3・出 雲

 度重なる台風に秋からは季節風も加わり、これでもかというほど叩きのめされた2018年シーズンのクロワッサン。

 幸いにして船や家などに物理的被害はほとんど出なかったものの、死んだ子の齢を数えるようにして獲らぬタヌキの皮算用をしてしまえば、軽く世界一周旅行に出かけられる域に達することだろう。

 虚しくなるからしないけど、火の車の両輪が回る自転車操業の当店にとって、そのダメージは大きい。
 ましてやオフシーズンの旅行など、夢のまた夢。

 …のはずだったのだが。

 オタマサに、行きたいところが2つあり。味の富山に八雲立つ国。

 普段ワタシに対してはさんざんっぱら先立つものが無いことをアピールしておきながら、ヒソカにこのオフに旅行に行く算段はつけていたらしい。

 となればワタシも、行きたいところを付け足させてもらおう。

 ということで決まった今回の旅行は、ワタシの行きたいところとの兼ね合いで、八雲立つ出雲を訪ねることとなった。

 出雲。

 その昔紅顔の美少年だった頃のワタシにとって出雲といえば、赤と白のカラーリング、そして武骨なまでに四角四角したボディの、実に味のあるディーゼル機関車DD51が牽引するブルートレイン「出雲」である。

 たしかあれは途中までは電気機関車で、山陰線に乗り入れるにあたって件のディーゼル機関車にチェンジしていたのだったか(またテキトーなことを書くと、テツの皆さんからお叱りを受けそう…)。

 いずれにしても出雲など大阪の小学生にとって遥けき西の果ての土地、朧げにすら土地のイメージが浮かぶことは無かった。

 一方、戦前・戦中・戦後すぐ世代のように、歴史的教養と娯楽がかなりの範囲で重なり合っていた時代に幼年期を送っていた方々にとって出雲といえば、古事記、日本書紀、そして出雲国風土記などに出てくる神話のふるさとであるはず。

 モノを知らぬ我が母ですら、オオクニヌシといえばナニモノであるか、スサノオはいったい何をしたヒトなのか、神話が語るエピソードのひとつやふたつ語って聞かせることだろう。

 なんで親世代には当たり前だったそれら数々の神話が、我々の頃には「常識」ではなくなってしまったのだろうか。

 それは、戦前戦中における皇国史観を徹底的に排除する、戦後の反動教育のためらしい。

 天皇家の存在価値を高めるため政治的に利用されたフシがある戦前戦中の神話教育はすべて否定され、「神話=まったくの作り話」、したがたって初等教育で学ぶ価値無し、という大前提が出来上がってしまったのだ。

 そのため記紀でも各地の神話でもたびたび出てくる「出雲」という国すらも「架空」認定されてしまい、神話における出雲関連のエピソードは、ただ単に天皇家に対するアンチテーゼ的な存在として設定された創作である、という見解が史学の世界でも「常識」になった。

 我々が小学生くらいの頃はその「常識」が世の中に浸透しきっていた頃だから、記紀神話などを学校その他で教える機会などあるはずはなかったのである(でも東映マンガ祭りか何かで、スサノオが活躍するアニメーション作品はあった)。

 ところが。

 80年台の中ごろから出雲付近で次々に発掘され始めた、弥生時代から古墳時代にかけての数々の遺跡における調査結果が、架空のはずだった「出雲」という大きな勢力の実在を熱く強く主張し始めた。

 いわば政治的イデオロギーで封印されてしまった出雲が、考古学という科学的見地から、見事に存在証明されてしまったのだ。

 その衝撃はおそらく、大袈裟に言ってしまえばシュリーマンが発見したトロイの遺跡級だったことだろう。

 そんな衝撃の発見の中には、古の出雲大社の心御柱をはじめとする巨大柱もある。

 設計図が今に残っており、伝承にもちゃんと記録されていた出雲大社の昔の姿は、天に聳え立つ巨大建造物だった。

 しかし「常識」はそんな話を鼻で笑い、んなものが大昔にあるわけねーじゃん!とバカにさえしていたのである。

 そこに、超巨大柱の発掘。

 巨大柱と設計図から素直に復元すれば、本殿の高さ48メートルという鎌倉時代の話は、俄然リアルになってきた。

 そして上古の高さ97メートルという、いくらなんでもそんなには…的なスーパー楼閣も、少なくとも鼻で笑っている場合ではなくなっているのだ。

 その後出雲周辺ではさらに発掘・研究が進み、我々が子供の頃には史学・考古学的に存在してさえいないとされていた古代出雲は、古代のある時期間違いなく強大な勢力として山陰の地にあったということが、今ではほぼ通説になっている。

 であれば。

 なにもかも架空の物語であると断定された神話の数々も、ひょっとすると表立って大きな声では言えない何事かを、神話の形に変えて語っているのかもしれない。

 出雲といえば国譲りというエピソードが真っ先にくるから、特に興味を持たずにいると、それらはすべてほのぼのとした物語と錯覚させられがちだ。
 しかし出雲国風土記はともかく、古事記や日本書紀に出てくる出雲エピソードなんていったら、ハッキリ言って騙し騙され殺り殺られの「仁義なき戦い・出雲死闘編」である。

 そんな神話の数々に、政治的な「裏」が無いわけがない。

 そして近年の考古学的発見が、神話に秘められた「歴史」を少しずつ裏付け始めているようにも見える。

 なんだ、出雲も面白そうじゃないか。

 随分前から「出雲大社に行ってみたい」とオタマサは訴え続けていたのだけれど、昨今のパワースポットブームにともなう聖地人気の胡散臭さで、ワタシはずっと却下し続けていた。

 でもこうして見てみると、そっち方面とはまったく違う分野でたいそう楽しめそう。

 ……な〜んてエラそうに語りつつ、以上のことを浅く知ったのは旅行直前のことで、昔古代史にハマっていた頃から随分時が経った今のワタシにとって出雲といえば、やはり味のあるDD51機関車が引っ張るブルートレイン。

 ならばかねがね出雲に行きたい行きたいと言い続けていたオタマサは、さすがにその方面の造詣が深いのかといえば、これがまたまったくのゼロ状態。

 じゃあなんで出雲に行きたいの?

 「出雲大社がでっかそうだから」

 クロワッサンのオフシーズン旅行先選定会議における彼女の出雲に関するプレゼンテーションは、これ以上でもこれ以下でもなかったのだった。

 そんな我々なので、八雲立つ出雲の地に初めて訪れるといっても、神話も歴史も出てくる幕はほとんどないことを、今のうちにお断りしておこう。

 ま、そのほうが、肌で感じる何かがあるかも?