11・関門散歩・下関編2〜フクの神〜

 安徳天皇陵の前を通り過ぎ、さらに小道をテケテケゆくと、いつの間にやら赤間神宮の境内は終わり、突如として洋風の建物の裏道に出る。

 完全に裏口なので、最初に目に入る2人の胸像は後頭部。

 前に回ってみると……

 え?いとし・こいし師匠??

 ……じゃなくて、伊藤博文と陸奥宗光だった。

 NHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」でいうなら、ともに今は亡き加藤剛と大杉漣のコンビである。

 なぜここに唐突にこの2人の胸像があるのかというと、実はここは日清戦争に勝利した日本が、清との講和条約を結んだ場所なのだ。

 日清講和条約こと、下関条約である。

 日本史で初めて習った頃は、子供心になんで日本と清の講和条約が東京から随分遠い下関なんだろうと不思議で仕方なかったのだけど、下関といえば当時日本海軍の一大根拠地。

 交渉相手にいつでもやったるでー的にその軍事力を見せつけるには、まさにうってつけの場所だ。

 そういう意味もさることながら、そもそも首相の伊藤博文が長州のヒトだったんですものね。

 伊藤博文総理、陸奥宗光外相はじめ日本政府が清国代表の李鴻章一行との戦後交渉に臨んだのが、当時すでに下関にこの店ありと知られていたここ、料亭春帆楼だ。

 門司港散歩の際に遠望した、三宜楼茶寮の料理を現在プロデュースしている料亭である。 

 高杉晋作が組織した奇兵隊はその本拠地を阿弥陀寺境内に置いていたこともあるらしく、春帆楼は明治後その本拠地跡にできたそうな。

 その屋号を提供したのは伊藤博文なんだとか。

 目の前に広がるうららかな春の海を行き交うたくさんの帆船を眺めながらのことだったという。

 伊藤博文と春帆楼の付き合いには、日本人にとってとても大事なことがひとつある。

 すでに総理大臣になっていた明治20年の暮れのこと、下関に来ていた伊藤が春帆楼に立ち寄った際はあいにく大時化で、店で出す料理の食材に事欠く非常事態に。

 そのとき、当時の女将が決死の覚悟で伊藤にフグ料理を提供したというのだ。

 フグは縄文時代から食されていたそうなのだけど、なぜだか中毒出まくった豊臣政権時代(エサによってフグの毒性が変わることを考えると、この時期海で何かがあったのかも)に、フグは国法でご禁制の魚と定められ、江戸期を通じて忌避されるようになっていったらしい。

 ところが下関ではずっと食され続けており、江戸期に下関を訪れた他国の人間はみな驚いたという。

 それが明治になると、開国したくせに窮屈になって全国一律でフグの生食は厳罰に処されることとなり、下関でもご禁制の品になっていたから、ましてや一国の総理大臣に供せるものではなかった。

 ところが伊藤総理、若い頃に高杉晋作らとともに(おそらく下関で)フグを食べたことがあって、その美味しさを知っていたそうな。

 あらためて食べてみてその美味さを再認識した伊藤は、翌年山口県知事に対し禁を解くよう指示し、春帆楼は晴れてフグ料理を公に認められた日本で最初のお店になったという。

 大時化の日に女将が総理にフグを出さなかったら…

 というか、当時の首相が伊藤博文じゃなかったら…

 さらにいうなら長州が明治維新の原動力ではなかったら……

 我々は今もなおフグの味を知らずにいたかもしれないのである。

 春帆楼の女将さん、総理にフグを出してくれてありがとう。

 というか伊藤博文、講和条約交渉の場を下関にしたのは、フグが食べたかったからなんじゃね?

 さて、この春帆楼にて交渉が行われた下関条約、講和会議が行われたことを記念して、敷地内に講和記念会館なるものが作られている。

 そしてその館内で、当時の春帆楼の会談の場が再現されている(ガラス張りの中で)。

 

 この席で交渉が行われていたそうなのだけど、案外「リーちゃん、下関のフグは美味いよぉ〜」なんて話がなされていたかも……。

 < それはない。

 この交渉に臨んでいたリーちゃんこと清国代表李鴻章は、この近くの寺を宿にしていたという。

 当時の彼らの春帆楼までの通り道だったからか、小道が李鴻章ロードという名になって、今も残っている。

 この道、てっきり観光客用に整備されたものなのかと思いきや、道の山側には一般住宅が並んでいた。

 でもそれらの家々に通じている道はこの小道だけのようで、自動車など絶対通れないよなぁ……

 …なんて思っているところへ、荷物を抱えたクロネコヤマトのにぃにぃが軽快に走ってきたかと思うと、とある一軒のおうちの呼び鈴を押していた。

 配達だ。

 やはり車ではここまで来られるはずはないらしく、どこかにトラックを停めて荷物を下ろし、ここまで小走りで運んできたらしい。

 そのまま行けば李鴻章が滞在していた寺に行きつくであろうところ、程よいところに階段があったので降りると、そこにクロネコヤマトのトラックがハザードランプをつけたまま停まっていた。

 写真はすでにトラック(矢印)を発進させた後。にぃにぃは荷物を抱えてこの階段を登り、さらに先へ随分行ったところにあるお届け先まで走っていたのだ。

 さすがセールスドライバー。

 あ、それは競合他社の呼称か……。

 (ちょっと寄り道

 そんな李鴻章ロードを通ってしまったがために、この近辺で立ち寄ってみたいとうっすら思っていたとある場所をスルーしてしまった。

 旧本陣伊藤邸跡というところ。

 伊藤といっても伊藤博文とはまったく関係のない、遡れば鎌倉の世からこの地の名士だったというこのあたりの豪商で、長州の支藩である長府藩(下関一帯)が参勤交代で江戸と行き来する際には本陣となっていたところだ。

 江戸の昔から長州藩士の下関における定宿のようにもなっていたという。

 幕末時の当主は有名なシーボルトとも交流があり、吉田松陰が初めて遊学の旅に出た際、九州へ渡る前に宿泊したのもこの伊藤邸だ。

 長州藩が下関を訪れた客人を泊めるに際しても利用していたからか、気がつけば坂本龍馬の下関における定宿にもなっていて、近江屋で坂本龍馬が暗殺された際は、その妻おりょうさんはここ伊藤邸にて悲報を伝えられたそうな。

 その本陣伊藤邸跡は、春帆楼のすぐ下、坂を下りてすぐのところだったのに、そのまま李鴻章ロードを歩いたものだから、すっかり通り過ぎてしまったのだった。

 もっとも、跡地は跡地だから、そこに何があるというわけではないので、オタマサにとってはクロネコヤマトが荷物を抱えて走らねばならない昔ながらの住宅事情を知ったことのほうが、遥かに興味深かったらしい。

 下関の豪商といえば、もう一人忘れてはならない人がいる。

 白石正一郎だ。

 幕末ものの物語では、主人公が長州であれ薩摩であれ土佐脱藩浪士であれ、必ずといっていいほど登場するヒトである。

 江戸時代の豪商といってもピンとこないけれど、その財たるや、今でいうなら孫正義だと思って差し支えはなさそうだ。

 そんな商人である一方で、白石正一郎は憂国の志士でもあった。

 商人たちもまた読書階級になっていた江戸時代、それもこの頃は 時代が時代だけに、知識=「ニッポンやばいんじゃね?」という感覚になっているヒトも多く、平田国学にどっぷりハマっていた白石正一郎もまた然り。

 とはいえ豪商といえども町人は町人、当時の身分社会ではいかんともしがたいから、彼は自分にできることで世に尽くすことにした。

 ニッポンのために動いている人たちを、力の限り援助する。

 援助といってもハンパではなく、そのためにはたとえ代々続いた自らの商家が傾こうが無くなろうが、とにかく身代投げ打ってもかまわない、あらんかぎりの注力ぶりである。

 だからこそ、幕末の偉人列伝に名を連ねる多くの人々が、彼と親交を深めることができたのだ。名を連ねていない人々も含め、白石正一郎邸の世話になった「志士」たちは、総勢400名という。

 なかでも長州の高杉晋作は白石正一郎に最も見込まれた男だったらしく、彼が組織した奇兵隊の資金面は、ほぼほぼ一切白石正一郎まかせだった。

 その他とにかくなりふり構わずに資金面の援助をし続けた白石家の本業は、やがて傾くことになる。

 維新後もしばらくはなんとかなっていた白石家ながら、明治8年にはついに破産してしまうのだ。

 豪商白石家は、明治維新という革命のために、ホントに身代を投げ打ってしまったのである。

 それも家族一族全員一致団結の協力のもとだったというから凄まじい。

 国が傾こうが己の利益を優先する商人ばかりの世の中になってしまった現代の日本からすれば、ほとんど狂気に近いほどの献身だ。 

 廃仏毀釈で阿弥陀寺が官幣神社赤間神宮になった、という話はすでに触れたけれど、どういういきさつがあったのか、破産後の白石正一郎は、なぜだか赤間神宮の2代目の宮司になり、幕末の風雲に比べればあまりにも静かな余生を過ごしたという。

 幕末の風雲を呼ぶスポンサーになっていながら、最後は神社の宮司って………なんだかおとぎ話のようですらある。

 もともと神道重視でいにしえの王朝礼賛的国学のシンパだったそうだから、神職というのは彼にとってひとつの本望だったのかもしれない。

 とはいえ、少なくとも維新に向けた献身に見合う待遇ではまったくなかったことだけはたしかだ。

 彼が支援した主だった人々のほとんどが、維新を前に非業の死を遂げてしまっていたということが大きいのかもしれない。

 維新後早々に有力財閥との癒着が見え隠れするようになった新政府の面々ではあるけれど、癒着先に白石正一郎の名は無かった。

 そして白石正一郎は、かつて下関にて共に語り合った西郷隆盛が西南戦争で最期を遂げた数年後、ひっそりと息を引き取ったという。

 身代を投げ打ったことについてではなく、明治新政府のありかたに関しては、

 「高杉さんがいれば、こういうことにはならなかった」

 と不満を述べていたらしいけれど、晩年のホントにホントのところの彼の本音は、どのあたりにあったんだろう??

 それもあって是非立ち寄ってみたかった赤間神宮、立ち寄ってみたらまさかの耳なし芳一……。

 (寄り道終わり) 

 話はすっかり白石正一郎に寄り道してしまっていたけれど、我々は今、亀山八幡宮の階段を登ったところに立っている。

 背後を振り返れば、もちろん関門海峡だ。

 関門海峡を間近に望む高台とくれば、戦術的重要拠点だったのはいうまでもない。

 異国船の脅威が高まる中、攘夷街道を突っ走りまくる長州藩のこと、当然のようにここにも砲台が設置されていた。

 そして、先進四カ国連合艦隊との戦争のきっかけになるアメリカ商戦への砲撃は、久坂玄瑞の号令のもと、ここ亀山砲台から放たれたのである。

 いわば日本初の攘夷の砲火。

 そんな亀山八幡宮の高台には、今はもちろん砲台などはなく……

 フグの像がある。

 いわく、世界一のフグ像なのだとか。

 まぁそりゃ、他の国ではフグ像など作らんですからね……。

 それにしてもやたらとリアルなフグの像。ここに至るまでの道中で観たマンホールのフグとは、別の生き物のようですらある。

 ところで、ここ下関やお向かいの北九州あたりでは、フグのことをフクと、あえて濁点を取るそうだ。

 濁点があると「不遇」につながるところ、濁点がなければ「福」となって縁起がいいから、ということらしい。

 さすがフグの本場。

 まぁワタシなどはフグだろうがフクだろうが、美味しければどっちでもいいんだけど、こうして巨大オブジェを目の当たりにすると、途端に腹が……(ポン、ポン、ポン!)

 減った。

 さっそく飯を食わねば!!

 しかし。

 時刻はまだ10時過ぎ。こんな時間に開いている飲食店なんて、ここから随分遠い下関駅前のファストフード以外にはないんじゃ……。

 ところが!

 飲むこと食べることに関しては入念なリサーチを欠かさない我々である。この日この時刻に自分たちがこのあたりにいるであろうことはわかっていたので、もちろん対策も練ってあった。

 ここ亀山八幡宮の階段を下りれば、目の前にあるのが……

 唐戸市場。

  あ、マンホールと同じキャラ!

 …それもそのはず、これは下関市のシンボルマークで、その名をフクフクマークというそうな。しものせきの「し」で、ダイナミックな海を表しているという……。

 唐戸市場は観光名所ではありながらも現役の魚市場で、朝早くにくれば大量に魚が並んでいるそうだけど、さすがにこの時間はピークが過ぎ去っており、人も疎らな静かなたたずまいになっていた。

 ご当地の鮮魚などのほか、店舗によってはクジラ専門店などもあって、週末の朝などは相当ごった返しているのだろう。 

 場内には、これまた巨大なフグオブジェが(さっきのフグよりこっちの方が大きいような……)。

 しかし現在の我々は、フグのオブジェにかかずらわっている場合ではない。

 飯屋だ。

 この唐戸市場のとなりには、カモンワーフというフードコート的建物もありはするものの、あいにく全店舗が11時以降の開店。

 周辺にある店もおおむねそれに準じているようだ。

 しかし朝早くからセリが始まる唐戸市場内には、朝から働く人々のための食堂がある。

 その名も市場食堂よし。

 なんと朝6時から営業しているという!

 現地で働く人々も納得の味と品を誇るというから、これはもう、かつて堪能した築地市場と同じく、まさに朝酒天国!!

 足取りも軽く、その市場食堂よしがある2階に登った。

 さあ、朝ビールだ、朝フグだ!!

 とーこーろーが。(ところが)

 よしさんは (よしさんは)

 本日 (ほんじつ)

 定休日 (ていきゅうび)

 なんてこった なんてーこーったー

 なんてこった なんてーこーったー………

 〜♪森のくまさんで歌ってください(涙)。

 市場フロアから見上げた時、店内に電気がついていないような気配だったから、イヤな予感がしていたんだよなぁ…。

 リサーチしていた時には定休日はクリアしていたはずだったのに、帰宅後調べてみると、どこを見ても水曜定休になってる……。

 なんで気がつかなかったんだろう?

 < どこが「入念」だったの?

 「市場食堂よし」は、我々にとっては「市場食堂だめ」だったのかも。 

 他にも回転寿司屋など海鮮ものをいただける店はあれど、やはり11時開店。

 この日12時40分門司港駅発の列車に乗らねばならない我々なので、その前にホテルに戻って荷物を受け取って…という時間も考えると、11時の開店まで待っていられない。

 ここで朝昼兼用の食事&朝ビール!を心の支えにして、これまで延々歩いてきたのに……。 

 ああどうしよう、腹が減った……。

 海辺を彷徨いつつ途方に暮れる我々。

 オタマサなどは、旅行前にはあれほど否定していたくせに、かくなるうえは次善の策として、「門司港に戻って焼カレー食べよう」などと言い出す始末。

 いくらキレンジャーとはいえ、市場食堂よしではふぐ刺し定食を食べるつもりでいたからすでに胃袋はすっかりフグ待ち態勢になってしまっているワタシに、今さらカレーという選択肢は無かった。

 とはいえ。

 ウーム……万策尽きたか。

 そんなとき、優しく手を差し伸べてくれる店が!!

 こちら。

 ふくの河久(かわく)。

 なんと10時から開いている!!

 唐戸店とあったところをみると、他にも店舗があるチェーン店のようながら、たたずまいは質素に慎ましく、何も知らない観光客から多額の飲食費を巻き上げよう…という店には見えない。

 入ってみると、知られざる沖縄そば屋の名店……のような雰囲気だった。

 券売機で食券購入方式だったので、祈るようにメニューを観てみると……

 あった!

 さっそく乾杯。

 おお、テーブルクロスまで沖縄そば屋の名店のようじゃないか。

 不幸のズンドコから這い上がり、ダハダハビールを飲んでいるところへ、お待ちかねのフグ料理が登場。

 ワタシは……

 フク刺しセット@2,200円。

 オタマサは……

 まんぷくセット@1,600円。

 せっかくだからと奮発してさえこの価格で、他にもっと安価に手軽に1,000円弱で気軽にいただけるフグメニューがたくさんラインナップしているあたり、やはりたたずまいから受ける期待どおりのお店のようだ。

 我々が頼んだセットは似たような顔ブレながら、フグの刺身と皮が刺し盛りになっているか、どんぶりになっているかという違いのよう。

 フグ刺し、大阪で言うなら「てっさ」は、普段自分たちで買うことはまずないけれど、帰省のおりなどにご馳走してもらえるから、ちょくちょく食べる機会はある。

 でも正直、特に味が無い薄いだけのお造り…という感が否めず、ポン酢と紅葉おろし大量投入のなかに5枚くらいまとめて箸で掴んで口に放り込みでもしないかぎり、食べた気にならない刺身だとずっと思っていた。

 でも……。

 フグ刺しって………美味いかも。

 見た目は大阪のスーパーあたりで売られているものと変わらなそうに見える……と思ったら、けっこう分厚い??

 なんといっても刺身にしっかり味があるじゃないか。

 ワタシから一切れ奪って食べ比べたオタマサによると、ダイダイポン酢っぽい味付けがなされていたどんぶりのフグよりも、刺身でいただくほうが美味しいとのこと。

 刺身も美味しかったけれど、副菜的にさりげなく配置されているフグのから揚げとフライが、なんともB級テイスト溢れる味で、これがまたビールに合う!

 これは唐揚げ。

 味付けされているから何もつけなくていいとママさんがいうとおりに食べてみたところ、たしかに味がついている。

 ともすればその味付けの味だけになっている感がなくもないところながら、なんといっても身たっぷりの食感が抜群だ(骨ごと食べられる)。

 あまりに美味しかったから、この先の道中用にと、アチコーコーの唐揚げ2つ@400円をテイクアウトしてしまった。

 当然のように2杯目のジョッキをグビグビやりつつ、唐揚げとフライもいただき、締め的に味噌汁をいただく。

 このフグの身が投入されている汁がことのほか美味しく、五臓六腑に染み渡る滋味。

 まさに沖縄そば屋の名店級のやさしさである。

 空いていた店内も、我々が食べ終える頃にはシゴトで下関に来ているらしきオジサンたちなど他にもお客さんがやって来るようになっていたから、昼時ともなれば平日でもけっこうにぎわうのだろう。

 ああ美味しかった。

 ふくの河久、救いの手を差し伸べてくれてありがとう。我々にとってはまさにフクの神でした……。

 一時は絶望のどん底に突き落とされていた我々も、腹が膨れていいコンコロモチになったら、さっきまで見えていた景色までバラ色に変わってくる。

 先ほどまでは嫌がらせにしか見えなかったフグ提灯の飾りつけも…

 頬ずりしたくなるほどに可愛く見えるじゃないか。

 鹿児島に上陸し、京都を目指す途中に下関に立ち寄ったというフランシスコ・ザビエルも、この地でフグを食べたろうか。

 ちなみにこれはザビエル上陸を記念する碑ながら、行楽用に整備されているこの界隈は埋立地だから、ここに上陸したわけではない。

 正確には、亀山八幡宮の大鳥居の下あたりじゃないか、という話。

 だからといって、神社の入り口にキリスト教関係者の碑を建てるわけにはいきませんわね……。

 さらにちなみに、人生初の遊学の旅に出た吉田寅次郎青年が九州に渡る際は、ここ亀山のあたりから船に乗ったそうだ(渡し船の行先は大里)。

 唐戸市場の裏を歩いていると、妙なところで何かが飾られているかのように見えた。

 気になったので近づいてみると……

 あ、フグヒレだ!!

 ネット通販などで、10枚20枚くらいでけっこういいお値段がするフグヒレが、まるで蝶マニアのコレクションのようにズラリと干されているのだ。

 なるほど、こうして干すのか……。

 この先をさらに行くと、わりと有名なオブジェがある。

 例によって巨大なフグと、フグのセリをしている男たち。

 こちらではフクの「袋セリ」という伝統の方法があるそうで、それが再現されている。

 なんだか沢〇エ〇カが薬を購入しているかのようなアヤシイ動きながら、この両口を開けた袋に手を入れることによって、ハンドシグナルによる金額表示が他者に見えないようにしているのだとか。

 なるほど。

 そうこうしているうちに、先ほどまで青空が目立っていた空が、にわかにかき曇ってきた。

 この先歩かなきゃならないとなると厄介なことになりそうだけど、その点は心配ご無用。

 我々はこのあと、船に乗って門司港に戻るのだ。

 旅程計画中、

 ●門司港では是非とも関門トンネルを歩いて下関まで行きたい。

 ●だからといって重い荷物を引きずって歩き回れない。

 ●となると荷物はホテルに預ける。

 ●でも同じ道を通って戻るのはつまらない。

 というすべてのモンダイを一挙に解決する方法、それが関門汽船だ。

 門司港と巌流島、唐戸を結んでいる関門汽船は、その他に門司港と唐戸の間を日に何度も往復している。

 その所要時間、およそ5分。

 しかも発着する港は、唐戸側はこの唐戸市場から目と鼻の先、そして門司港側は、ホテルまで歩いてあっという間の場所。

 この渡し船の利用を思いついたオタマサは、まるで天下を取ったかの如く勝ち誇っていたのだった(その頃はまだ「よし」が定休日だなんて夢にも思ってなかったけど)。

 というわけで、そろそろ船の時間が近づいてきたのでターミナルへ。

 さすが古くからの港湾都市、どこかの島と違って、小さな連絡船のためのポンツーンもしっかり整備されている。

 門司港、巌流島、という行先が、旅情をかきたててくれる。

 その昔巌流島でアントニオ猪木と戦ったマサ斎藤も、この連絡船で行ったのかなぁ…。

 < チャーターでしょう。

 船はこんな感じ。

 八重山の海を四方八方駆け巡る安栄観光の船のような作りで、客席は乗船デッキよりも一段下がったところに設けられている。

 でも新型肺炎ウィルス予防のためにも、たとえ5分とはいえ閉鎖環境は避けて、後部デッキに用意されてある半屋外テラス席(?)に座ってみた。

 でも船が出航してからよく見ると、上階へ行ける階段があったので、登ってみると…… 

 

 おぉ、屋上デッキ!

 降り始めた雨におりからの北風でデッキ上は激寒空間ではあったけれど、そうそう観られる景色じゃないからこのままここにいることに。

 なんてったって、たったの5分ですから。

 ちなみに、こんな感じで走ってます。

 我々以外にもこんなお天気の日にデッキにいるもの好きがいたので安心した…。

 ところで、関門海峡はけっこう大きな船舶が何隻もひっきりなしに通航しているのだけど、この唐戸と門司港を結ぶ連絡船は、その海峡を横断するように航行しているから、他のあらゆる船舶と直交することになる。

 1時間に3往復を朝から夜まで、都合40往復以上しているというのに、よくもまぁ大きな事故もなく過ごしているようなぁ…。

 やがて船は海況中央付近に。

 これまで何度も何度も観てきた関門橋ながら、真横から眺めるのは初めてだ。

 これで昨日のようなお天気だったらなぁ!! 

 5分の航海が終わりを迎える頃、見慣れた景色が眼前に迫ってきた。

 たった5分とはいえ、楽しかった門司港滞在の最後を飾るにふさわしい航海だった。

 ちなみに、門司港側の乗り場はこんな感じです(撮影は前日)。

 このポンツーンの隣には、警察用、消防用などの専用ポンツーンが並んでいる。

 下関に劣らず、門司港もやはり港湾設備は充実しているのだった。

 船を降りてターミナルから出ると、客待ちの人力車お兄さんが、我々に営業をかけてきた。

 氷雨降る中大変だろうなぁとは思うけれど、残念ながら我々は、このあと一路萩を目指す。

 楽しかった門司港よ、さらばさらば。

 旅の目的地の中間地点バラン星的な意味合いでの門司港滞在ではあったけれど、1泊で去るには惜しい楽しい場所であることが判明してしまった。

 というか、昨夜の肴といい人道トンネルといい、なんだか旅行の主目的をすべて果たしてしまったかのようなこの充実感。

 もはや我々にとってこの先は、オマケでしかないのか??