10・関門散歩・下関編1〜二つの戦い〜

 今もそうなのだろうか、我々の子供の頃は、小学校6年生になると社会で日本史を習う。

 父が子供用にと「マンガ日本史」的な、通史じゃなくてトピックごとのものを古本屋でよく買ってきてくれていたこともあって、小学校で日本史を学ぶ頃にはすでに、NHKの大河ドラマが取り扱うような時代が興味の対象になっていた。

 とりわけ源平の合戦といえば、子供ながらに血が騒ぐ時代の話でもある。

 その最終決戦が行われた場所が、壇ノ浦だ。

 子供の頃のワタシにとっては、壇ノ浦など月の裏側と同じくらい遥かに遠い世界だったのに、今その古戦場を目の前にしているというこの感慨。

 それにしても、船戦だから戦いの場は海上で、それなら門司の側にも何かあってしかるべきところ。

 しかし合戦の名称が古来より「壇ノ浦の戦い」とされているからか、古戦場跡としての名誉は下関側にあるらしい。

 近年整備されたらしき海辺ゾーンには、その戦いの象徴とも言うべき八艘飛びの最中の九郎義経と……

 巨大な碇を持ち上げている平知盛の像がある。

 大陸や半島からお越しの観光客が観れば、なんでこのヒトは碇で戦おうとしているのだろう?って思われるかもしれない。

 これはいうまでもなく、まさに今、碇を抱いて海に沈まんとす、というところ。

 壇ノ浦の合戦は源氏側からすれば栄光の勝利ながら、平家側にとっては悲劇のクライマックスの舞台である。

 幼い安徳天皇をはじめ、多くの人々がこの海に身を捧げたのだ。

 そういうこともあって、このあたりには勝者の源氏がどうこうしたという話よりも、滅んだ平家の人々の供養に関係するもののほうが多い。

 この像の傍にも……

 幼い安徳天皇とともに入水するに際し、海は怖くない、波の下にも都がありますよ、と自身の孫でもある幼子を勇気づけるために詠んだといわれる、二位尼の歌碑があった。

 二位尼といえば、時子こと平清盛の正妻。

 近年の大河ドラマでいえば、「平清盛」のときに深キョンが演じていたキャラである。

 源氏の軍勢が迫るなか、幼帝とともに入水寸前のシーン(下の写真ともどもNHK大河ドラマ「平清盛」より)。

 清盛と出会った頃は↓こんなに可愛く、光源氏に出会うことを夢見ながら「UQ。」と言っていた女性が(UQとは言ってませんが)……

 …最後は入水自殺を遂げるんだもの、盛者必衰のことわりを表す琵琶法師ならずとも、奏でる音色がむせび泣くように響くのも当然だ。

 そんな二位尼の歌碑のすぐ近くに、手形がひとつ添えられていた。

 はて、いったい誰の手形だろう??

 あらら、松坂慶子!!

 そうか、「平清盛」よりも随分前のNHK大河ドラマ「義経」(タッキー主演)では、二位尼を松坂慶子が演じていたんだった。

 これまた、今まさに入水せんとす、のシーン(NHK大河ドラマ「義経」より)。

 ところで、深キョンも松坂慶子もその手に何か持っている。

 これは三種の神器のひとつ宝剣。昨年訪ねた出雲の地で、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した際、その尾から出てきた草薙剣である。

 壇ノ浦にて平家一門の人々とともに、この宝剣を含めた3つの神器はすべて海に沈んだ……

 …のだけど、平氏を滅ぼすのと同じくらい重要なミッションだった三種の神器の奪還を果たすべく、源氏方の必死の捜索により、3つの神器のうち鏡と勾玉は発見できた。

 ただし宝剣は、ついに見つからずじまいだったそうな。

 もっとも、そもそも太古の昔から宮中にある宝剣はレプリカで、本物のホンモノはずっと昔から熱田神宮にて祀られているらしい。

 まぁイワシの頭も信心から、たとえレプリカ(正しくは形代という)であろうとも神が宿っていると皆が信じれば、それはそれでホンモノということになる。

 見目麗しき二人の女性が(実際は1人だけど…)幼帝と同じくらい大事に刀を抱え、ともに海に没するのは、幼帝ともども平家一門の正統性を後世に知らしめんがため……ということなのだろう。

 いわば「時子の心意気」のシーンなのである。

 壇ノ浦の古戦場跡として有名なこの海辺は、「みもすそ川公園」として整備されていて、公園内には松坂慶子のほかにも、当時この地を訪れたタッキーをはじめとする当時の「義経」出演者たちの手形が、同じように展示されているそうな。

 それにしてもこの手形、実物大なんだろうか?

 オタマサはタッパのわりにはけっこう手がでっかいのに、松坂慶子の手はさらにでっかいんですけど。

 そんなわけで、遠く800年以上昔のことながら、いろいろなドラマのおかげで、ちょっぴり身近な壇ノ浦古戦場跡なのだった。

 壇ノ浦の合戦は800年以上昔のことながら。

 ほんの150年前に、ここ関門海峡は再び戦場と化した。

 当時攘夷の急先鋒を後も振り返らずひたすら突っ走っていた長州藩は、なんとイギリス、フランス、オランダ、そしてアメリカの四ヶ国の連合艦隊と、雄々しく凛々しく勇ましく戦い、そして木っ端微塵のケチョンケチョンにやっつけられてしまった。

 それはけっしてやぶれかぶれのヤケクソだったわけではなく、長州には長州なりに、これによって江戸幕府を追い詰める!という大きな計画があるにはあった。

 しかし彼我の戦力差は、当初の想定を大幅に上回っていたのだ。

 当時この地のここという場所には、海峡を通る異国船を砲撃すべく、あらんかぎりの大砲が配置されたという。

 そしていざ、四ヶ国連合艦隊が海峡にやってきたとき、長州藩が誇る各砲は……

 ……全然相手に届かないのだった。

 実際に届かなかったのかどうかはともかく、沿岸に配備された砲列では異国の戦闘艦の砲火にまったく対抗できなかったのはたしからしい。

 まぁ、陸上から船を撃つってのは難しいんだろうなぁ…

 …と朧げに想像してはいたんだけれど。

 この関門海峡、特に壇ノ浦あたりなんて、相当狭いですぜ。

 むしろ大砲がズラリと並んでいるこんな海峡を通る側のほうが、よっぽど不利に見えるんですけど。 

 この圧倒的に有利な条件でさえコテンパンにやられてしまい、彼我の火力に天と地ほどの差があることを思い知らされたのだから、ともかくも近代化する以外に道はないと考えたのは当然。

 異国と対等に渡り合うためにはまず、長州藩が強くなければならない。それを阻む幕府は、もはや邪魔以外の何物でもない。

 以後長州藩が突っ走る行先が、攘夷からまずは倒幕に針路変更するのも必然なのだった。

 当時の長州藩の眼を目が飛び出るほど開かせることとなった下関戦争では、ここ壇ノ浦にも大砲が配備されていた。

 壇ノ浦砲台跡ということで史跡として残されているその場所には……

 

 当時の長州藩の大砲のレプリカがズラリと勢揃いし、海峡ににらみを利かせていた。

 そのうちの1台は、100円玉を投入すると面白いことになるらしい。

 さっそくやってみたので動画でどうぞ。

戦う長州砲。
(24秒ほどのYoutube動画)

 子供だましといえば子供だましながら、海に向かってぶっ放してる感がなんだかおもしろい。

 でもこれらの砲台のことごとくは、占拠されたのちに壊されたり海に遺棄されてしまったわけだから、いわば砲の墓標といっていい。

 新旧2つの戦いに思いを馳せつつ、関門橋の下を通って海沿いを歩く。

 すると、海辺にヘンテコな岩があった。

 よく見ると、注連縄が巻かれている。

 根元のほうはなんだかプチ沖ノ鳥島状態になっているところといい、注連縄といい、重要そうな岩のようだけど、残念ながら歩いている時にはなんだかわからなかった。

 テケテケ歩いている海辺の道は国道9号だ。

 京都を発して福知山方面を通過してから山陰側に出て、昨年探訪した温泉津を通りつつ、益田あたりから山陽に出てくる国道9号は、ここ下関が終点になる。

 この岩の道路を挟んだお向かいに、鳥居が山肌沿いにやたらとたくさん並んでいるところがあった。

 扁額には、立石稲荷大明神とある。

 調べてみると、平家一門が屋島で敗れてのちこのあたりを本拠とした際に、京都の伏見稲荷から分祀してこさえたものなのだとか。

 そういういきさつがあるお稲荷さんだから、ここには平家に準じた方々を弔う無縁供養塔があるそうだ。

 先ほどのヘンテコな岩はこのお稲荷さんのご神体だそうで、烏帽子岩と呼ばれているらしい。

 毎年冬になると注連縄を新しくする儀式がとり行われるという。

 近くにある赤間神宮の神職が漁船にのって岩に近づいてこのご神体に飛び移り、20キロもある注連縄を交換する儀式なのだとか。

 ネット上で観られる写真を拝見するとなかなか面白そうな神事ながら、豊漁祈願という意味もあるらしいから、若い神職には相当なプレッシャーになるんじゃなかろうか…。

 烏帽子岩とお稲荷さんを隔てる国道9号、昔はもう少し素朴な道だったのだろうけど、すっかり整備されている今では片側2車線のかなり立派な道路だ。

 沿道の家並も、海側には昔ながらっぽい家々が残っているものの、付近にはやたらと高層マンションが目につく。

 下関もすっかり近代化しているらしい。

 というか、もともと下関は江戸の昔から「西の大阪」と呼ばれるほど海運で栄えたそうだから、いつの世も「近代化」していた町なのだろう。

 そんな街並みではあるけれど……

 下関市壇之浦町。

 当たり前といえば当たり前ながら、大昔の古戦場の地名が(之の字が違うけど)そのまま残ってるんだなぁと思うと、このようなプレートひとつ見ても感慨深い。

 その壇之浦町の真新しいマンションや家々が並ぶ地域にあって、なぜだかそこだけ時が止まっているかのようなゾーンがあった。

 海辺に並んでいるその家々は、階下の倉庫スペースの向こうが海(ひときわ明るいところが海面です)。

 なんだか伊根の舟屋みたい…。

 すると、「壇之浦漁業協同組合」と書かれた、今にも錆で朽ち果てそうな表札が掲げられている家があった。

 これって昔の名残りなんだろうか…

 …と思いながらさらに先を行くと、時が止まったゾーンが尽きるところに、慎ましやかな漁港を発見。

 おお、壇之浦漁業協同組合は現役だった!

 ここの漁師さんたちが、烏帽子岩の注連縄交換で船を出しているのだろうか。

 岸壁から見ると、家々の階下が伊根の舟屋みたいになっているのがよくわかる。

 ずっと昔からこの地で漁師をしてこられた方々の集落なのであろうことを思うと、現在の漁師さんの中にも、平氏に与した誰それの子孫、という方が一人や二人くらいいらっしゃるかもしれない…。

 このあともう少々下関界隈をプラプラしてみたワタシにとって、ここは最も印象に残る景色だった。

 しかしこの景色はやはり、やがて時代とともに消えていくことになるのだろう。

 歩いている時には気づかなかったのだけれど、この「時が止まったゾーン」をグーグルマップで観てみると、端のほうの家々は、なんだか国道にバッサリ断ち切られているように見える。

 まさか最初からこのような造りだったとは思えない。国道を広く立派にする際に、お金で解決されてしまったんだろうか……。

 古戦場跡は残っても、人々の安穏な暮らしはなかなか残せない日本。 

 この漁港は、下関の絶滅危惧風景なのかもしれない。 

 素敵な漁港をあとにし、さらにテケテケ歩いていると、やがて沿道の住所表示が、壇之浦町からこのように変わった。

 阿弥陀寺と書いて「あみだいじ」と読むそうな。

 その地名の由来は、ここに阿弥陀寺というお寺があったからなのだけど、その阿弥陀寺は明治の廃仏毀釈で官幣神社として生まれ変わり、赤間神宮となった。

 プレミアムホテル門司港の部屋から見えた、あの神社だ。

 今朝まで関門海峡を挟んだ対岸に見えていた神社が、今目の前に。

 まるでテーマパークの門のようにも見える手前の建物は水天宮と呼ばれているもので、昭和になってから、それも戦後に造られたそうな。

 かつて二位尼が「波の下にも都ありとは」と詠み、壇ノ浦を本人の意思に反して生き残ってしまった建礼門院が「(息子の)安徳天皇や(母の)二位尼が竜宮城にいる夢を見た」といったエピソードにちなみ、そもそもこの赤間神宮自体が竜宮城のイメージで造られているのだとか。

 赤間神宮という名は、下関がもともと赤間関(あかまがせき)と呼ばれていた土地だからであって(赤馬関と書かれることもあるため、江戸時代を通じ、略して馬関(バカン)と呼ばれていたらしい)、けっして赤が好きだからというわけではない。

 ではないけど、赤間神宮……

 赤い。

 赤い。

 赤い。

 レッドマンの主題歌もかくやというほどに(< 誰も知らない…)、赤い赤い赤間神宮である。

 さすが竜宮づくり。

 こんなに派手派手ではあるけれど、かつて阿弥陀寺だった頃から、ここでは壇ノ浦で亡くなった平家一門がひっそりと供養されていることでも知られている。

 この供養塚が七盛塚と呼ばれているのは、みもすそ川公園で大きな碇を抱え上げていた知盛をはじめ、供養されている七人の男性陣が皆「平〇盛」という名前だからなんだろう。

 もちろんここには、二位尼こと平時子さんの墓もある。

 後列左端が彼女の墓碑だそうだ。

 赤間神宮、こうして慈しみ深くご一門を供養しているところでありつつも。

 寡聞にしてモノを知らないワタクシ、子供の頃からお馴染みの「耳なし芳一」のお話の舞台が、ここ赤間神宮の前身である阿弥陀寺(と比定できる寺)などとはつゆ知らず。

 しかも、もともとあった話をもとに、耳なし芳一を全国的に有名にしたのはラフカディオ・ハーンだったんですね……。

 ここ阿弥陀寺=赤間神宮は耳なし芳一のお膝元もお膝元。だから耳なし芳一も……

 「芳一堂」でしっかり祀られている。

 このお堂に備えられているスピーカーから、うら悲しい琵琶の音色が流れている。

 中で琵琶を抱えている像は、もちろん……

 すでに耳が無い芳一。

 この耳なし芳一の耳を奪うことになる怨霊の方々が平家のご一門だった…ってことも、今さらながら初めて知ったかも。 

 いやはや、知ってるつもりで全然知らなかった耳なし芳一。

 しかし名作アニメ「まんが日本昔ばなし」では、もちろん耳なし芳一も作品になっている。

 ワタシ同様知ってるつもりでご存知なかった方は、上の画像をクリックすると、Youtube動画でご覧いただけます(上の作品内で芳一が壇ノ浦の合戦場面を奏でている時の琵琶の調子が、この芳一堂からずっと流れているものにそっくり)。

 ところで、1話10分ほどの「日本昔ばなし」を、齢五十を過ぎたオッサンが真剣に視聴してみた結果、どうしてもわからなかったことがひとつ。

 結局のところ怨霊となっていた平家ご一門は、いったい何をしたかったんだろう??

 それはともかく、猫も杓子もスマホ片手に暇さえあればゲームやラインをしている今の世の中では、耳なし芳一に限らず「まんが日本昔ばなし」なんていったら、もはやある意味教養番組といっていいかもしれない……。

 行きに通ってきた大鳥居から出ずに、水天宮の脇から続いている小道を行くと、そこに安徳天皇が静かに眠る陵がある。

 上の作品で、芳一が夜な夜な通っていたところだ。

 しかし当時と違って現在は宮内庁管轄のこと、小ぶりながらも荘重な門はしっかり閉ざされており、中の気配をうかがい知る術はない。

 今の世なら、怨霊に導かれた芳一が入ることもできないだろう。

 安徳天皇の安らかな眠りは、誰にも妨げられることはない。