19・万次郎の海

 足摺岬をあとにし、足摺半島の西側を行く。
 前日、通りすがりに目にした「松尾のアコウ」という案内標識が気になっていたので、寄ってみることにした。

 昨年の五島で妙にこだわったアコウ、沖縄では普通に観られる植物ではあるんだけど、暖かな環境を好む植物だけに、北へ行けば行くほどレア度が高まって大事にされている感があり、名所になっているところが多い。

 ことさら名所旧跡を巡りたいわけじゃないものの、五島では各地におけるアコウの大事にされ方がステキだったので、松尾のアコウもチェックしてみよう。
 
 このあたりになると県道27号は立派な道路で、沿道の各集落には旧道に入る形になる。

 松尾地区は足摺岬からほんの少し西側に位置する、松尾漁港を擁する小さな漁村だ。

 集落に入るとすぐにアコウの場所だった。
 ところが車を停める場所が見当たらないため、そのまま坂を下って行く。
 すると、すれ違い不可能な狭い道の向こうに漁港が見えた。

 こじんまりとして素朴な、いい感じの漁港だ。
 元からある岩と繋げる形で造られてある防波堤もステキ。

 坂を下るとターンするにもどうするにも漁港に入るしかないので入ってみると、建物のそばでウミンチュらしきおんちゃんたちがゆんたくをしていた。

 おんちゃんたちに許可を得て、漁港に車を停めさせてもらう。
 
 この漁港の水のきれいなことといったら!

 この港に比べれば、渡久地港なんてヘドロの淀み場でしかない。

 漁港には小川も流れ込んでいるというのに、この透明度。
 これもきっと、陸地も含めて全体的に海を守ろうという、このあたりの自然再生への取り組みの賜物なのだろう。

 この松尾漁港からテケテケとしばらく坂道を上ると……

 

 松尾のアコウ。
 
 なるほど、巨木だ。
 説明板によると、樹齢300年に及ぶ国の天然記念物だそうである。他に2株、巨大アコウがあるらしい。

 アコウも立派だったけれど、気になったのは随所の建物から立ち昇る白い煙だ。
 まるで温泉街の湯気のように、そこかしこから煙が立ち上り、そして実に食欲をそそる香ばしい匂いが漂っている。

 内部が見える建物を覗いてみると……

 うず高く薪が積まれている。
 これってひょっとして、鰹節作ってる?

 そう察するや、急にソワソワし始めたオタマサ。
 あんたはネコか。

 気になるところながら、どうにもとっかかりが無いためにやむなく詳細リサーチは断念、松尾漁港をあとにした。
 
 足摺半島の西側には、黒潮が日本に最初にぶち当たるところとして有名な、臼碆という景勝地がある。
 写真で見るかぎり、こういうお天気の日にはさぞかし風光明媚な景観を楽しめることだろう。
 
 でも名所をすべて回っていたら日が暮れるし、この日のワタシはそんな絶景よりも寄ってみたいところがあったのだ。

 ここ。

 なんとも端的にアッサリとした看板だけど、これとは別にちゃんと立派な碑もある。

 そう、この漁師町の中浜(地名は「なかのはま」と読むらしいので、以後は「中の浜」と記す)こそが、土佐清水の郷土のヒーロー、中浜万次郎の生誕地なのである。

 この地の半農漁師の家に次男坊として生まれた万次郎は、幼いうちに父を亡くし、長男は病弱だったこともあって、齢十四の頃には一家を支える働き手となり、近海漁の漁船に乗り組んでいたという。

 そして足摺岬沖で操業中に、他の乗組員とともに遭難、漂流後伊豆七島の無人島に漂着。そしてその島で5か月ものサバイバルの果てに、たまたまその島に寄ったアメリカの捕鯨船に救助された……

 …という話は、おぼろげながら知っていた。

 しかし全体的には、

 漂流して捕鯨船に救われてアメリカに渡り、帰ってきたからジョン万次郎♪

 …という程度の知識しかない。

 まさに「知ってるつもり?」でまったく知らない。

 万次郎の時代の日本は鎖国政策のさなかのため、救助されたからといってそのままやすやすと帰国させてもらうわけにはいかなかった。
 なにしろ異国の船に乗った時点で、幕府のご禁制を破っているのである。下手をすれば死罪は免れない。

 はたして万次郎は、その後どうなったのか。

 …ということをとっくにご存知の方は、以下130行ほどすっ飛ばしてください。

 でもワタシと同程度の「知ってるつもり?」だった方は、以下しばらくの間辛抱強くお付き合いください。

 万次郎がアメリカの捕鯨船に救出された際は、ともに遭難した乗組員4名も一緒だったのだけど、彼ら4名はハワイで下船した。

 ところが若き万次郎は、そのままアメリカまで渡ることを希望し、船員として船に乗り続けてアメリカを目指したという。

 ジョン・マンという彼のニックネームは、「捕鯨船ジョン・ハウランド号の次郎」を略したもので、この航海中に船員たちからつけられたものだそうな。

 その航海中に彼は生まれて初めて世界地図を目にし、日本の小ささに衝撃を受けるとともに、世界の海を知り、まったく異なる文明社会の存在を知るところとなったのである。

 …ここまではうすうすながら想像はしていた。知らなかったのはその後の彼だ。

 その才気を船長に買われていたからこそ乗組員として働きながらの渡米を許された万次郎は、アメリカに渡ったのちはなんと船長の養子になり、一緒に暮らすことになったという。

 この船長、名をホイットフィールドというのだそうだけど、坂本龍馬にとっての勝海舟なみのヒトである。
 というか、その後の日本のことを考えれば、日本にとっての大恩人といってもまったく過言ではない。

 船長の養子となった万次郎は、当地の著名な学校で、英語、数学、航海術に造船技術といった当時の最先端を学び、驚くべきことに首席となるほどに猛勉強したのだとか。

 その間には、封建社会の日本の誰も知るはずもなかった「市民」の権利も、日本人ゆえの人種差別も経験した万次郎である。

 優秀な成績で学校を卒業した彼は、捕鯨船員になる道を選ぶ。
 そこいらのペーペー乗組員と比べればずば抜けて優秀なのは誰もが認めるところとなり、やがて捕鯨船の副船長にまでなって、近代捕鯨のプロフェッショナルの道をゆく万次郎。

 けれど、いかに異郷の地で他者の追随を許さぬ実力を発揮していようとも、やはり人の子、故郷忘じがたく候ということだったのだろうか、彼は帰国の決意を固めた。

 だからといってかぐや姫のように、「じゃ!」と別れを告げれば日本に帰れる、なんてはずはなし。
 まずは帰国のための資金を得るため、当時ゴールドラッシュに沸いていたサンフランシスコに渡り、数か月間金鉱で精を出して帰国資金を稼いだという。

 …このあたりすべてウィキペディア情報なので、ところどころギモンが湧かなくもない。
 捕鯨船の給料を貯金する程度では賄えなかったのだろうか、帰国資金。

 ともかくも、ガリンペイロになってまで稼いだ資金でまずはホノルルに渡り、生き別れになっていた漁師仲間と8年ぶりに再会。
 ともに帰国すべく、上海行きの商船に乗り込んだ万次郎であった。

 その際、日本上陸用に購入した小型の船、アドベンチャー号まで積載しての乗船だったという。

 なおも鎖国中の日本のこと、客船で「ただいま!」と帰れるはずはなし、目的は帰国といえど、日本上陸は購入した船名どおり、決死のアドベンチャーなのだ。

 ところで、沖縄本島南部には、大度海岸という、冬の北風に強いダイビングポイントがある。

 この海岸、またの名を「ジョン万ビーチ」という。

 実はこのジョン万ビーチこと大度海岸こそが、万次郎が日本へ帰国を果たす際に、上海行きの船からアドベンチャー号に乗って上陸した場所なのだ!

 よくここに潜りに来ていた学生の頃から、この海岸がジョン万次郎上陸の地であることを知ってはいた。
 でもなぜわざわざこんなところに万次郎が上陸したのか、あまり深く考えないまま、ただただ漫然と

 「ふーん、ジョン万次郎が上陸したのね」

 程度の認識だったワタシ……。

 まさか帰国するにあたって、彼らがそんな大冒険をしていただなんて、恥ずかしながらこの齢になるまでまったく知りませんでした。
 今さらながら、海に向かって頭を垂れます。

 そして。

 これを書いている最中の2月20日付琉球新報に、このような記事が載っていた。

 そのジョン万ビーチこと大度海岸に、ジョン万次郎の碑が建立されたというのだ。

 なんというタイミング!!

 思わず鳥肌が立ってしまったではないか。

 除幕式が行われたのは2月18日のことで、今年は旧暦の1月3日にあたる。
 まさにこの日に、ジョン万次郎は大度海岸に上陸したそうだ。

 台上の万次郎像が決意をみなぎらせ指差している先には、土佐清水市があるという。
 その望郷の念、今ならワタシにもわかります。

 この美しい海岸にこのような像を建てることの是非はともかく、ここまで親切な碑が建てば、今後ここに潜りに来る琉球大学ダイビングクラブの後輩たちは、ワタシのようにモノを知らぬままオトナになるなんてことはないだろう……。 

 この大度海岸に上陸した万次郎。
 しかし彼の冒険は、沖縄上陸で終わるはずはなかった。

 当時の沖縄は、琉球王国の体裁は保ってはいたけれど、事実上は薩摩藩の属国。
 万次郎たちはただちに薩摩藩の役人の与りとなり、鎖国の禁を破った者として薩摩まで連行され、取り調べを受けることになった。

 もっとも、当時の薩摩は御存知島津斉彬の治世。
 進取の気性に富んだ開明的な藩主をいただいた薩摩藩は、万次郎が異国の地で体験してきたことがいかに重要であるかをただちに理解し、万次郎一行を厚遇したという。

 しかも、藩主島津斉彬直々に万次郎から話を聞くほどの傾倒ぶりだったとか。

 それに対して、万次郎がアメリカで得た知識、技術を惜しげもなく伝えたからこそ、幕末の薩摩藩は、斉彬が死んで藩の路線が変わってしまうまで、日本のどこよりも近代造船技術に秀で、航海術にも長けた藩になっていたのである。

 薩摩滞在中の万次郎は、斉彬に招かれ、薩摩藩のエリート学校で英語の講師もしていたらしい。

 とはいえいつまでも薩摩藩がこの重要人物を独り占めしているわけにはいかなかったのだろう。
 その後長崎に送られた万次郎は、江戸幕府直轄の長崎奉行所において、薩摩での生活が夢に思えるような厳しい取り調べを受けることになる。

 そして、典型的なお役所仕事だったであろう奉行所の取り調べも乗り越えた万次郎たちを長崎まで迎えに来たのが、ほかでもない、土佐藩のお役人。

 こうして万次郎たちは、ついに土佐に帰ることができたのだった。

 が。

 それで「めでたしめでたし」では終わらない。

 万次郎が異国の地で得たモノの重要さをわかっているのは、もちろん薩摩藩だけではなく、土佐藩もまた然り。

 当時土佐藩の首相の任についていた吉田東洋は、万次郎の経験、知識を漏らさず聴取する。
 その責任者に任命されたのが、ほかでもない、画伯河田小龍である……という話は、鏡川のほとりで触れた。

 土佐郷士を主人公にすると、とかく固陋、固執の塊のように扱われることも少なくない吉田東洋。
 しかしながら、勤皇だ、尊皇攘夷だとイデオロギーに固執し、海の向こうの文明社会を理解することなくただ排他思想だった多くの幕末の志士たちに比べれば、彼のほうがよほど先見性のある開明的な素養を持っていたのは間違いない。

 そしてそういう人たちに限って、暗殺など非業の死を遂げるのだ。

 2ヶ月におよんだ土佐藩の聴取も終わり、ようやく解放された万次郎は、ついにふるさと中の浜へ帰郷を果たした。
 漂流してから実に11年後、嘉永5年のことである。

 御存知のとおりその翌年に、アメリカのペリー艦隊が浦賀に姿を現す。
 いわゆる黒船来航だ。

 子供の頃の日本史の授業では、黒船が来たときには日本中が青天の霹靂状態で慌てふためいたかのように習ったものだった。

 けれど実際は、その頃にはもう列島各地の海から異国船との接触情報がもたらされていて、なによりも土佐藩から幕府に献上された河田小龍の「漂巽紀略」によって、知識階級や国政、藩政に携わっている人々は、すでにアメリカその他西洋文明社会を随分と知るところとなっていたのである。

 黒船来航とは、いわば覚悟していたこと、恐れていたことがゲンジツになった、という事件だったのだ。

 そんな未曽有の事態に、日本中の誰よりも英語が堪能で、しかもアメリカにおいて何年にも渡る生活経験があり、なおかつ近代航海術、造船技術に秀でているという類まれな人材を、幕府が放っておくはずはない。

 ペリーが来航した頃にはすでに土佐藩の士分に取り立てられ、藩のエリート学校で教授をしていた万次郎は、今度は幕府に招聘される形で江戸幕府直参の身分に、すなわち旗本となったのだ。

 鄙びた漁村で半農半漁の生活をしていた漁師が、なんという出世!

 当時の日本でただ一人のコスモポリタンだったのだから、当然といえば当然ではある。

 中浜という姓を名乗り始めたのは、この頃からだという。
 ちなみに「ジョン万次郎」という呼び名は、昭和の世になってから作家井伏鱒二がその作品中で使用したために日本に広まったもので、当時の国内では中浜万次郎、アメリカに居た時は「ジョン・マン」だったそうだ。

 中浜万次郎となって以後の彼の活躍は、勝海舟とともに咸臨丸でアメリカに渡ったりと歴史の表舞台になってくるので、ある程度は知っていた。
 しかしそこに至るまでの道のりが、こんなにもドラマチックアドベンチャーだったなんて。

 こりゃたしかに、人生丸々大河ドラマだわ。

 ここ中の浜でも、万次郎大河ドラマ化実現運動は盛んだ。

 実現すれば地元は大いに盛り上がるだろうし、中の浜が一気にメジャーな土地になるに違いない。
 ワタシも熱烈に応援するところである。

 しかしドラマ化をイメージしてみたところ、大きな問題があることに気がついた。

 万次郎の大冒険の中核をなす舞台は、船内も含めてほぼアメリカ。
 登場人物もアメリカ人ばかり。
 それをリアルなドラマにしようとすると、言葉は英語であることはもちろんながら、アメリカ人を演じる俳優もちゃんとした役者を起用しなければならなくなる。

 ワンシーンだけ出てくるペリー提督を、どこの誰とも知れぬ白人が演じる、というようないつものパターンは通用しない。

 となると、ただでさえ安いというNHKのギャラで賄えるのだろうか……。

 あ、そういえば!!

 大河ドラマ枠ではなかったにしろ、名作「坂の上の雲」における重要なロシアのシーンは、ちゃんと異国の俳優&ロシア語オンリーだったじゃないか。

 大河ドラマ「万次郎」、きっと実現可能だ!
 (その後観光客がドッと押し寄せてくるようになったら、中の浜は受け入れ可能なのか、という大きな問題もありますが…。)

 大河ドラマ化の話はともかく。
 以上を踏まえて眺めてみると、素朴で鄙びた小さな田舎の港が……

 まさに万次郎の海!

 望むと望まざるとにかかわらず、得がたき人物となってしまった帰国後は漁師をしているヒマなどなかったろう。
 それでも万次郎が生まれ育った場所は、まぎれもなくここなのだ。

 江戸や明治の世にふるさと納税システムがあれば、万次郎は躊躇なくこの地に納め続けたにちがいない。

 案内看板によると、海に向かって左側の海岸が、万次郎が子供の頃に遊んだ海辺だという。

 この中の浜の海辺も、津波対策のためなのだろう、巨大な防波堤がグルリと湾を囲っているため、道路からは海がまったく見えない。
 津波対策としては仕方がないのだろうけれど、ヒトの暮らしと海が隔絶されてしまっているようで、せっかくの海辺の景色なのになんだかもったいない。

 でもその防波堤にはところどころ通用門(?)があり、そこをくぐれば浜辺に出られる。

 そんな中の浜の漁港で、万次郎の海にタッチ。

 郷土のヒーロー中浜万次郎、その生誕地である中の浜には、近年「ジョン万次郎の生家」なるものが復元されたという。

 でも復元といったって、半農半漁の貧乏所帯だった家のこと、たしかな資料などあるはずもなし、いったいなにに基づいて「復元」したのだろう?

 と思ったら、このあたりの漁村の家はきっとこんな感じだっただろう…という歴史考証による復元なのだとか。

 実家がそのまま残っているならともかく、こんな感じだったんじゃね?的な今出来の家を見てもなぁ……

 …とは思いつつ、ヴィッツを停めている場所から歩いて100メートルほどだということだから、せっかくなので見ておくことにした。

 漁村らしい趣のあるスージィグヮーに入る。
 すると……

 復元生家の手前に、万次郎のおっかさんのご実家が。

 住まいはすべて近代建築になっているけれど、このあたりの区割りは江戸の昔の漁村のままらしく、母ちゃんの実家の場所まで現存しているのだ。

 そしてその先にあるのが……

 万次郎の復元生家。

 屋内では、係の人が観光客に説明していた。

 入れば誰でも説明を聞くことができるらしい。
 説明をしているのは、専属スタッフでもなんでもなく、この中の浜区の区長さんなのだとか。

 そんな話を教えてくださったのは、復元生家の反対側を撮っている時に、向こうからヒョコヒョコと歩いてきた近所のおじぃだ。

 通りすがりでいらっしゃっただけなのに、いろいろと教えて下さったおかげで、我々だけで歩いていたなら絶対に気づかなかったであろう重大ジジツまで知ることができた。

 復元された生家が建っている場所が本来の生家の場所ではなく、実際はその隣の家がその場所になるというのだ。

 なるほど、そのジジツを示す碑が敷地の際に建っている。

 で、江戸幕府の最重要人物となって江戸住まいを余儀なくされた万次郎の実家は彼の兄がしっかり継いで、今もなお子孫がお住まいだとおじぃが教えてくれた。

 驚いている我々に、おじぃが「ほら…」と言いながらそっと指差した先には……

 「中浜」の表札が!!

 復元された生家どころではない感動に包まれた…。

 先述の大度海岸に建てられた万次郎の碑の除幕式において、除幕の紐をひいたのは、万次郎の直系の子孫という若い女性だった。

 すなわち、こちらの家にお住いの方と遠いご親戚、ということになるのだろう。

 歴史上のエピソードというのは、けっして架空の絵物語でも異世界の話でもなんでもなく、こうして今の世に連綿と繋がっているのだ。
 人類の「有史」という大長編絵巻のなかでは、150年前のことなんて、つい昨日のことのようなものでしかないのかもしれない。

 そんな150年前の万次郎の大冒険を「昨日のこと」のように身近に感じるためにも、是非……

 …でも、中の浜の素朴な景観も大事にしてくださいね、土佐清水市。