23・松本村

 毛利輝元が萩に入部して以来、他の多くの藩同様、江戸時代のほとんどを眠って過ごしていたも同然だった長州藩。

 ところが幕末になって突如、水素ガスが充満している部屋に火のついたマッチ棒を放りこんだかのように大爆発する。

 そのきっかけはといえば、吉田寅次郎松陰の登場だ。

 幕末の長州藩といえば、吉田松陰。

 そして吉田松陰といえば、松下村塾。

 むろん松下政経塾とは何の関係もなく、この場合「松下」は「しょうか」と読む。

 思想界の巨人吉田松陰の塾なのだから、この松下という言葉にもなにやら奥深い哲学的な意味が込められているに違いない……

 …とずっと思いこんでいたところ、とんだ誤解だった。

 単に「松本村にある村の塾」という程度の意味しかないらしい。

 旧松本村とは、萩の城下から松本川を渡ったところにあり、のどかな田園が広がるところだったそうな。

 至福のひとときを過ごして一夜明けた2月7日金曜日、この日も朝風呂でのんびり過ごした我々は、この旧松本村にある松下村塾を訪ねてみることにしていた。

 ホントは宿からほど近い高杉晋作誕生地あたりまで行ってから、当時の彼が通ったであろうルートをたどって歩いてみたかったんだけど、なにやらオタマサが東萩駅でチェックしたいことがあるという。

 やむなくいつもの道を歩くことにした。

 寄り道せずまっすぐ歩いていたのだけれど、話は寄り道。

 すでに何度も歩いているこの道で、通りかかるたびに不思議に思っていたところが一カ所ある。

 こちら。

 唐津焼もまた天下に名だたる焼き物だということは知っている。

 でも門司港の焼カレー店と同じくらい、いやそれ以上に窯元も店舗もある萩焼の地元も地元の萩で、唐津焼なんていったらあなた、門司港でインドカレーの店を出しているくらい場違いなんじゃ……

 ……と思いきや。

 実は須佐唐津焼もまた、ここ萩市のブランドだったのだ。

 なんでも1500年代に鹿郎衛門という唐津焼の陶工が地元唐津からここ萩にやってきて、すでに毛利家永代家老になっていたあの益田家の庇護のもと、益田家の領地である須佐にて御用窯になったんだと。

 旧須佐町は市町村合併で現在は萩市に含まれているけれど、場所で言うなら益田家の由来でもある益田市にも近い(萩市北東部)。

 唐津から須佐に来た理由は不明ながら、鹿郎衛門は須佐に住まうにあたって益田氏から土谷姓を賜り、以後須佐唐津焼の当主は代々土谷姓を襲名しているそうな。

 こちらの店舗に掲げられている土谷道仙さんとはすなわち、由緒ある窯元のご当代なわけで、萩焼の町に入り込んだアヤシゲな焼き物などではまったくなかったのだった。

 萩滞在中、店舗をずっと門司港のインドカレー店と同一視していて申し訳ございません…。

 この道をテケテケ歩き、夜な夜な訪ねている吉田町交差点のひとつ前の筋を右に曲がると、住宅地のなかに歯抜けのように空き地になっている一角がある。

 野山獄跡。

 藩政時代の萩の罪人収容施設だ。

 跡地のみの現在は小さな空き地ながら、添えられている説明版を観てみると、敷地は次の筋まであったらしい。

 狭い通りを挟んだ向かいにあるのが、岩倉獄跡。

 野山獄が士族階級用の収容施設で、岩倉獄はノット士族階級用のもの。

 元々はどちらも武家の家だったところが獄になったのには、↓こういう事情がある。

 さすがケンカ両成敗の時代、被害者宅まで獄舎になっちゃったんですね。

 野山獄と岩倉獄とでは、当然ながら施設内での待遇(?)は全然違っていたらしい。

 吉田松陰も高杉晋作もそれぞれ、この野山獄に収容されていたという履歴を持っている。

 吉田松陰の死後数年経ってから、藩命でしばらく入獄する羽目になっていた高杉晋作は、

 先生を 慕うてようやく 野山獄

 という、実にわかりやすい句を自虐的に残していたりもする。

 周布政之助が馬上のまま高杉晋作に会いに来たのも、ここ野山獄でのことだ。

 また、説明板にもあるとおり、幕末、政情によって藩内2大政党間をサーブ権が行き来するごとに、多くの藩士が刑に処せられたのもこの獄でのこと。

 住宅地に獄の跡だけポツンと残されているのは、この地で果てた多くの人たちの鎮魂の意味もあるのだろう。

 さて、萩に到着した日に渡った松本川を再び渡り、東萩駅に到着。

 明日は萩を去るので、そのための列車の切符でも購入するのかなと思っていたら(地上の移動手段はすべてオタマサ任せでワタシはノータッチ)、

 「あれ?バスの事務所みたいなものが何も無い」

 え?

 目的はバスだったの??

 そういうことなら萩の町中に萩バスセンターがあるって、旅行前からずっと言ってたのに!!

 バスの始発が東萩駅なのだから、何かしらあるだろうと例によって勝手に思い込んでいたオタマサである。

 おかげでわざわざ東萩駅を回ってきたのは、まったくの無駄足になってしまったのだった。

 いわばここまでのすべてが寄り道だったのだ。

 そのまま松本川沿いに南下してテケテケ行く。

 阿武川が萩のデルタ地帯で分岐して、一方が松本川、もう一方が前日川辺を歩いた橋本川になる。

 拠点防衛上、江戸の昔の頃の松本川は渡し船で往来するのがもっぱらだったのか、橋は川中島を利用して造られていた1本しか無かった模様。

 現在の松本大橋だ。

 高杉晋作や久坂玄瑞たちが家から松下村塾に行くなら、必ず通っていたルートのはず(菊屋横丁から出たところにある御成道からならほぼ一直線ルート)。

 城下を出てこの橋を渡れば、当時は一望田園地帯だったそうだ。

 今では想像することしかできないけれど、なるほどたしかに傾斜が緩やかな川辺の土地は、耕作するにはバッチリのはず。

 松本大橋橋詰めで左折し、山陰本線を渡る。

 本線といいつつ、どこまでも単線なのが素晴らしい。

 さらにテケテケ行くと……

 なんとも立派な駐車場、そしてロータリーが出現する。

 松陰神社の入り口だ。

 神社の規模のわりには、とてつもない駐車スペースの広さ。

 それもこれも、そこに祀られているヒトの「大きさ」ゆえということなのかも。

 先に進むと、鳥居が見えてきた。

 おお、さすが萩屈指の観光スポット、観光客の姿が!!

 …とビックリマークをつけたくなるくらい、これまでは観光客に会わなかったものなぁ…。

 とりあえず日本人である以上、鳥居をくぐり神社の境内に入るに際しては、帽子や手袋を取るようにしている。

 とはいえ寒い日はチト辛い。

 そもそもここには史跡を観たくて来ているのだから、なにも神社じゃなくても……

 …と言ってはバチが当たる。 

 もともとこの神社は、吉田松陰の実兄杉民治(この人とってもいいヒト)が明治の半ばに弟・吉田松陰を個人的に祀るべく自宅近くに作った小さな祠が始まりだそうで、その後明治の末頃に伊藤博文などが運動して立派な神社になったらしい。

 吉田松陰の頃の松下村塾は、実家の敷地内にある小屋を利用したものだから、家の近くに神社を造ったってことはすなわち、実家も松下村塾も、現在はこの神社の境内の中にあったってことになる。

 でまた驚いたことに、それらの建物が……

 現存しているのだ。

 それも当時あったその場所に!

 てっきり往時を再現すべく神社内に復元されたものなのかと思っていたら、板材も瓦もそのままに、建物がそっくりそのまま保存されているのである。

 それを知って以来、ここも是非訪れてみたいところになっていた。

 松下村塾というのは、吉田松陰が子供の頃に師事した叔父玉木文之進が近所の子供たち相手に始めた私塾が始まりで、その後文之進が藩の役に就いて留守になると、久保某があとを継いでいたらしい。

 吉田松陰がこの小屋を使って開いたいわば三代目村塾は、当初は上の写真では向かって右側の部屋、この8畳間だけしかなかった。

 ところが、士分に限らず広く広く門戸を開いていたこともあって(初代からずっと塾代は無料)近在のあちこちから塾生たちがやって来るようになると、やがて8畳間だけでは手狭になってきた。

 そんなとき、塾生の一人吉田稔麿が、近隣で売りに出されている空き家を見つけ、それを塾生で費用を出し合って購入、そしてみんなで解体して資材をここに運び込み、これまたみんなで建て増し工事をしたという。

 なんか楽しそう。

 そのみんなで建て増しした部分がこちら。

 シロウト普請とはにわかには信じられない、しっかりした造りだ。

 壁には、松下村塾出身とされている、後世に名を遺した人々の写真や肖像が飾られてある。

 彼らが若い日々、ここでワイワイガヤガヤやっていたと思うと感慨もひとしおだ。

 混んでいるわけじゃないけど、年配の観光客はチラホラ歩いている。しかしこういうところを観ても「ふ〜ん、なるほど…」と頷いて去っていくだけのヒトがほとんどだ。

 なので、やけにしつこくこの建物の周りで内部を眺め倒している我々は変に見えるのだろうか、この境内のあちこちで掃き掃除をしていたスタッフの一人が、スルスルスルと近づいてこられたかと思うと、いろいろ説明してくださった。

 このご婦人、やはり松陰神社で清掃もしておられるだけあって、吉田松陰への敬慕は並々ならぬものがあるようだ。

 我々にいろいろ教えてくださる話の中に彼の名が出てくると、必ず「吉田松陰先生」と敬称がついていることでもわかる。

 一方、お話の中に出てきた元総理はというと、「伊藤博文」と、にべもない敬称略扱いだったのが面白かった。

 そんな彼女が、吉田松陰の休憩部屋の存在も教えてくれた。

 好きな時に好きなように来て好きなように学びなさいという四六時中OKシステムだったらしく、昼夜を問わず塾生たちが訪れていた松下村塾。

 そうなるとさすがに体がもたないから、吉田松陰の休憩部屋があったというのだ。

 その休憩部屋というのは……

 天井裏。

 ここから縄梯子を垂らしておいて、疲れたら登って休憩。

 その他、遠方から吉田松陰を慕って訪ねてきた客などを泊める際にも使われたのだとか。

 今でいうならロフトのようなフロアだったらしい。

 そんな、誰も知らない(有名なの?)ヒミツの話を教えてくださったご婦人が、ちょっと待っててね…といったんその場を去られたかと思ったら、何やら手にして戻ってこられた。

 「普通の松の葉は2本でしょう?」

 ハイ。

 「でもこれはね……」

 といって彼女が手渡してくれた松の枯葉は…

 なんと3本1セット!

 毛利元就の三本の矢は知っていたけど、松に三本の葉があったとは……。

 さすが下村塾。

 ご婦人によるとけっこうレアものだそうで、にもかかわらず彼女は、縁もゆかりもない我々にその松葉をプレゼントしてくれたのだった。 

 調べてみると全国には木全体がこういう葉になる松もあるらしく、格調高く雅に「三鈷の松」と呼ばれているようで、レアだけに御利益付きでありがたがられるものらしい。

 松下村塾の三鈷の松だなんていったら、プレミア級かも。

 我々はただボーッと眺めていただけなのに、毎日綺麗に清掃されている作業の賜物であろう貴重なコレクションを、なんだか申し訳ない…。

 ありがとう、おかげでいいお土産になりました。

 この松下村塾のすぐ目と鼻の先に、吉田松陰の実家、杉家がある。

 その距離感はこんな感じ。

 手前が塾で、奥が杉家。

 この近さを実際に司馬遼太郎も現地で見ているからこそ、久坂玄瑞が初めて高杉晋作をこの塾に連れてきた際、奥の杉家から出てきた文ちゃんが、久坂玄瑞に声をかけられてポッと頬を赤く染める……

 …なんてこっぱずかしいシーンも書けるのである。

 それにしても、杉家はれっきとした藩士にもかかわらず、なんで城下じゃなくて松本村に?

 実は松陰が生まれるよりもっと前に、城下の大火のせいで杉家は焼け出されてしまい、なんとか松本村に家を見つけたのだとか。

 それも当初は小さな小さな家で、この家で暮らすようになったのは吉田松陰が長じてからのこと。

 そのため彼の誕生地でもあるその小さな家は、ここからもう少し行ったところになる。

 わりと大所帯だった杉家としてはその家が手狭すぎたからなのだろう、越してきたこの家は、今見てもかなり……

 

 広い。

 こんな広い家を建てられるなら、城下に家を建てちゃった方が通勤(?)からなにからいろいろ便利だろうに……

 …と思ったら。

 三鈷の松婦人によれば、こちらの家は借家だったのだそうだ。

 そんな杉家には、吉田松陰幽囚の間という部屋もある。

 吉田松陰のことをほとんど知らないでいるワタシなどが、知らないまま歴史の教科書ふうにピックアップされた彼の事歴だけを見てしまうと、

 黒船に乗り込んで密航しようとして捕まり、挙句の果てに死刑…

 …だなんて、バカなんじゃね?と思ってしまう。

 でも吉田松陰という人は、やたらとフィールドワークが大好きなやや浮世離れした大学教授のようなヒトでもあったのだ(松下村塾においても、水泳や登山など、けっこうアウトドアスポーツをやっていたらしい)。

 そういう教授は、学内での出世や学会での地位になどなんの執着もなく、ただただシンジツの究明あるのみ。

 尊王攘夷を唱えつつも、やがてアメリカその他先進国と日本の圧倒的な文明力差を知った彼が、「ならばアメリカをこの目で観なければ!」となるのも当然なのだった。

 黒船密航計画は惜しくも破れ、鎖国の禁を破った天下の大罪人となった松陰は、その後囚人身分のまま萩に戻され野山獄に入り、やがて多分に形式的ながら、自宅幽閉ということになった。

 杉家としては天下の大罪人を自宅であずかる形になるというのに、杉家にはそういった「世間様に顔向けできない感」は微塵もなく、むしろそんな松陰を誇るくらいの明るく楽しいサザエさん一家のような家庭だったらしく、それはそれは楽しい幽閉だったことだろう。

 杉家では、物置にしていた三畳間を幽閉部屋として整えたそうで、それがこの吉田松陰幽囚の間。

 ずっとここから出られないとなるとたちまち息が詰まるだろうけど、まだまだかろうじてゆるやかだった時代のこと、幽閉も形式的なモノで、当初はこの部屋で近隣の師弟に教授をしていたという。

 やがて手狭になると敷地内の小屋を塾にし(民治兄ちゃん大協力)、その幽閉期間中に彼は松下村塾を開いていたのだから、幽囚と言われましても……ってなところだろう。

 そんな楽しい幽囚の身でいられたのも、安政の大獄までのことだった。

 形式上とはいえ幽囚の身でありながら、彼はいわば反幕府テロ計画を立案していたりするものだから、不穏分子一掃計画実施中の幕府の命により再び野山獄に入れられる。

 のち江戸の伝馬獄に送られ、処刑。

 吉田松陰といえば、肖像画があまりにも有名なために、ビジュアル的にはいかにも酸いも甘いもかみ分けた熟年賢者のようなたたずまいに見える。

 それもあって、肖像画のビジュアルだけでイメージしてしまうと、吉田松陰は松下村塾で20年くらい塾生たちを指導して、50才ほどで亡くなったのかなぁ……と朧気に錯覚してしまう。

 ところが実際は。

 徳川家ラブ大老井伊直弼による安政の大獄によって刑死させられたとき、吉田松陰はまだ満年齢でいうなら30にも満たない青年だったのだ。

 残された門人たちが師の偉人アピールをしたいのはわかるけど、20代でこの肖像画はないだろう……。

 しかもその短かすぎる生涯のなかで松下村塾にて塾生たちと過ごした期間は、ほんの数年でしかない。

 それ以前に藩校明倫館にて兵学を教えていた時期があるにせよ、この若さで、そしてたったこれだけの期間で、以後長州藩を大沸騰させる礎を作ったのだから、吉田松陰という青年が当時いかにヒトに影響を与える大きな存在だったかということがわかる。

 獄舎においてさえ他の囚人たちを話に引っ張り込み、挙句の果てには感化させてしまうその話術と、極上の蒸留酒のようなピュアな精神のなせるワザなのだろう。

 飲みすぎれば二日酔いの元にしかならない蒸留酒も、適量なら心地よく、少なすぎれば身悶えする。

 幕末の長州を大沸騰させるきっかけとなった松陰がいっそう巨人化したのは、ある意味ではその若すぎる死ゆえなのだろう。

 その後の激動の歴史を考えると、反幕府テロ計画のかどで吉田松陰を江戸にて刑死させてしまったことは、井伊大老一世一代の失敗だったかもしれない……。 

 梅は咲いてはいても桜にはまだ早いこの季節ながら、先ほどの三鈷の松婦人が、境内の河津桜情報も教えてくれていた。

 このすぐ近くに、伊藤博文がまだ利助という名で松下村塾に通っていた頃の旧宅があるという。

 地図的にはこの河津桜のところから直線距離ですぐそこなのに、境内から自由自在に外に出られるわけではないので、再び鳥居をくぐっていったん外に出て、グルリと回らなければならない。

 ただしそのおかげで松陰神社の駐車場の隅っこに、こういう物があることに気がついた。

 薩長土連合密議之處。

 説明板を読んでみると、文久2年1月に、土佐勤皇党の武市半平太から託された久坂玄瑞当ての手紙を携え、坂本龍馬が使いとして萩を訪れたのだそうだ。

 たまたま同じ目的で薩摩藩士も萩に滞留していたことから、結果的に薩摩、長州、土佐それぞれの関係者が集まっていたことになる……。

 それが当時ここにあった旅館でのことなんだそうな。

 「薩長土の密儀」というのは時期的にいささか大袈裟なような気もするけど、それよりもこういうところに当時旅館があったってことに驚いた。 

 あ、明倫館の有備館で坂本龍馬が試合をしたって話は、ちょうどこの頃のことなのかも。

 駐車場をグルリと回って緩やかな登り道を行くと、また何かの碑が建っていた。

 吉田稔麿誕生地。

 吉田松陰が三代目松下村塾を始める前の、久保某主宰の二代目松下村塾時代から通っていたそうだ。

 久坂玄瑞と高杉晋作が松陰門下の竜虎、2大スターとよく言われるけれど、ときにはこの吉田稔麿も入れて「松陰門下の三秀」と呼ばれることもあるほどに、優秀な人だったらしい。

 しかも彼は、新選組の大活躍で有名な池田屋の変の際(詳細は謎に包まれているにせよ)、23歳の若さで闘死している。

 にもかかわらず、久坂玄瑞の誕生地と比べ、アピール度の慎ましいことと言ったら!

 しかし我々は知っている。

 彼こそが、三代目松下村塾の建て増し用物件を見つけてきてくれたことを。

 さらに先を行くと、案内番が「脇道に逸れよ」と告げている。

 それに従うと、目の前に像が見えてきた。

 我らにとってのフグの神、伊藤博文だ。

 なんとこの像、けっこうでっかいのに萩焼でできているんだとか。

 伊藤博文は周防の国で百姓の子として生まれ、その父親が萩で武家の養子になったのを機に、呼ばれて萩に引っ越してきたらしい。

 曲折あって最終的に親子セットで伊藤家の人間になったというのだけど、その家が松下村塾のすぐ近くだなんて、その後の彼の立身を予期していたかのようなウルトラC級の偶然。

 萩焼像の隣に、彼が萩で14歳から28歳まで暮らしていた頃の旧宅がある。

 さっそく拝見。

 門をくぐると……

 なんてことだ、思いっきり修復工事中。

 どおりで付近にニッカボッカにぃにぃがやたらといたわけだ。

 後年には豪華な料亭でフグを山ほど食べることもできるようになる彼が、少年時代を過ごしていた素朴な家。

 写真で見ていた茅葺き屋根を実際に観てみたかったんだけど……

 肝心の屋根はすっかりシートで覆われていたのだった。

 元の道に戻り、緩やかな坂をさらに上っていく。

 天気は上々。青い空の下で梅が咲き誇っている。

 そして……

 ジョウビタキもいる。

 松本村のジョウビタキ。

 きっとこの子の遠い先祖は、往年の松下村塾にいた人々を見ているに違いない。

 松陰神社から続くゆるやかな上り坂は住宅地をゆくごくフツーの道路だ。

 ここもまた、家々の垣根があり得ないくらいに美しく剪定されている。

 ここまで徹底していると、ホントに条例か何かの強制処置があるのかも……

 …と勝手に思い込もうとしていたら、人が住んでいるらしいのにこういう垣根もちゃんとあった。

 なんだかむしろホッとしてしまうのはなぜ…。

 さらに緩やかな坂道を登っていくと見えてくるのがこちら。

 玉木文之進旧宅。

 この松本村において、我々が今最も注目している人物である。

 吉田松陰の父・杉百合之助の実弟で、吉田松陰にとって叔父になる。

 彼が主宰した初代松下村塾にももちろん松陰は兄・民治とともに通っていたけれど、それとは別に、叔父に師事する形で幼い頃から個人授業も受けていた。

 というのも、吉田松陰が継いだ吉田家というのは毛利家公認兵学者の家で、その当主が無くなったがために跡を継いだ松陰は、ほんの5歳に過ぎなかった。

 幼くとも、藩の御用学者(今でいう悪い意味ではなく)になるべき使命を負っている。

 なので藩公認の兵学を絶やすことのないよう、学派の面々や親類などでよろしく少年の学問を盛り立てるよう、藩主からのお達しが。

 それゆえの玉木文之進個人授業で、それは教える方も学ぶ方も、藩命による公的な武士のシゴトということになる。

 当時は彼もまた杉家同様貧乏侍だったこともあり、家の近所での日々の畑仕事も大事な日課だったから、叔父さんが畑仕事をしている傍らで、松陰少年はいろいろ教授してもらっていたそうな。  

 で、そうやって松陰少年がおとなしく畑の脇でお勉強しているとき、頬かどこかにハエが止まって、いささか痒くなったらしい。  

 自然の動きとして、痒くなったところをポリポリと掻く、もしくはハエを追い払う。  

 すると。  

 それまで畑仕事をしながら教えを授けていた玉木文之進が、それを目にするや烈火のごとく怒りに怒り、松陰少年をボコボコのボコボコに殴り倒したという。  

 いわく、  

 「痒みは『私』。  掻くことは『私』の満足。 それを許せば、長じて人の世に出たとき、私利私欲をはかる人間になる。」  

 エーッ!?、ハエを追い払っただけなんですけど……。  

 今ならパワハラ、DV、その他いろいろですぐさま訴えられそうなすさまじい教えだ。  

 しかし藩の学問を習得しようという松陰少年にとって、勉強中とはすなわち「公」のシゴトなのである。

 その大事な時に、己一個の「痒い」という意識にとらわれるとはなにごとぞ、ということらしい。

 とにかく公私の分け隔て、とりわけ「公」における己のありかたについて一事が万事こういう教育だったそうで、玉木文之進から厳しく厳しく鍛え上げられた松陰少年なのである(でもみんなが集う塾ではそうでもなかったらしく、松陰少年も楽しい日々を過ごしていたという)。

 吉田松陰というヒトが人としてピュアに蒸留された大元の大元は、この玉木文之進叔父さんだったと思って間違いない。

 歴史の妙というか狭い社会というか、玉木文之進は後年、これまた縁あって乃木希典の幼少時代にも、松陰少年と同様の教育をしている。  

 長州人がすべて玉木文之進のようなヒトだったわけではないだろうけれど、吉田松陰や乃木将軍に共通するイメージといえば、その公としてのありかたの、セノーテのような限りない透明感。  

 なんとなく…じゃなくて、明らかにクリスタル。  

 現代社会で世に立って「公」に従事する方々はかくあるべし、是非理想としていただきたいところだ。

 無理だけど。  

 ちなみに藩校明倫館跡のところで触れた萩の乱の首謀者前原一誠とその同志の多くが、かつて玉木文之進に師事していた者たちだったそうな。  

 彼らにも言い分はあろうとも、反乱は反乱。  

 乱鎮圧後、その参加者に自身の養子も含め教え子たちが大勢いたことに鑑み、玉木文之進は、  

 「このような反乱の徒を輩出したのは、わが教育の罪である」

 と言葉を残し、玉木家の墓前で自害したのだった。

 そんな玉木文之進の旧宅敷地に入ってみる。

 このあたりの当時の一般的家屋の造りなのだろうか、伊藤博文旧宅と似ている。

 工事中じゃないおかげで茅葺き屋根も観ることができた。

 縁側から入れるようになっていたので、お邪魔してみる。

 細かくセパレートされているらしく、外見でイメージするよりも部屋数が多い。

 その一室の壁に、玉木文之進年表とともに、系図が貼ってあった。

 家を継ぐとか養子になるとかいろいろややこしいからわけがわからなくなるけれど、これを見ると、玉木文之進も吉田松陰も、遺伝子的には杉一族であることがわかる。

 床の間に飾られていた玉木文之進の肖像画なども眺めつつ、再び外に出ようとしたとき、「ゲホッ…」という咳のような音がした。

 はて、誰かほかにお客さんが?

 本来の玄関があるところに回ってみると、普段使いのサンダルが一足。

 あれ?

 開かずの間みたいな小さなスペースがあったけど、実はそこにどなたか係の方がずっとおられたのだろうか?

 さすがにここでは大の字などしてないから(玉木文之進宅でそれはオソロシイ…)、粗相は無かったと思うけど……。

 玉木文之進旧宅の前から、勾配的にやや絶望的になりそうなキツめの坂道が続いている。

 ヒィヒィ言いつつ登っていると、その途中に棚田か段々畑が見えた。

 往時の玉木文之進も杉家も、藩の役に就く前にはこういうところで野良仕事に精を出していたのだろう。

 吉田松陰少年が叔父さんにボコボコにされていたのも、こういう棚田の脇だったかもしれない。 

 沿道の梅など愛でつつさらにえっちらおっちら登っていくと、そこが……

 吉田松陰誕生地。

 松陰神社境内にあったあの家に越す前の、杉家である。

 建物は影も形も無いけれど、間取りを表す敷石があって、家のイメージはできる。

 まぁ見るからに……

 狭い。

 案内板に間取りが記されていた。

 当時の台所も玄関も土間なんだから、それを考えると手狭も手狭、子が増えるにつれ引っ越しを余儀なくされたのも頷ける。

 ちなみにこのあたりの高台は団子岩と呼ばれていたそうで、高台だけに家からの眺めは……

 ベルベデーレ。

 田畑が広がっていた当時竹林は無かったろうから、萩のランドマーク指月山、武家屋敷が並ぶ町、その先には日本海、そして当時は指月山の麓に天守閣も見えていたことだろう。

 いわば幼少の頃から、「社会」を俯瞰していた松陰少年だったのだ。

 この誕生地よりももう少し高いところに、吉田松陰の像が建っていた。

 傍らに控えているのは、金子重之輔という松陰の嬉し恥ずかし初めての門人だ。

 ペリーの黒船艦隊に密航しようとした際に、共に行動して共に捕まった2人。

 しかし萩にて獄に入れられる際には、金子重之輔は厳密には士分ではなかったために、ノット士分用の岩倉獄に入れられた。

 江戸の伝馬獄の時点から体調を崩していた彼は、ノット士分待遇の獄舎でさらに病状を悪化させ、その間松陰は声を大にして待遇改善を訴え続けていたものの力及ばず、金子重之輔はあえなく病死してしまう。 

 そんな金子重之輔を称えて……

 ……同じ格好をしてみる。

 寂しく病死してしまった彼ではあるけれど、こうして像になって未来永劫師匠と共にいられるのだもの、ある意味本望かもしれない。

 吉田松陰誕生地よりも一段高いところだけあって、眺めがまた……

 萩と海。

 幼少の頃に眺めていた景色を、像になって見つめ続ける吉田松陰である。

 そんな彼のお墓が、ここからほど近いところにあった。

 ここはもともと杉家の墓地だったそうで、一族のお墓がズラリと並んでいる(吉田松陰のお墓は、オタマサがいるところよりもさらに向こう側にある)。

 それにしてもこの墓地、路面がやたらと綺麗なのは、我々が訪れていたこのときに、授産施設のみなさんらしい方々が清掃活動をしてくれていたから。

 作業中の引率スタッフらしき方に清掃の御礼を言いつつお聞きしてみたところ、今の時期はまだ落ち葉が少ないから楽なほうなのだとか。

 萩の人々の清掃精神には、ホントに頭が下がります。

 ところで、2013年8月にお国入りしていたアベソーリが、ここで吉田松陰の墓参りをしている。


写真:時事通信

 記者団の質問に答えていわく、

 「(吉田松陰は)国家の危急存亡の時に、困難な決断をされた方。これから秋にかけて(2013年8月当時)、様々な難しい判断をする。間違いない判断をするとの誓いを新たにした」

 とのこと。

 その短い生涯で、国政はおろか藩政すら動かす立場にはまったく無かった吉田松陰が、いったいどこで「困難な決断」をしたんだっけ?

 例によってまたテキトーにその場凌ぎの軽薄コメントのようにしか思えないけど、新たにした誓いはその後も……守られたんでしょうか??  

 というか、その日路面がなぜきれいなのか、そこに気がついただろうかアベソーリ。

 ともかくアベソーリには、誓いを新たにする前に、まず玉木文之進先生に一から教育してもらうことをお勧めいたします。

 > 連日のボコボコ確定。