17・平安古散歩

 平安橋を渡って平安古地区に入った我々は、外堀沿いに橋本川に出てみることにした。

 外堀が始まるところに来てみると、対岸が見える。

 対岸は玉江地区で、玉江駅がある方向のはず。

 先ほどの口羽家住宅内の座敷からの眺めも、おそらくこのあたりが見えるんじゃなかろうか。

 橋本川に出て、上流に向かって歩いてみた。

 川辺には松がたくさん植えられており、さながら海辺に来た感じ(実際すぐ海だけど)。

 沖縄あたりだったら間違いなくゴミが散乱していそうな場所にもかかわらず、ここもゴミひとつ……惜しくもひとつくらいはあったか……落ちていない。

 さらに念を押すように、こういう看板もあった。

 みんなが努力してきれいにしているところに平気でゴミを捨てるヤツからなら、1000万円以下どころか5億円くらい罰金を取っていいと思う(※個人の感想です)。

 そんな松並木の沿道に、ひっそりと碑が佇んでいる。

 毛利登人の誕生地だそうだ。

 毛利登人と唐突に言われても、ワタシも含めて誰のことやらわからない人のほうが多いに違いない。

 説明板を読んだところで、はぁそうですか…くらいのものながら、とにかく彼は、下関で長州藩がヤケクソ気味に4カ国連合艦隊と戦ってコテンパンにやられる前後の期間、長州藩の閣僚的立場にいたことで歴史に名を残しているヒトらしい。

 だからといってその彼の誕生地といわれても、やっぱりピンと来ないのは、つまり彼がいわゆる「スター」ではないからなのだろう。

 それよりも、こんな川辺にそういった重臣の家があったってことにちょっと驚いた。

 古地図を見てみると、たしかにこのあたりの川沿いに家がけっこう並んでいる。

 デルタ地帯の萩を挟む松本川と橋本川はけっして小さい川ではなく、ときには増水による被害もあったろうに、今のようなコンクリート製の立派な堤防など無い時代に、こういう場所に屋敷があって大丈夫だったんだろうか?

 洪水よりも火事のほうが怖かった時代では、水辺の近くのほうが安心だったってことなのか?

 往時はきっとたくさんの船が行き交っていたであろう橋本川の川辺には、素朴にチープな船着き場が拵えられていた。

 見るからに自家製っぽい船着き場、今も現役なのかな?

 このちょっと先には、間違いなく現役生活を終えてしまっているらしき船もあった……。

 ゴミは捨てちゃいかんけど、転覆した船の放置はおとがめなしなんだろうか……。

 このまま川沿いにずっと歩くと、国道191号に出る。萩の官公庁街を通る立派な幹線道路だ。

 その国道を渡ってから川沿いを離れて町なかに入る道を行くと、刈りたてではないけれど、やはりちゃんと整えられた垣根が。

 なんかこういう垣根を拝見し続けていると、我が家の伸び放題のハイビスカスがなんとも恥ずかしい……。

 この道の先に、坪井久右衛門旧宅があった。

 (ちょっと寄り道

 幕末の長州藩が財政的に羽振りが良かったのは、長州藩最後の藩主毛利敬親が、藩主となったのとほぼ同時に登用した村田清風の財政改革の賜物なのだという。

 村田清風が麻生財務相や日銀黒田総裁のようなヒトだったら、幕末の長州藩の活躍は無かったかもしれない。

 門閥主義を排して広く人材登用をしたことにより風通しが良くなり、財政改革も大成功したのは良かったのだけれど、旧弊を廃する改革とそれまでの既得権益者との対立はいつの世でもつきもの。

 ブルジョア階級の人たちからすれば、村田清風は親の仇のようなものになっていただろう。

 財政危機を乗り越えるためにみんなで頑張った「改革」だったものが、いざ目的をほぼ達成してみれば、やがて「改革派」と「保守派」に藩内の意見が分かれるのは当然のなりゆきだった。

 そうやって藩内が2派にキッパリ分かれた頃に、よりによって黒船来航。

 長州藩は、この日の本は、いったいどうなるのだ?

 この未曾有の事態に、長州藩はかくあるべし!

 …という意見が、それぞれの派で異なるのもまた当然だった。

 日本人はみな天皇の家臣なのだから、天朝を敬い夷荻を打ち払うべし、という改革派=尊王攘夷(=幕府否定)派=正義党。

 いやいや、この防長2州は徳川家より賜った領土であって、武士が天皇の家来であったことなど一度もない。武士であるかぎり助けるべきは幕府である、長州は幕府とともに行く!という保守派=佐幕派=俗論党(本人たちがそう呼称していたわけではない)。

 なにしろ藩主はどちらが何を言っても「そうせい」なのだから、藩主に決めてはもらえない。

 決め手になるのは、日本の政情だ。

 主に京都における政情や、置かれている立場が変わるごとに、この正義党と俗論党との間で、昔のバレーボールのサーブ権のように目まぐるしく主導権が行き来することになる長州藩。

 そのためどちらの党であれ、ヘタを打っても打たなくても、たまたまであれ必然であれ、舞台の引き際に責任ある立場にいると、詰め腹を切らされることになる。

 このあたりを踏まえておくと、幕末の長州でやたらと人が殺される背景がよくわかるかもしれない。

 坪井久右衛門は当初の財政改革時には村田清風の改革に協力していたのだけど、やがて幕府あってなんぼの長州藩という、保守派俗論党の祖とでもいうべき代表格のヒトになる。

 そのため藩内で尊王攘夷論が沸騰し始めて正義党にサーブ権が渡ると、その立場のために責を問われる。

 そしてサーブ権が尊王攘夷派の手に握られていた間に獄に入れられ、処刑されてしまったそうだ。

 獄死させることの人道上の是非はともかく、ともかくも当時の政治家のみなさんたちは、ヘタを打ったらキチンと責任を取らされていたのである。

 今の永田町が当時の長州なら、いったい何人獄死させられることだろう……。

 (寄り道終わり

 ある意味で幕末に名を遺している政治家坪井久右衛門の旧宅は、この長屋門をはじめ、主屋、土蔵が昔の作りのまま残っているので、それらはセットで国選定の重要伝統的建築物群になっている。

 ところが驚いたことに、そこは今もなお一般の方が住む現役の住宅なのだった(矢印のところにフツーに表札が出ていた)。

 今の季節ならともかく、観光シーズンになって、ひっきりなしに訪れるヒトに玄関の写真を撮られる気分ってどうなんだろう……。

 この坪井氏旧宅の先に、平安古鍵曲がある。

 堀内鍵曲同様塀はほぼ昔のままのたたずまいだという平安古鍵曲を、さっそく鍵曲がってみた。

 この角を反対から観ると……

 道路の舗装方法はフツーながら、古風な土塀の道に夏みかんが映えること映えること。

 ああ、夏みかんがたわわに実っている時期で良かった。

 平安古鍵曲で鍵曲がることをこの地域での目標にしていたので、目的を果たしたあとは、再び北上開始。

 萩の城下町が世界遺産といっても、実のところそのエリアは指月城跡と堀内地区、そして外堀の外に隣接する城下町のあたりで、この平安古地区は含まれてはいない。

 武家屋敷のいくつかや鍵曲などが残されてはいるけれど、全体的には残され具合いが足りなかったからだろうか。

 この平安古鍵曲を過ぎてしばらくすると、実際フツーの町といった雰囲気で、道の片側は土塀でも、その反対側は金属のフェンスだったりする。

 フツーの町ながらも道の左右に石垣&土塀や味のある建物が残っているところもけっこうある。

 ひとくちに石垣といっても、その造りは時代で大きく異なっているという。

 オタマサが指し示しているあたりがその境界だそうで、ビッシリ隙間なく綺麗に積まれている下段が江戸時代のもの、それより上は明治後なのだとか。

 ピシッと積まなきゃ構造上脆くなるという技術的弱点があった昔と違い、テキトーに積んでも崩れない技術革新があった……というわけではなさそう。

 そもそも萩のこのデルタ地帯に城下町を造るにあたっては、地盤が湿地帯というモンダイがあった、ということはすでに触れた。

 その軟弱地盤を堅固なモノにするために、毛利侍たちはこの土地に徹底的に岩を敷き詰めたという。

 幸いなことに付近が火山群だったおかげで、萩近くの海辺には加工しやすく丈夫で長持ちの安山岩が大量に算出する場所があり、堀を使った水運が発達していた当時のこと、荷船を使えば市中どこにでも石材を運搬することができたそうだ。

 理想の石材がすぐ近くに大量にあって、使い放題!

 「石材適所ですね」 by タモリ。

 萩の町は、いわば安山岩が作っているといっても過言ではないらしい。

 この写真の石垣の江戸時代部分も、やはり安山岩なのだろう。

 フツーの町でありながら石垣にも歴史がある通りを国道191号線に向かって歩いていると、周囲はほとんどフツーの町なのに、際立って維新維新しているところがあった。

 久坂玄瑞誕生地。

 歴史上名を残しているヒトの誕生地に碑が立っていることはよくあるとはいえ、跡地にもかかわらずこの久坂玄瑞の誕生地ほど巨大でいろんな碑が立っているところが他にあるだろうか。

 少なくとも、先ほど通りかかった毛利登人の比ではない。

 (ちょっと寄り道) 

 久坂玄瑞は高杉晋作ともども吉田松陰門下の竜虎と称された2大スターで、吉田松陰が最も愛した門人だといい、愛するあまり自身の妹(井上真央ともいう)を嫁がせたほど。

 医者の家に生まれたので当初は医学の道に進んでいたものの、少年の熱い血潮には合わなかったらしく、藩校明倫館で学びつつ吉田松陰の門人となった。

 若くして斃れるからこそ名が残るといってもいい幕末の有名人たちのこと、この久坂玄瑞も25歳の若さで世を去っている。

 蛤御門の変においての自刃だ。

 蛤御門の変あたりで死んでしまうということは、その後の長州藩の怒涛のマシンガン的劇的展開の連続の頃にはすでに過去のヒトになっているわけで、幕末史の中ではさほどのスターには見えない(※個人の感想です)。

 しかし長州藩が尊王攘夷押しで京都政界を牛耳っていた期間、すなわちドラマ的にはメリハリが無い期間においてはその才能をいかんなく発揮していたらしく、西郷隆盛が維新後も久坂のことを語る際には、自分など遠くおよばないと称えていたそうな。

 (寄り道終わり

 久坂玄瑞、すごいヒトだったのである。

 そんなことは百も承知の地元だからこそ、この誕生地の碑は立派だし、5年ほど前には武者姿の凛々しい像も明倫館跡近くに建てられている。

 ところが歴史の教科書的には明治の元勲の1人とされる木戸孝允こと桂小五郎なんて「木戸?誰それ?」的存在なのか、萩市内では公的に建てられた像などひとつも目にしなかった気がする……。

 そんな郷土のヒーロー久坂玄瑞の誕生地は……

 バス停(久坂玄瑞誕生地前)にもなっていた。

 こうなると、敬っているんだかなんなんだかわからなくなる……けれど、それだけ身近な存在ってことなのか。

 国道191号に出てから国道沿いを歩いていると、萩平安古郵便局があった。

 さすが歴史景観地区の郵便局、なまこ壁模様だし、しっかり夏みかんも植えられている。

 この国道191号のあたりは、藩政時代には一望湿地だった部分で、広大なその空き地があったからこそ、往時の町割りがそのまま保存できた、ということはすでに触れた。

 なので官公庁の建物や高校が立ち並ぶ新市街は……

 まったくもってフツーの街。

 その境界線付近にあるのが、藩校明倫館跡だ。

 先ほど前を通ったもともとの旧明倫館跡は空き地に碑が建っているだけだったのに対し、こちらは往時を偲べるいろんなものが保存されている。

 ちょっくら覗いてみることにしよう。