27・神殿の谷・2

 晴れ渡る空の下、そよ風が吹く木漏れ日の下がとてつもなく心地いい。
 この木漏れ日を作っている木は、もちろんアーモンド。
 もう少し離れて撮るとこんな感じ。

 まるでお花見。
 ここで二人は白ワインをグラスで、僕はビールにした。
 そして……

 初パニーノ♪
 イタリア名物の軽食。
 ようするにサンドイッチだ。
 グルメの世の中なので、これまたパニーノならどこそこの何々が美味しいという情報がネット上には数多く飛び交っているものの、なにしろイタリアもシチリアも初めての我々。
 はたしてお味は?

 沖縄での生活と比べると、生野菜に関しては、勝負すれば確実に秒殺で勝てるほどの圧勝であることはいうまでもない。
 鮮魚に関しても、種類こそ違え、いい勝負をしている。
 しかしホテルの朝食でもそうだったように、パンにしろ中身のハムにしろチーズにしろ、基本的に我々が日本で普段食べているものの水準を大きく上回っているので、こんな観光地のバールのものですら、実に実に美味しい。

 というわけで、ときおりヒラヒラと散る花見をしながらのパニーノ&ランチービールは、まことにもっと心地良く、父ちゃんでなくとも、神殿めぐりをするのが億劫になってしまうほどだった。

 傍らで、ガットネーロがけだるそうにおこぼれを待っていた。

 このバールのすぐ近くにあるのが、コンコルディア神殿。
 その神殿のすぐ近くに、オリーブの古木があった。

 神殿には3秒で飽きる父ちゃんながら、こういった古寂びた木々に対する興味は尽きないらしく、この神殿の谷の至るところに生えているオリーブの古木に興味津々のようだった。
 花より団子ならぬ、神殿より木。

 しかし、それはまさに慧眼だったのだ。
 このオリーブの古木たち、なかには樹齢800年とか1000年という木もあるそうで、縄文杉ならぬサラセンオリーブと呼ばれているらしい(9世紀から11世紀までのシチリアは、アラブ(サラセン人)の勢力下だった)。
 この地の歴史をずっと眺め続けてきたオリーブだからこそ、賢者の風貌を思わせる風情があるのだろう。
 それにしても、樹齢1000年のオリーブだなんて!!

 ただ。
 あとで知ったところによると、このあたりで最もご長寿と言われているのは、上の写真の右隅に写っているオリーブなのだった…………。
 惜しいッ!!

 そしてこのサラセンオリーブのうしろに写っているのが……

 コンコルディア神殿。
 日本向けのアグリジェントの観光案内でよく目にするのがこの神殿だ。

 名前は周囲からの発掘物にちなんで後世に付けられたものながら、この神殿の谷の中で唯一往時の姿をほぼ完全にとどめている神殿だ。
 なんでこの神殿だけ五体満足なのかというと、キリスト教の世界になった当時に原型をとどめていたおかげで教会に転用された際に柱と柱の間に壁が設けられ、それが結果的に補強材になったおかげで、その後この地を襲った幾度かの地震でも倒れることなく済んだという。

 アラブ時代にはモスクになっていたともいわれ、ノルマン王朝になって以後は再び教会になっていたものを、18世紀に元の姿に戻したのだとか。

 この神殿だけ見ても、シチリアの複雑な歴史をうかがい知ることができる。
 そんなコンコルディア神殿から、海とは反対の方向を見ると…

 人口6万人を擁する現代のアグリジェントの街が広がっていた。
 神殿越しにはこう見える。


写真はヘラ神殿

 神殿だけが独立していたほうがいい、できることなら街が見えないほうがいい…という旅行者も多いようだけど、これはこれで、2000年以上もの時を越えた対比で面白い。

 コンコルディア神殿からさらに行くと、

 ヘラクレス(エルコレ)神殿。
 今はただ8本の柱が立っているだけの神殿跡とはいえ、ここは紀元前6世紀に建てられた、神殿の谷の中でも最古のものという。

 往時は正面に6本、両サイドに15本の柱が並ぶ巨大な神殿だったそうなのだが、地震で倒壊。
 いつ倒壊したのかは知らないけど、それを20世紀になってからイギリス人の もの好きな 熱心な考古学者が今の形にしたのだとか。
 この神殿のすぐ近くに、この考古学者のお家が残っていた。
 ここに住み着いて日夜研究にいそしんでいたらしい。

 そこまでするなら、いっそのこと完全に復元すりゃいいのに……
 …なんてことを言ってはいけない。
 この姿だからこそ味があるというモノ。

 ところでこの神殿たち、そのチクワブのような柱の一本一本をよく観てみると、すべてブロック状に輪切りになっていることがわかる。
 てっきり僕は、これらの柱は元々は一本全部繋がっていたもので、復元するに際して便宜上こうなっているのだとばかり思っていたんだけど、どうやらもともとがこのように造ってあるものらしい。

 だからこそ、かつて神殿だったパーツが崩れているところには、まるで後片付けをしない子供が遊び散らかしたLEGOのように、同サイズのブロックが転がっているのだ。

 そんなブロックの材質は、砂質凝灰岩ということらしい。
 軽石込みの火山灰が、砂混じりに海で堆積した岩(ですよね?たしか二十数年前はそういうことを勉強していたはずのワタシ……)。

 前日ヒロセさんが、「石をよく観ると化石が混じっていますよ」と教えてくれていたので、神殿近くにある、神殿と同じ材質の石で作られた構造物を見てみると………

 ホントだ!貝の化石!!
 どこぞの教会の大理石で観られるアンモナイト……ほどレア度は高くないにしろ、神殿を形作っている岩に、実は貝の化石があるなんて……なんか不思議。

 この岩ならやわらかいから、加工もしやすかったことだろう。
 にしても、神殿のパーツひとつだけでも相当な重さがある。
 加工のしやすさはともかく、こんな巨岩をいったいどうやってこの場所まで運んできたんだろう??

 という疑問に答えてくれていた場所を、我々は気づかぬまま通り過ぎていたのだった。
 というのも、このエルコレ神殿から再びメインストリートに戻るところに溝があって、そこにはいささかこの場には不釣合いな、工事現場の仮説足場的な橋が渡されていた。
 なんでこんな中途半端な橋なんだろう?と思いつつ渡ったその溝こそが……

 実は、山の上から石材を運ぶための、荷車の通り道、すなわち轍の跡だったらしい。
 その後の世でも排水溝として利用され続けていたせいで、今もなお遺っているのだとか。

 へぇ〜〜〜。

 そういう考古学的に興味深い写真は撮っていないくせに、こういうのは撮っていたりする。

 サボテンやリュウゼツランを傷つけて落書きするのは、世界中どこでも同じらしい……。

 このエルコレ神殿の先は国道が横断しているので、国道を渡った後、売店が併設されているところに再び改札がある。
 なので、最初に買った入場券をこの時まで無くしてはいけない。
 ……そういう大事なことをあらかじめ教えてくれないところもまた、誰もが自立しているお国柄、ということなのだろう。<良心的解釈。

 再度の改札後、最初の神殿はゼウス神殿。
 柱の長さ17m、しかもその柱には屋根を支える人間を模した像(テラモーネ)が多数使用されていたりと、シチリアのみならず全ギリシア世界でも最大級の神殿だったという。

 残念ながらこの神殿は、完成の日の目を見ないうちにアグリジェントがカルタゴに滅ぼされてしまったため、その後カルタゴによる破壊、おまけに後の地震で瓦礫の山になってしまった。

 その瓦礫の山でさえ、16世紀に行われた付近の港建設のための石材として、ごっそり持ち出されてしまったのだという。

 まさに……

 たけきものもついには滅びぬ。ひとえに風の前の塵に同じ。

 そのゼウス神殿の柱になっていたという人物像のレプリカが、まるで腹筋運動を始める寸前のような態勢で寝転がっていた。

 というわけで、ギリシア世界最大の神殿は、今ではショボイ瓦礫の山が残るのみなのだけど、かつて神殿を形作っていた瓦礫をマニアックに観ると面白いらしい

 なかでも我々は、ヒロセさんがご自身のサイトで紹介されている、ライオンの尻尾の浮き彫りを捜し求めた。
 なんの変哲もない石のブロックならともかく、彫刻がある部分となると普通は博物館に収納されるものなのに、どういうわけかこの尻尾だけは、他の石と一緒に無造作に転がっているのだとか。

 「ゼウス神殿の北東」というヒントだけを頼りに、神殿跡そのものをそっちのけに探索してみた。
 はたして………

 あった!!

 だから何ってものでもないですけどね。
 でも、彫刻が施されている石があると、そこらじゅうに転がっている石もホントに神殿を形作っていたんだなぁと実感できる。
 それに…
 なんだか宝探しのようで面白い♪
 みなさんも是非チャレンジしてください。

 そしてその先、ちょっと離れたところにあるのが、ディオスクリ神殿。


夕陽をバックにしたらさらに絵になりそう……

 観ようによっては、スターウォーズ・帝国の逆襲に出てくるAT−ATに見えなくもない……。

 この神殿もまた、ゼウス神殿同様瓦礫の山だったものを、19世紀にこの部分だけ復元され、以後このアグリジェントのシンボルになったという。

 こうして見てみると、ほぼ完全な姿を残してるコンコルディア神殿よりも、このように一部だけが残っている姿のほうが、時の重みを、そして「祇園精舎の鐘の声」を感じられるような気がする。

 この神域内でも随所に、満開をやや過ぎたアーモンドが咲いていた。

 このアーモンドがサラセンオリーブのような古木になる頃、背後に見える街はどのようになり、そしてこの地にはどんな人たちが訪れているのだろうか。

 サラセンオリーブがまだ若々しかった頃、ひょっとすると当地にいた誰かが、同じようなことを考えていたかもしれない。
 その彼に伝えよう。

 すみません、僕たちのような人たちが訪れています………。