31・地中海の奇跡

 パレルモ観光初日のこの日は、自分で言うのもなんだけど、まるですでに何度か来たことがあるかのごとき完璧な道案内で、クワットロ・カンティやプレートリア広場の噴水、そしてマルトラーナ教会とサン・カタルド教会といったこのあたりの「観光名所」を見て周った。

 なにしろ旅行準備段階から穴が開くほど地図を見ていたので、わかりやすいこのあたりの位置関係はすでに地図を見ずともだいたいわかっている(つもりでいる)のだ、ハッハッハ。

 これらのなかで、最も「パレルモに来たぜ!」って気分になるのは、やはり有名な四つ辻、クアットロ・カンティ。


真ん中の像は、クワトロ・バジーナ大尉…なわきゃない。

 マクエダ通りとヴィットリオ・エマヌエーレ通りが交差する場所で、パレルモ旧市街のど真ん中になる。

 4つ角すべてにこの重々しいバロックの建物が建っている。
 それがスペイン王朝属国時代のもので、バロック都市建設計画の一環だ……とかいうややこしい話はさておいても、観る者を「おお………」という気にさせる存在感があった。

 後日晴れている時に観ると、まったく印象が異なった。

 ただ、たしかに建物には歴史的存在感があるものの、この交差点自体は今もなお現役の、しかも大通りの交差点なので、交通量はかなり多い。
 ボーッと上を見上げ、ボヤボヤと感慨に浸っているわけにもいかない場所だったりする。

 このクアットロ・カンティからすぐのところに、プレートリア広場がある。
 噴水で有名なところだ。

 バロック建築だ、アラブ時代のモスクを転用した教会だ、といったカタイ建物だらけのなかで、なぜかここだけ異質なまでに浮いている裸体像たち。
 それもそのはず、もともとこの裸体像たちが並ぶ噴水は、ルネッサンス期のフィレンツェで作られたものだそうで、紆余曲折を経て、不要になった持ち主がパレルモに売りつけたのだとか。

 噴水が売り買いされて海を渡って行き来する……なんていう世界だからこそ、地中海のこんな場所にあるシチリアがスペインの属国だったという歴史があったりするのだ。
 こういうややこしいところが、受験生に世界史を敬遠させる要因になっているのは間違いない。欧州の歴史は、我々日本人にはなかなかイメージできないのだ。

 ここもまた晴れた日に見ると、裸体像ですら健全な姿に見えるのだった。<いえ、本来健全ですって。

 この界隈で僕が最も行きたかった場所が、この先にある。
 ベッリーニ広場(ただの駐車場とも言う)に面して並んで建つ2つの教会のうちのひとつ、マルトラーナ教会だ。
 その内部の壁の、輝くモザイク!!
 …を見たかったんだけど、

 修復中!?

 なにやら足場材で教会全体が囲われていて、いかにも「入れません」と全身で訴えかけているような姿。

 またやってしまったか!?
 と我が身の間の悪さに戦きかけたものの、ちゃんと中には入れるようになっていた。
 …よかったぁ。
 その内部のモザイクがこれ。

 このキンキンキラキラ、すべて1、2センチ四方のモザイクが織り成しているンですぜ!!
 なすすべなく、ただ見上げる二人。

 このビザンチン様式のキンキラモザイクもさることながら、この教会は、ノルマン王朝初代国王ルッジェーロ2世の宰相として活躍した、アンティオキアのジョルジョという人が建てたもの、というところにも注目したい。
 当時、強力な艦隊を率いて地中海で大活躍していた人なのだ。

 なんでアンティオキアのジョルジョに注目するのかというと。

 アンティオキアというのはシリアの町。
 このジョルジョという人は、シリアの生まれなのだ。
 当然ながらもともとはイスラムの人であって、当初は北アフリカのイスラム政権に仕えていた。

 それがどういう経緯を経たのかは知らないけどパレルモの宮廷に仕官して、はてはシチリア王国の宰相にまでなったのである。

 なんだかこのあたり、まるでサッカーの選手や監督みたい。
 サッカー文化って、ものすごくワールドワイドだなぁって常々思っていたんだけど、その元となる精神って、このような地中海を舞台にした歴史があったからこそなんじゃなかろうか…。

 ところで、海軍提督を英語で言うとアドミラル。
 イタリア語だとアンミラリオ。
 その語源はアラビア語のアミールなのだけど、その言葉はそもそも宰相という意味だ。
 なぜ宰相が「提督」という意味に?

 当時強力艦隊を率いて地中海をところ狭しと活躍したシチリア王国の人物・アンティオキアのジョルジョが宰相だったからこそ、この言葉が語源になっているのだった。

 へぇ〜〜〜〜!!

 そんなエピソードが面白くて、僕にとっては注目の人、アンティオキアのジョルジョ。
 その人が建てたという聖母マリア教会に来てみたかったのだ。
 すでにイスラム下のシリアに生まれた人が建てた、マリア様のための教会である。

 だからといって、天井や壁面を彩るキリスト教世界のモザイクの絵柄についてはなんの知識もないので、ただボーッとみていただけなんだけどね。
 にしてもこのモザイク、完成させるにはフォレスト・ガンプみたいな人がいったい何人必要なのだろう???

 その隣にあるのがサン・カタルド教会。


マルトラーナにしろこのサン・カタルドにしろ、
想像していたよりも小さくてビックリした。

 椰子の木といい赤く丸い3つのクーポラといい、なんだか千夜一夜物語に出てきそうな風情ながら、れっきとしたキリスト教の教会だ。

 この教会一つ見ても、この土地の不思議的物語に思いを馳せることができる。

 シチリアの歴史は複雑だ。
 すべてはその地中海上の立地条件のため、いついかなるときも、その時地中海世界で勢力を伸ばした国の影響下に入ってきた。

 そんな複雑な歴史の中でも、アラブの支配下に入ったことと、その後ノルマン王朝の国になったことが、今日のシチリアを作り上げたといっても過言ではない。

 北アフリカに住む人々は、ローマ帝国の滅亡後、強大な権力下から解き放たれた一方で、それまでローマ帝国の一大穀倉地として欠くべからざる存在だった立場も消えた。
 その後その土地を治めた勢力の悪政にも起因することながら、穀倉地としての仕事を失った北アフリカの人々は、富を求めて地中海へと繰り出すことになる。
 持てるものからの収奪。

 海賊だ。
 当時の先進社会である地中海沿岸地域をターゲットに、各地で海賊行為を働くアラブ(サラセン人)の人々。
 すでにキリスト教世界になっていた旧ローマ世界に対し、アラブ世界はイスラム教の社会になっていた。

 そのため、ただ単に富を求めての進出ではなく、宗教対宗教の図式になっていく。

 今でこそいわゆる後進国ばかりのイスラムの国々だけど、ローマ崩壊後から11世紀にかけてのイスラムは、世界のどの地域よりも優れた文明の担い手だった(今日我々が普通に使っている数字がアラビア数字である、ということひとつとっても想像できる)。

 一方、ギリシアの昔から人々の叡智の学問だった哲学が真理の追究であったのに対し、神の真理を信じることこそが人々の務めであるとしたキリスト教社会は、後にルネッサンスという光明を迎えるまでの長きに渡り、アンチ先進文明の暗黒社会だったといってもいいだろう。

 そんなキリスト教社会、シチリアで言うならビザンチン帝国の勢力が、イスラムの台頭を防ぎきれるはずはなかった。

 9世紀はじめに初めてイスラム勢力がシチリアに上陸して以来半世紀に渡る攻防の末、ついにシチリア全土がイスラム勢力の支配下となった。

 日本の朝廷が、遣唐使を白紙に戻すほんの少し前のことである。

 ローマ帝国崩壊後、長くキリスト教勢力圏にあったシチリアは、当然ながら島民ほぼすべてがキリスト教。
 イスラム勢力支配下になってしまったキリスト教徒の運命やいかに。

 冷戦終了後の現代社会の各地で発生している宗教紛争のように、あちこちで大虐殺が行われ……………

 …はしなかった。
 殉教者だらけになったわけでもなかった。
 なんとも驚くべきことに、シチリアのイスラム勢力はキリスト教徒との共存の道を選んだのだ。

 その裏には、かなり実際的かつ合理的な支配者側の考えもあったようだけど、それを差し引いてもなお、当時の一神教の宗教にあって、異なる宗教の存在を認める社会というのは、ほぼありえなかったのではなかろうか。
 同じ頃のキリスト教なんて、同じ宗教のなかですら「異端者」は許されなかったというのに。

 こうして、多少の差別はありつつも、両宗教ともに暮らしていける社会が確立されていった。

 そして最も大事なことは、イスラム勢力下になったおかげで、それ以前もそれ以後も地中海世界ではずっと続いていた、イスラム勢力による海賊の攻撃を心配する必要がなくなったってことだろう。 

 パレルモという街もまた、アラブ世界だった歴史がなければ今のような繁栄はなかった。
 というのも、シチリアといえばシラクサというくらいに、当時の地中海世界にとっての最重要都市はシラクサで、パレルモはさほど重要視されている町ではなかった。
 しかし、地中海沿岸のヨーロッパに目を向けたイスラムの人々にとって、シチリアにおけるパレルモの位置は、地中海沿岸諸国すべてに道が開かれている。
 格好の立地だったのだ。

 アラブ支配下になり、パレルモは大いに賑わいを見せた。
 人攫い込みの海賊が生業だったイスラムの人々も、モノなりのいいシチリアという島ではわざわざ危険な海賊をするよりも、生産から生まれる商売に徹したほうがより利益に繋がることに気がついたのだろう。
 いつしかパレルモは地中海世界のワールドトレードセンターになっていった。

 また一方で、キリスト教社会での神の真理への妄信を嫌い、当時ペルシアに逃げていたギリシア学問界の人々がいた。
 そのためギリシアの哲学も、天文学も、数学も医学も、当時はすべて、それらを否定するキリスト教社会よりも圧倒的にペルシアのほうが進んでいたのである。

 そんな当時の最先端科学が、ペルシアを通じてシチリアにもたらされた。
 その後のノルマン王朝時代に、コロンブスよりも3世紀も早く「地球は丸い」という結論に達していた書物がシチリアで出来上がっていたという土台は、イスラムの人たちによってもたらされていたといってもいい。

 また、観光客的には、シチリアといえば海の幸と思われているけれど、実際のところシチリアの多くの街では、それほど魚食文化であるわけではないという。
 それどころか、地元のおばあが鮮魚店で、そこで普通に売られている魚の食べ方を尋ねることもママあるという。

 みんな海賊を恐れて山の上で暮らしていたから、食事は山の幸がもっぱらだったのだ。
 そんななかでパレルモは、正真正銘の魚食文化の街であるらしい。
 最初から海辺の都市として発展したパレルモに、海の幸の文化が育たないはずがない、ということか。

 一方山の幸も、アラブの影響なくして今のシチリアはありえなかったようだ。

 レモン、オレンジ、砂糖、ナス、サフラン、アーティチョークなどなど、これらすべて、アラブからシチリアにもたらされた農作物であるだけでなく、その名前すらアラブの言葉に由来しているという。
 また、当時の最先端技術であったオリエント世界の灌漑農法が、アラブ人の手によってシチリアにもたらされたおかげで、生産量は飛躍的に増大したそうだ。

 その後アラブ時代に続くノルマン王朝の善政(つまり偏狭な宗教的弾圧のない国内的に平和な世の中)が、イスラム教文化とキリスト教文化、ひいてはかつてのラテン文化とも美しい融合を生み出し、イタリアにおけるルネッサンスの口火を切ったのはシチリアだと言われるほどの世界を作り出した。
 アラブ、ノルマン、双方合わせて400年。
 天下泰平だった徳川幕府300年をも越える年月、人々はこのシチリアの地でシアワセに暮らせていたのである。

 イスラム教とキリスト教の共生。
 なんで1000年も前の世界でできて、今の世界でできないんだろう………。
 逆に言えば、だからこそその400年間が地中海の奇跡と言われるのだろう。

 そんなわけで、パレルモには今もなおアラブ系の人たちが多い。
 けっこう黒い。
 沖縄で暮らす我々は、黒い肌の人を目にするのはさして珍しいことではないけれど、埼玉の田舎に暮らす父ちゃんにとってはいささか脅威に思えたらしい……。

 ともかく、そうやっていちいち歴史的な感慨に浸りつつ歩いて周っていれば、このあたりでお昼ご飯でも……という時間になっているはずだったのだ。

 ところが、思ったよりもそれぞれの距離が近かったということもさることながら、他の誰一人としてそんな感慨に浸るはずもなし。
 さらには、ひとっところでジッとしていられない父ちゃんのおかげで、たどり着くたびに次は、次は、ってことになるので、ここに至ってもなお、お昼にはまだまだ早すぎる時刻だった。

 うーん、どうしようかなぁ………。

 しょうがない、明日行こうと思っていたところに行ってみよう!!

 というわけで、バッラロ市場へ。
 他のどこよりも、アラブ人たちが多く集まるというバッラロ市場。
 パレルモ市内に数ある市場の中で、現在最も活気溢れる市場というフレコミだったのだが、まさにもう……

 おっしゃるとおり!!

 人の量も活気も商店の数も、ヴッチリアの比ではなかったのだった。