15・指月山

 温泉宿に素泊まりで泊っていると何が便利って、指定された朝食や夕食の時間の束縛がないってこと。

 なので2月6日の朝も、まだ明けきらぬ夜の菊ヶ浜の潮騒を聞きながら気持ちよく目覚め、夜明けを迎えて明るくなってきたところで、ほぼ貸切状態の温泉へ。

 いやはや、極楽極楽。

 部屋で海を眺めながらチビチビ酒を飲みつつ、気が向いたときに湯に浸かる……ってのもシアワセかも。

 …と思いかけたところで、ふと気がついた。

 すでに萩で一泊しているというのに、まだ萩の何も観ていないじゃないか。

 人生最初で最後かもしれない萩探訪、湯に浸かって酒飲んで…で終わってしまうわけにはいかない。

 というわけで、温泉で全身をいったん温めたあと、8時に宿を出発、萩の町を散歩してみるとしよう。

 曇り予報のこの日、分厚い雲があるわりにはところどころに青空が見えたりしていたから、雨の心配をする必要は無さそうだ。

 まずは萩の町のランドマーク、指月山を目指す。

 指月城とも言われる萩城の跡があるところで、宿からほど近いところにある。 

 近いとはいえ……寒い。

 曇っているうえに風が強いため、温泉効果があっという間に消し飛んでしまいそうだ。

 しかもパラパラと雨滴が??

 …と思ったら、たちまち霰に変わっていた。

 気象庁的には「雪」の範疇に入るから、個人的に今季初雪。

 宿から指月山に行くには、菊ヶ浜沿いの道を行き、そのまま堀割を渡って二の丸東門跡から入るのが圧倒的に近くて手っ取り早い。

 でもなんとなくそれでは裏口入学のような気もするので、キチンと観光客的正面玄関(?)から入ることにし、掘割沿いを南下する。

 堀といっても近くの橋本側から菊ヶ浜へと水を引いた運河なので、綺麗な水が流れている(今のように一直線になったのは近代になってかららしい)。

 観光シーズンにはここから遊覧船が出るらしく(萩八景遊覧船)、船着き場があった。

 桜の季節ともなるとさぞかし優雅な船遊びになるんだろうけど、この寒い季節、たとえ運航していても、霰も降る中だととても乗る気にはならない。

 船着き場の脇で、アオサギも寒さに身を縮めていた。

 指月橋を渡ってこの堀を越え、旧厚狭毛利家萩屋敷長屋の前にある正しい(?)入り口から入っていくと、道沿いに像があった。

 毛利輝元公である。

 広島の奥深い水納島のような形をした小国から、一代で中国地方をその版図にした洞春公こと毛利元就の孫にあたるヒト。

 元就が一代で築き上げ、三本の矢の教えで揺るがぬものとしたはずの大版図を、これまた一代でスーパーダウンサイジングさせた輝元は、関ヶ原の合戦を扱うドラマなどでは、まぁたいていの場合ボンクラとして描かれる。

 しかし萩にとっては、萩を「町」にしてくれた藩祖だ。

 関ヶ原の合戦後、西軍側についた毛利家は徳川家により周防・長門2国に逼塞させられることになって、東方面への反撃がままならぬよう、日本海側の萩に藩庁を置くよう家康から義務付けられた……という話はよく聞く。

 でも実際は、広島からこの地に移る際、藩庁候補は瀬戸内側にもあったらしく、萩の地を選んだのは輝元とその家臣たちなのだとか。

 そのおかげで萩の町。

 世間的にはボンクラ輝元、現在の萩にとっては恩人も恩人なのである。

 そんな藩祖に挨拶しつつさらに歩を進めていると、沿道の木々にお馴染みの鳥さんが。

 ジョウビタキのオス。

 冬になるとどこにでもいますな、ジョウビタキ。

 でも「萩のジョウビタキ」となると、なんとなく品があるように見えるのは気のせいだろうか。

 < 気のせいでしょう。

 今我々が歩いているところはかつてのお城の二の丸だったところのようで、やがて二の丸と本丸を隔てている内堀に出た。

 左奥の一段高い台座になっているところが、かつて天守閣が建っていた場所。

 かつては↓こうだった。

 五重五階の大型望楼型天守だったそうで、築城時期が築城技術革新の真っ最中だったために、旧式技術の特徴を残しつつ、最新技術も取り入れられているという、城郭マニア垂涎の天守閣だったらしい。

 維新後、明治政府はいわゆる廃城令を出して、全国の城を従来通りに利用することを禁じた。

 それは即取り壊しを意味するものではなく、現に今に至るまで天守閣が残っているお城もいくつかある。

 維新の勝ち組とも言うべき長州藩の本拠地、萩の城となれば、なにも無くさずとも……と思える。

 しかしながら廃城令が発布された翌年には、天守閣をはじめとするありとあらゆる構造物が三の丸に至るまで徹底的に解体され、早々に跡地となった萩城。

 これはやはり、それまでの既得権を徹底的に否定して新システムを構築する旗頭的長州としては、率先して範を示さなければならなかったってことなのだろうか。

 あの台座に天守閣があればさぞかし絵になるだろうことを思うと、なにもそこまで世を憚らず、せめて天守だけでも残しておいてくれれば……と思わなくもない。

 この内堀を渡る。

 極楽橋と呼ばれていたそうで、ここを渡ると、かつてそこには本丸内門があったそうだ。

 でも今は……

 料金所がある。

 大人1人220円を払うつもりで窓口に寄ったところ、はて、誰もいない。

 すでに入園OKの時刻になっているから、来るのが早すぎたわけではない。

 はてさて、しょうがないから2人分の料金を置いていこうか…と思っているところへ、自転車に乗ったご婦人がご到着。

 「すみませーん、神社のほうに行ってたもんで…」

 この指月城公園、こうして料金をとってはいるんだけど、入口はここだけというわけではなく、他の方面からいくらでも自在に入ることができるようになっていた。

 なんだかとってもゆるいんですけど…。

 かつて天守閣があった台座に登ってみた。

 天守閣用の礎石がそのまま残されているこの台座、なぜだかやけにトンビが数多く飛んでいて、ピーヒョロロ……の声もデカい。

 それどころか、何か餌でもくれることを期待しているのか、やたらとなれなれしく近くを飛んでいる。

 実は上の写真は、トンビがオタマサの後頭部付近をかすめ飛んだ直後。

 何か手に食べ物を持っていたら、襲われるかも。

 そんなトンビを警戒しつつ、天守閣跡からさきほどの極楽橋方面を眺めてみる。

 内堀は江戸の昔とほぼ同じ姿だ。

 ほぼ同じ姿といえば、背後の指月山も同様。

 ただし往時はこの天辺に詰め丸と呼ばれる構造物があって、見晴らしの良い立地を生かした周辺防御上の役目を負っていたらしい。

 自らの不始末(?)によって版図のスーパーダウンサイジングを余儀なくされた輝元ではあったけれど、徳川の牙はまだこの先も向けられるかも…という臨戦態勢はとっていたのだなぁ、きっと。

 輝元、「やる時」が来たらやっていたかも。

 < 関ヶ原が「やる時」だったんだって。

 「やる時」のためにも、当時の頂上付近はちゃんと360度の視界をキープしていたはず。

 構造物は解体されているものの、石垣や貯水池などの遺構は残っているという。

 公園内には、詰丸までの登山道入り口があった。

 山頂は入り口から20分ちょいだというから、後のことを考えなければ、けっして登れない距離ではない。

 後先を考えないオタマサのこと、登りたいと言い出すかも。 

 しかしその入り口の脇にある注意事項には……

 せっかく登っても眺めがよろしくないとなれば、さすがのオタマサも血迷うことはなかった。

 ホッと胸を撫で下ろす。

 ところで、ここまでさも事前にリサーチしてから指月城跡を巡っているように述べているけれど、往時の天守閣以外の知識はほぼ皆無だったから、そもそも指月城公園がどういう範囲になっているのかすら、まったくわかっていなかったワタシ。

 なのでついフラフラと道が続くのに任せて歩いていると、なんだかあたりは城跡の公園とは思えないゾーンになっていた。

 後で知ったことに、そこは指月城公園と隣接している萩市石彫公園というところだったのだ。

 どおりで現代アート風のオブジェがたくさんあるわけだ。

 そんな公園内で……

 ヤマガラに遭遇。

 沖縄本島にも亜種であるアマミヤマガラが生息しているらしいのだけど、山地の森林を好む鳥なので、水納島ではまず観られない鳥さんだ。

 そうやって鳥を見つつ、松林に防虫用なのかアンプルをとりつけている(ドリルで幹に穴を開けるんですね)職員さんたちを見たりしながら歩いていたら、海に出てしまった。

 観光客として萩城跡を訪れているヒトは、滅多にここまで来ないんじゃあるまいか……。

 今回はまだ日本海に触れていなかったから、タッチ。

 オタマサ(矢印)の背後は指月山で、このように海からいきなり山になっている。

 実はこの指月山、毛利輝元がこの地を居城とする以前は、満潮時には島になっていたという。

 間は干潮時に干出する干潟だったそうで、輝元は築城の際にそこを埋め立てて現在の姿にしたのだそうな。

 指月山の東側には、最初に裏口入学的門と呼んでしまった二の丸東門からずっと続く石垣&土塀の果てに、潮入門という構造物があったそうだ。

 現在は跡だけながら、海沿いに続く曲線を描く石垣は残されており、昭和になってからその石垣の上に、往時あった銃眼付きの土塀が一部復元されている……

 ……ということを知ったのもまた、これを書いている今この時になってから。

 なにしろフラフラ歩いて反対側の海辺に出てしまっているくらいだもの、そんな復元土塀など知るはずもない。

 それでも後刻我々は、その潮入門跡と海沿いの石垣&土塀を見るともなしに見ていたようだ。

 というのも、泊っている萩一輪の目の前にある菊ヶ浜から西を見れば……

 すぐそこに指月山。

 そしてその海辺を観てみると……

 ちゃんと写真で残してるあたり、さすがオレ。

 …って、撮ってるときは全然気がついてなかったけど。

 このように海辺の石垣に銃眼付きの土塀という構造は萩城ならではだそうで、敵が海から来ることも想定していたのだ。

 ボンクラ輝元は、やはりタダモノではなかった。

 そうと知ると余計に間近で観たかったなぁ、土塀。

 そんなところがあるとはつゆ知らず(いまだに知らないことも多々あるだろうけど)、再びお城のほうに戻ってきた我々は、咲き誇るお堀端の梅を鑑賞していた。

 こんだけ咲いていると、さすがに梅の香が充満している。

 ああ、小梅ちゃんの香り……。

 ちなみに先ほどの潮入門跡は、ここからほんの少し指月山側に行ったところにある……。

 手取足取り楽しませてくれるテーマパークなどとは違って、こういう「跡地」巡りの場合、自分の脳内をテーマパークにするくらいに事前にリサーチしておかなければ、目の前の景色は風景でしかない。

 現地の居酒屋情報リサーチに注力している場合ではなかったかも??

 今さらではあるけれど、往時の萩城をビジュアルで観る方法もある。

 リアルCGで復元してくれているヒトがいるのだ。

 指月城跡に行く前に、こちらをご覧になっておくことをお勧めします……。