49・兵どもが夢のあと

 ようやく入ることができたフォロ・ロマーノ。
 とはいえ、先に触れた最高神祇官公邸以外に、特に思い入れがあるわけではなかった。

 ただ、セプティミウス・セヴェルスの凱旋門は間近でじっくり眺めたいなぁと思っていた。
 今に残る凱旋門のうちで、これだけは下を潜り抜けられそうだったから。
 ところがあいにく補修工事中のため、下を通り抜けることあたわず。

 補修といえば、神殿の遺構をよく観ると、こういう具合に補強されていたりする。


ヴェスパシアヌスとティトスの神殿

 これひとつ見ても、遺跡の保存というのは並大抵の苦労ではないことがよくわかる。

 この神殿跡をはじめ、遺構のそれぞれに関するウンチクがあったら、ひとつひとつをじっくり眺めるのもさぞかし面白いに違いない。
 残念ながら一つ一つに関するウンチクは僕にはないので、ここではただ雰囲気だけを味わおう。
 なにしろこのフォロ・ロマーノ内の当時の石畳道を、カエサルもアウグストゥスも、それにクレオパトラだって歩いたのだから。

 そういう意味では、春の花が咲く草原に寝そべっているだけでも楽しそうだった。


向こうに見えるのはティトスの凱旋門

 ホントに寝てしまう人もいた。

 …のだが。
 約1名、すぐさま飽きてしまう人が。

 しょうがないので、パラティーノの丘に登ってみた。
 ここから眺めるフォロ・ロマーノもなかなか素晴らしい。


○印はセヴェルスの凱旋門

 高いところにはとりあえず登るオタマサもご満悦。
 やっぱ我々のように特にウンチクがない人間には、こうやって全体をボーッと眺めているのが一番いいかもしれない。
 ウンチクはないけれど復元された様子は知っているので、脳内変換して古の「フォルム」をイメージしつつ、風に吹かれて眺めるフォロ・ロマーノ………。
 いい感じ。

 ちなみに、古のフォロ・ロマーノはこんな感じだった。


小森谷慶子著「ローマ古代散歩」に掲載されている、
3世紀のローマの復元模型の写真から抜粋。○印がセヴェルスの凱旋門。

 平泉にて、ただの草原を眺めただけで奥州藤原氏の栄華に思いを馳せた芭蕉が、今のフォロ・ロマーノを見たら、いったいなんと詠むだろう??
 例によって曾良と二人して路傍で涙をこぼしていたかも??

 我々が今いる場所はフォロ・ロマーノを眺めるためのベルベデーレポイントになっていて、観光客も多かった。
 で、ひとしきりボーッとしていたら、白人ツアー客を引率した女性ガイドさんが近くにきたから、ここはひとつ日本を代表する立派なシニョーレになるべく、プレーゴ、といって場所を譲った。

 ホントにありがたそうにお礼を言ってくれるその女性ガイド@おそらくイタリア人。

 後刻、パラティーノの丘を降りていく道すがら、そのガイドさんに再び出会った。
 するとあらためて、

 「Grazie!

 春の風のような微笑みを浮かべながら、声を掛けてくれたのだった。

 このパラティーノの丘はかなり広大で、共和政時代から有力貴族が居住する土地だった。
 アウグストゥス以降、歴代皇帝が邸宅を作るようになったここは、ようするにフォロ・ロマーノのビバリーヒルズなのだ。

 そんなビバリーヒルズには、初代皇帝アウグストゥスの慎ましやかな家も残っていて、当時の壁画装飾がそのまま残されたカラフルな家は、一定の人数ごとにガイドツアーがなされる仕組みになっている。
 約2000年前の皇帝の家。
 カエサルが住んでいたという神祇官公邸には入れないものの、ここには是非入ってみたいなぁ…と思っていた。

 が。
 約一名、疲労につき休憩中。
 それを放って見学などしていられないのだった。

 ああ、無念なるかな………。

 しょうがない、アウグストゥスの家もリヴィアの家も、そしてドムス・アウグスターナも、またローマに来たときのためにとっておこう。<また来れるのですか?

 フォロ・ロマーノからは、ティトスの凱旋門あたりから外に出ることができる。

 ローマ帝国序盤の混乱を収拾したヴェスパシアヌス帝の長男である彼は、父が着手したコロッセオを完成させたり、エルサレムにおけるユダヤ人の反乱を平定したりする一方で、その在位中にあのヴェスヴィオ火山が大噴火してポンペイの町が消えてしまったという大災害があった。
 とってもいい皇帝だったらしいんだけど、在位2年で病没してしまうとってもついていない人でもあったのだ。

 そんな彼のユダヤの反乱平定を記念して、その没後に弟のドミティアヌス帝が作ったのがこの凱旋門。
 現在フォロ・ロマーノで見られる凱旋門で最古のものなのだとか。

 なんで当時数多くあったであろう凱旋門のうちでこれだけが残ったのかというと、キリスト教社会になった中世に設けられた城壁に、この凱旋門がそっくりそのまま組み込まれていたためだそうな。

 なにが災いして、なにが幸いするやら、人一人の一生の間ではけっしてわからないことが、世の中にはたくさんある。

 そんなティトスの凱旋門からゆるい坂道を降りていくと、そこはもうあの広場になる。

 コロッセオ!!

 その近くに建っているのが、コンスタンティヌスの凱旋門。

 一見するとティトスの凱旋門よりも遥かに立派な装飾がなされているように見えるけれど、実はこれ、先代皇帝たちの凱旋門から装飾部分だけを切り取って作られた貼り合わせの作品なのだとか。
 門そのものも、実はハドリアヌスの凱旋門をそのまま利用しているという話もある。

 だから描かれているレリーフには、コンスタンティヌス帝の活躍とは関係のない戦地での描写があったりするという。
 キリスト教をローマの国教に認定した、という功績によってのちのキリスト教社会からは「大帝」と呼ばれてはいるものの、コンスタンティヌス帝当時のローマの実情は、すでに皇帝の凱旋門をオリジナルで作る能力さえもなかったのか。

 それもこれも、内乱や蛮族の侵入といった数々の戦乱のせいだ。
 実際今に残る彫刻などを見てみると、どのあたりからかは明確にはわからないものの、100年の間に22名もの皇帝が入れ替わった混乱の3世紀を境に、かつてあれほどの造形美を誇った彫刻技術は一気に衰退しているように見受けられる。
 キリスト教が幅を利かせるようになって以後、ルネッサンスを迎えるまでは、目も当てられない。

 平和がもたらす余裕が文化を生み出し、
 束縛されない自由が創造を生み出し、
 そして制限されない好奇心が、発見を生み出す。

 ギリシア・ローマ時代に世の中を彩っていた哲学、芸術、そして科学技術の復活は、ルネッサンスの到来まで待たねばならないのであった。