64・オベリスク

 この大賑わいのポポロ広場にあるサンタ・マリア・デル・ポポロ教会でカラヴァッジョの絵を観た、ということはすでに触れた。

 カラヴァッジョの絵は、そこにあることを知らないと見逃してしまうけれど、このポポロ広場には、どんなに大勢の人で埋め尽くされていようとも、どうしても目につくものがひとつある。

 オベリスクだ。

 ローマには13本ものオベリスクが建っているそうで、その数は本家本元のエジプトよりも多いのだとか。

 カエサルがエジプトを支配下に置いて以来、太陽暦をはじめとするエジプトの最先端科学はもちろんのこと、その宗教もローマにもたらされた。カエサルの場合、クレオパトラまでローマに持ってきちゃった。

 紀元前1世紀後半のローマで、空前のエジプトブーム。

 エジプトの神々もまた、ローマ社会に取り込まれたのである。
 害を及ぼさない限り排することはない多神教の世界だからこそなのだろう。

 なかでもクレオパトラのプトレマイオス朝の頃には、イシス神が最高神として崇められていたこともあって、ローマでもその神を祀る神殿が首都の中心部に建立された。

 その後、エジプトブームを単なる娯楽とみなしたのであろう超マジメな3代皇帝ティベリウスが、一時この信仰を弾圧したものの、後を継いだカリグラがこれまたエジプト大好き人間だったために再興。

 それもまた火災で焼けちゃったけど、けっしてへこたれることなく、やはりエジプト大好きのドミティアヌスが再建している。

 なんでも自分たちの文化にとりこむローマ人のこと、最初にローマにイシス神殿が建ってからすでに100年以上経っている頃であることを考えると、ローマにおける「エジプト」は、当時すでに一時のブームではなく、完全に自分たちの文化のひとつになっていたのだろう。

 そんなローマ人のエジプト趣味のおかげで、現在13本もあるオベリスク。広場や教会の前など至るところにあるような気になるほどに目につく。
 そのためついつい当たり前の風景になってしまったりする。
 でもその1本1本にも、知ると実に興味深いエピソードが満載なのだ。

 このポポロ広場にあるオベリスクは、紀元前30年、アウグストゥスがまだオクタヴィアヌスだった頃、カエサルの正当な跡継ぎとしてあのクレオパトラとアントニウス連合軍に勝利した後、戦勝記念としてエジプトから運んできて、チルコ・マッシモ(大競技場)に建てたもの。

 その後6世紀に倒れてしまったそうで(すでにキリスト教社会)、そのままいつしか埋もれてしまった。
 それが16世紀に発掘され、このポポロ広場に建てられたそうな。さすが「人間回帰」のルネッサンス、キリスト教社会は、異教の構造物を受容できるくらいにはなっていたのである。

 ただしローマ人が信仰ごと受容したのとは違い、カトリックの本場ローマにエジプトの宗教が入る余地はない。
 ポポロ広場は北からローマに巡礼に来る人たちにとって玄関口になる場所なので、ひときわ高く聳え立つオベリスクを道標にしようということだったらしい。

 ちなみにこのオベリスク、ローマに運んできたのはアウグストゥスながら、造った人は誰かというと、ほかでもない、エジプトのファラオ中のファラオといっていいあのラムセス2世である。

 ラムセス2世といえば、聖書に出てくる「出エジプト記」の主人公、モーゼがエジプトにいた頃の人。
 映画「十戒」で、チャールトン・ヘストン率いるユダヤの人々が割れた海面を渡って逃げ切ったあと、再び元に戻った海に飲み込まれる軍隊は、ラムセス2世のエジプト軍だ。

 恥ずかしながらワタシ、学生の頃に父親に連れられてエジプトに行ったことがある。
 その際、このオベリスクの石切り場跡、というのも見学した。
 こんなどでかいモノを、そもそも「切り出す」って作業すら途方もないというのに、それを運んでしかも「建てる」というのが信じられないくらいのサイズだった記憶がある。

 初めての海外旅行がエジプトってのも今考えればゼータクだったのだが、とにかく何も知らないまま行ったので、帰ってきてからいろいろ知っておけばよかった!とつくづく後悔したものだった。

 その後知ったところによると、ラムセス2世は、紀元前13世紀の途方もない超権力者だ。
 ハリウッドやその他欧米が作る物語だとたいてい悪者になってしまうのが残念なところながら、フランスの作家が書いたラムセス2世が主人公の小説が十数年前に流行ったこともあった。

 そんなラムセス2世が、紀元前13世紀にヘリオポリスの太陽神殿に建てたのが、このポポロ広場のオベリスク。
 ヒエログリフから何から、正真正銘のホンマモノなのである。

 ラムセス2世がヘリオポリスの太陽神殿に建てたというオベリスクは、他にもある。

 パンテオン前の、ロトンダ広場のオベリスク。
 よく観ると、なるほどキチンとヒエログリフがあった。
 もちろん基台の彫刻と天辺の十字架は、オベリスクをこの地に建てた後世キリスト教社会の仕事ながら、ローマに運んできたのは3代皇帝カリグラ帝。
 彼が造ったイシス神殿に設置するためである。
 カリグラといえば、あのヴァチカンの地に競技場を造った皇帝だ。

 彼はその競技場に建てるためにも、エジプトからもう1本持ってきていることはすでに触れた。
 これね。

 このサン・ピエトロ広場のオベリスクは、ここまでに紹介したものとは少し毛色が違う。
 古代エジプトの権力者が造ったものではなくて、すでにローマの世になっている頃に、アレキサンドリアにいるローマ人の誰かがアウグストゥスを讃えて造ったものなのだそうな。

 だからヒエログリフがないのっぺらぼう。
 当時ヒエログリフなんてものを書ける人はいなかったからか??

 カリグラ帝がこのオベリスクの由来を知っていたのかどうかはわからないけれど、競技場に建てるためにオベリスクを運んだ、というアウグストゥスの真似をしたことは間違いない。
 オベリスクを分断せずにそのまま運べるよう、オベリスクが1本まるごとスッポリ納まる巨大船まで造って運んだというから、この皇帝のエジプト趣味もハンパではない。

 で、その元祖でもあるオベリスク運び人アウグストゥスが運んだものは、現在ポポロ広場にあるものだけではなかった。

 なんとなんと!

 我々が泊まっているホテルのすぐそばのオベリスクも、チルコ・マッシモ用のオベリスクと一緒にアウグストゥスがエジプトから運んできたものだったのだ。
 すみません、帰ってきてから知りました……。
 てゆーか、ホテルの飾りのひとつなのだとばかり……。<バカ。
 このオベリスクの写真をネットなどで見てみると、基台には、ちゃんとラテン語でアウグストゥスの名が刻まれてある。

 そこまでつぶさに観なかった我々ながら、このオベリスクのヒエログリフが、なんだか中途半端に部分部分だけだなぁ…とは思っていた。
 それは、5つに分断されたバラバラ状態で発見されたものを、18世紀に復元してこの地に建てたからなのだそうな。

 ちなみにこのオベリスクは、ローマ時代には日時計の針の役割を担っていたそうで、アウグストゥスの誕生日である秋分の日の日没時に、その影がアラ・パチスに届くようになっていたのだとか(どちらも現在の場所とは違うので、今は確かめられない)

 へぇ〜〜〜。

 このオベリスクも、ちゃんとヒエログリフがあるのでホンマモノである。紀元前6世紀にプサンメティコス2世が造ったものだそうな。

 プサンメティコスの次のアプリス王が造ったオベリスクがここにある。


ガリレオを偲んで泣いている……の図。

 パンテオンのすぐそばにある、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会かつてガリレオが「それでも地球は回っている」とつぶやいたのはこのちょっと奥。)の前の広場にあるオベリスク。
 3世紀にディオクレティアヌス帝によってエジプトから運ばれ、イシス神殿に建てられたもの。
 それが17世紀にこの地へ。
 ゾウさんの彫刻も含め、アレンジはベルニーニのデザインだ。

 このオベリスクも、なりは小さいながらヒエログリフがあるホンマモノだ。

 ただし。
 ヒエログリフがあるからといって古代エジプトのモノとは限らない。
 なかにはマガイモノもあるのだ。

 ナヴォーナ広場の四大河の噴水のオベリスク。
 マガイモノというと語弊があるけれど、このオベリスクは古代エジプトのファラオが造ったものではなく、ドミティアヌス帝がわざわざナイルの上流アスワンの石切り場から切り出させ、自分のために造ったものなのだ。
 その証拠に、刻まれているヒエログリフには、ドミティアヌスの名があるという。

 自身の皇帝即位にあわせて造ったのだろうと言われているこのオベリスクは、ドミティアヌスが再建したイシス神殿とセラピス神殿の間に建てたそうな。

 ところがローマの衰退著しい4世紀になって、マクセンティウス帝が、自身が造った戦車競技場に移設。
 それもやはりキリスト教社会になって以後は、倒れてバラバラになって埋もれたままになっていた。

 それが17世紀になって、自身の法王就任記念にこのナヴォーナ広場に噴水を作り、そこにオベリスクを建てよう!!と思いついた法王イノケンティウス10世によって再建されたのだった。

 ……あのぉ、やってることがローマ法王もローマ皇帝も変わらないんですけど。

 でもそのおかげで、まったくの偶然ながら、ドミティアヌスが造ったオベリスクは、巡りめぐって結局自分が造った競技場に建っているのだ。

 ちなみに、スペイン階段の上、トリニタ・デイ・モンティ広場に建っているオベリスクにはヒエログリフがある。
 でもこれは、現在ポポロ広場にあるラムセス2世のオベリスクを真似して、1世紀にあるお金持ちがローマで造らせたもの。いわば偽ブランドだ。

 それが発掘されて18世紀にこの地に建てられた。 
 ことほどさように、ローマ時代には「そこまでして……?」といいたくなるくらいに、やはりエジプト趣味は宗教色を帯びた娯楽だったのだ。
 なにしろ自分の墓用に、ピラミッドまで造っちゃった人がいるくらいなのだから。


空港までの車窓から見たピラミッド。紀元前1世紀後半のもの。

 ピラミッドはともかくとして、特に意識していたわけではない我々なのに、ローマに13本あるというオベリスクのうち、いつの間にか7本も制覇しているじゃないか。
 ローマに来ているのに、なぜだか妙にオベリスクオベリスクと騒いでいたうちの奥さん。
 その興味がどこから来ているのかはともかく、わりと望みを果たしたんじゃなかろうか……。


ポポロ広場で「エジプトにも触れた♪」と満足げなオタマサ。
でもその部分はローマなんですけど……。

 こうして改めて見てみると、ポポロ広場にあるエジプト絶頂期といっていいラムセス2世のオベリスクに比べると、すでに他民族の侵入が始まっていた頃のエジプトのオベリスク(ミネルヴァ教会のものとか)はなんともはや小さい。
 すでにエジプトは末期にあったことがよくわかる。

 そして、それを運んできた3世紀のローマ帝国もまた、そのサイズのものしか運べない程度の力しかなかったのだろう。
 4世紀のマクセンティウスの頃になると、もはやエジプトから運ぶ力などなく、ローマ内から移設するしかなかったのだから、以後の衰退のほどがうかがえる。

 かつて栄華を極めた文明からその栄華の粋を運んできた文明もまた、やがては力尽き、その粋をまた別の文明が利する……。

 オベリスクの石の色、盛者必衰の理をあらわす……というところか。

 ただ春の夜の夢のごとし。

 ああ、夢のごとしといえば……。

 ついに明日、ローマを去らねばならない。

 ポポロ広場からの帰り道、路上に散った紙吹雪が、やけに寂しく見えるローマの夕刻。

 が。

 この夜も例によってガリレア・シャッラで食事をしたあと、

 「トレヴィの泉に行こう!」

 約一名が張り切って言う。
 また行くんですか??
 このローマ滞在中、いったい何度トレヴィの泉に行ったっけ??

 でもやっぱり…。


撮影:オタマサ

 今回の旅行は終わるけど、「また来りゃあいいじゃん!」 ってことなのかな。

 でも父ちゃんの場合、たとえまた来たとしても、朝のワインと土産物屋とトレヴィの泉さえあればOKなような気が……。

 そんなこんなで、ローマ最後の夜は暮れていく。