岸をそう呼ぶのだとばかり思っていた。 

 なにしろ先に「鐙瀬海岸」なる場所を訪れているものだから、同じく溶岩海岸のここもまたそういう名の海岸だと思い込んでいたのだ。

 ところが帰宅後どう調べても、八幡瀬海岸という名前がどこにも出てこない
 ここに至って、ようやくこの標識の意味を素直に理解することができた。

 そう、わざわざ矢印を海に向けているのは、すなわち矢印の指し示す方角にあるものを指示しているのだ。

 そこにはたしかに……

 瀬があった。
 傾いでいるように見えなくもない灯標まで設置されている。

 潮が引くと干出するこの瀬こそが、八幡瀬(ばはんぜ)なのであった。

 水納島の近くに「中の瀬」という瀬があるというのに、なぜにすぐさま気づかなかったのか……。
 八幡を「ばはん」と読むのは中国語読みに由来しているそうで、倭寇の拠点だったこの地らしい名が残っているそうだ。

 このときたまたま干潮だったから写真の片隅に写ってくれていたけれど、満潮だったら灯標しか見えないはずで、ナゾ解明までにはもっと時間を要していたかもしれない。

 干潮だったのが幸いしたのは、八幡瀬の正体を明かせたことだけではなかった。

 鐙瀬溶岩海岸同様溶岩でできているこの海辺、潮が引いていたからよりいっそう溶岩海岸らしい風景になっていて、タイドプールにいるギンポやハゼ、ヤドカリさんなども見ることができた。

 「鐙瀬の海岸よりも溶岩っぽい」

 と野生の直観を述べるオタマサ。
 言われてみると、たしかにより黒く見える。 

 そして沖縄同様この季節ならではなのだろうか、溶岩の上にはアーサがビッシリと茂っている。

 沖縄のアーサと同じ明るいグリーンではあるのだけれど、よく見ると微妙に質感が異なり、固そうに見える。

 違いを試すべくヒト毟りして齧ってみたオタマサによると、やはり沖縄のアーサよりも固いという。
 気温水温が低いと、細胞壁がよりしっかりするんだろうか。

 ポカポカと暖かい日差しを浴びつつ海辺にいると、それだけで心地い。

 振り返ると、ここからもザビエルの頭が見えた。

 100万年くらい前はまだ一面海だったところに、その後海底火山の噴火と隆起でできた五島列島は押しも押されもしない火山列島で、福江島だけでも岐宿火山、三井楽火山、福江火山、そして富江火山と4群もの火山群があるそうな。

 福江には鬼岳をはじめとする火山っぽい山がいくつかあるけれど、富江火山っていったって、周囲を見渡しても小高い丘のようなものがあるだけで、鬼岳のような山はどこにも……

 …と不思議に思って調べてみたら、富江火山は山の体を成していない珍しい火山だそうで、そもそも富江半島の平坦な土地は、これすべて富江火山に由来する溶岩平原なのだとか。 

 そりゃ海辺まで溶岩になってるはずだわ……。

 火山群が4つもあれば、いわば島中溶岩だらけなわけで、武家屋敷通りや石田城をはじめとする立派な石垣や階段に、また畑や田圃を段にする際の石垣に、溶岩が多用されるのも至極当然といえる。

 気象庁的に活火山認定されている福江火山群が最後に噴火したのは2〜3000年前だといい、以後噴火の観測例はないそうな。

 とはいえいつまた本気を出すか誰にもわからないということを思えば、鬼岳を軽々しく「ザビエルの頭」なんて言ってる場合じゃないのかもしれない。

 五島列島は火山の島だということを、今になって再認識させられたのだった(鬼岳の登山道周辺には、今もなお火山弾がゴロゴロしている、という話も帰宅後知った…)。

 海岸がこれほど溶岩だらけってことは、海中もまた溶岩だらけなはずで、その景観はきっと八丈島のような雰囲気なんだろうなぁ。

 まだ時刻は午後2時過ぎだったから、もう少しウロウロしてみよう。

 富江をあとにし、真反対の岐宿に行ってみる。

 レンタカーを借りた最初の日に一度訪れた岐宿。
 しかしあいにくの天気だったから展望台からの眺めはパスしていたので、この日の上々のお天気のもとで岐宿一帯を眺め渡してみよう。

 鬼岳の西を通過し、県道49号線を進んでいると、やがて国道384号に合流する。

 このあたりは空港から街に降りてくるときに通る道で、空港側の土地は崖状に切り立った地形になっている。
 実はこれは、鬼岳から流れ出した溶岩が作りだした溶岩台地の端の端だそうで、このままさらに先へ溶岩が流れていたら、福江市街の海抜はもう少し高くなっていたことだろう。

 やがて岐宿に到着。

 かつて五島氏が宇久姓だった頃に城を築いていた城岳という山があって、その頂上付近にある展望台から岐宿を一望できるという。

 展望台のちょい下くらいまで車で行けるから、クネクネと曲がりくねった細い道を進んでいると、駐車場に出た。
 そこからの眺めもすでに素晴らしい。

 岐宿半島の西側、すなわち魚津ヶ崎のあたり。
 遣唐使船団が寄港したところである。
 半島からキンギョハナダイの背ビレのように細くピヨヨンと岬が延び、そして周囲には小島だらけ。
 こうして見渡すと、このあたりの天然の良港ぶりがとってもよくわかる。

 遣唐使船団ならずとも、時化ている時にたどり着けたなら、地獄に仏級のオアシスに思えたことだろう。

 もう少し西側を見ると…

 連なる山々の奥に低く長く伸びている山は三井楽の京ノ岳で、ゆるくなだらかな山ではあるけれどこれまた火山。
 実は知る人ぞ知る、日本屈指のアイスランド型楯状火山なのだそうである。

 もちろん写真を撮っている時には、そんなことなど露ほども知らない。 今もなお、アイスランド型楯状火山って言われても…くらいのものだけど、それは水納島でジンベエザメを見たくらいの超弩級のインパクトらしい。

 とにかくスゴイのである。

 さて、この駐車場から展望台までは、階段を登る。

 また階段か……。

 エッホエッホと登っていくと、山頂に到達。
 NTTドコモの施設があって、アンテナの基部が展望スペースになっていた。

 その展望スペースから岐宿を見渡すと……

 絶景かな絶景かな!

 この岐宿半島が、すべて溶岩平原なのだ。
 というか、ドライブで福江島を周った半島は、ほぼほぼすべて溶岩平原だったのである。

 カーナビや道路地図の平坦描写の地図では全体像を掴めないけれど、グーグルマップを衛星写真モードにして福江島を見れば一目瞭然。

 ちなみに真ん中の窪み部分が、山内いちごのふるさと、山内盆地。

 五島を旅行するにあたって調べてみた観光情報では、鬼岳が火山で、鐙瀬溶岩海岸は鬼岳の溶岩が海に流れ着いてできたもの、という紹介がある程度だったから、福江全島がここまで火山火山している島だなんてことは、まったく想像もつかなかった。
 ましてや鐙瀬以外にも、島のあちこちに溶岩海岸があるなんてことは全然知らなかった。

 ジオパークという観点からすれば、福江島はなにげにひそかに日本が世界に誇れる火山島だったのである。

 そのあたりの方面のマニアにとっては、この福江島って実は相当興味深い島のようで、溶岩台地や溶岩海岸、溶岩トンネルといった火山が生み出した地形を含め、地元の多くの人々がその価値に気づいて「福江島の火山群」で推薦すれば、教会群よりも先に世界遺産になるんじゃなかろうか……。

 ここにきて島の姿がまったく違って見えてきた。

 しかし我々の旅は最終盤を迎えつつあり、そろそろレンタカーを返却しなければならない。

 福江に戻り、指定のスタンドでガソリンを満タンにしてから、池田レンタカーで車を返す。

 スズキKeiよ、悪路込みの2泊3日、これといったトラブルも無く快適に走ってくれてありがとう。

 お店の前に車を停め、事務所に入ってお世話になりました〜という話をしつつ、記念写真をお母さんと撮ったのはこの時のこと。

 結局借りる時は免許証のコピーを撮るだけ、返す時はガソリン満タン証明書とキーをお返しするだけという、手続きほぼ皆無のなんともゆったりしたレンタルシステムで、なおかつお会計では端数をオマケしてくださった。

 大手レンタカー業者ではまずありえない、地元業者ならではの有難さ。

 皆様、福江島にお越しの際は、是非是非池田レンタカーへ♪

 車を返したあと、ホテルに戻りつつ少し散歩をした。

 青空の下で光を浴びている常灯鼻。

 序盤に何度も眺めていたのに、こんなに青い空の下で観るのは初めてかも。

 福江川の河口の様子も、晴れ渡る空の下で眺めると、まるで別の場所のような気がするほどに穏やかで美しい。

 最後の最後でお天気に恵まれ、ドライブの日々は終了。

 いよいよ今夜は、五島で過ごす最後の夜だ!