6・鏡川散歩

 この火曜市がある旧水通町から南へ少し行ったところに、高知市内を流れる鏡川がある。

 わりと大きな川で、地図を見るかぎり河川敷も整備されているようだったから、歩いてみることにした。

 なんといっても鏡川は、その昔坂本龍馬が少年だった頃には乙女姉さんに水泳を教わり、また日根野道場の門下生だった頃には水練をしていたという川である。

 脚色だらけではあるけれど、武田鉄矢原作、小山ゆう作のマンガ「お〜い、竜馬!」でも、たびたび描写されていた川でもある。

 坂本龍馬にかぎらず、往時の高知城下の人々にとって、生活に密着した川だったであろうことは想像に難くない。

 テクテク歩くうちに、ほどなく鏡川の土手に。

 ゆるやかに流れる川は、思っていたよりも広かった。

 広い川面には、往時とさほど変わらぬであろう青く広い空が映っている。

 今でもいざとなるととんでもなく水量が増すこともあるのか、堤防の高さがかなりあるため、川辺まで降りるには堤防にところどころ設けられている階段を使わなければならない。

 この階段がなかなかオマタヒュン的に心細い造りで、一段ずつコンクリートが壁から突き出ているだけ。
 丈夫なことは理屈ではわかってはいても、高いところから降りる際には、櫛の歯が欠けるようにどこかの一段がもげたりして…という気にもなる。

 オマタヒュンの階段を下りると、そこは広々とした土手で、広場ではおんちゃんたちがゲートボールかグランドゴルフをし、草原ではムクドリたちが餌をついばんでいる。
 川沿いにウォーキングやジョギングをしている方々の姿も見える。

 実にのどかな河川敷。
 日当たりのいい場所にベンチもあった。

 火曜市でゲットした品々を、このベンチでいただくこととしよう。

 まずは田舎寿司!

 上端の鮮やかな緑色はリュウキュウという名の、なんだか沖縄と縁深そうでまったく無縁の高知のお野菜(フキ系)。
 右2つはタケノコ。
 そして左端はシイタケ。
 その隣は蒟蒻をお稲荷さん状にしてあるもの。
 上にまぶされた紅ショウガもどうやら自家製っぽい。

 これがまた相当な逸品。
 ネタもさることながら米がまた美味しく、酢の加減が絶妙抜群出色秀逸で、ネタも味付けも、「田舎寿司」などというネーミングが上質の自虐ギャグにしか思えないほどだった。

 後日ひろめ市場でも「田舎寿司」という名で売られている商品を目にしたけれど、軍配は取組前から火曜市でいただいた品に高々と上がった。

 未体験の方は、日曜市や火曜市の田舎寿司、是非一度お試しあれ!

 さてさて、デザートは、高知産プチトマト(ハウス産)に、オタマサこだわりの文旦。

 これ、家でいただく分には皮の剥き方いろいろあれど、スイスアーミーナイフがポッケに入っているわけじゃなし、川原のベンチでとなると手以外に使える道具がない。

 その点オタマサ1人いると、たとえ分厚い文旦でも食べることができるのであった。

 そんなオタマサを、人はスイスアーミー・ウーマンと呼ぶ。

 ガッシガッシと文旦を剥いていくオタマサを、川原の木に止まった百舌鳥は首を傾げて眺めていた。

 風もなくポカポカ陽気に包まれたベンチで美味しいお弁当(?)を食べたあと、再び散歩を始める。

 この鏡川沿いの町は江戸時代の土佐藩や土佐藩士ゆかりの史跡が多く、特に幕末の土佐藩に興味がある方にとっては、あれもこれもそれも一度はその名を聞いたことがあるものばかり。

 土手からふたたび堤防を越えたあたりにあるこの高知文化服飾専門学校、この建物の近辺に、あの河田小龍が開いていた塾があったという。

 河田小龍というと、幕末もののドラマや小説で坂本龍馬が主役級の登場人物になると、彼に影響を与えた人物として欠かせない存在の1人として出てくる人である。

 ただし、「奇人」という描写の方が突出しがちで、今ひとつどういうヒトなのかつかみにくいまま、作中からフェードアウトしていくことが多い。

 なのでこの機会にあらためてウィキペディアで調べてみると、実際は、絵師として土佐藩のエリート街道をまっしぐらに歩んでいた画伯だったという。

 後の土佐藩政吉田東洋に付き従う形で京都に遊学もしていて、京都では狩野派の大御所に師事していたのだとか。
 後の二条城襖絵修復の際には、師匠とともに従事していたというから、本来であれば下級武士坂本龍馬などがホイホイと気軽に話ができるようなヒトではなく、完全に絵の世界でのみ名を残していてしかるべきアーティストだったのだ。

 いや、もちろん画伯として名を残してはいるのだけれど、彼が日本に多大な影響を及ぼしたのは、大著「漂巽紀畧」に尽きるといっていい。
 「漂巽紀畧」とは、漂流〜救出〜渡米〜帰国という大アドベンチャーを果たしたジョン万次郎こと中浜万次郎の取り調べをするよう吉田東洋から命を受け、その聴取係になったことがきっかけで誕生したものだ。

 中浜万次郎が語るアメリカの話を聞けば聞くほど「これはただごとではない」と悟った彼は、一言一句聞き漏らすことなく、主観脚色を交えない代わりに挿絵などを添え、全5巻の大作を土佐藩に上梓したそうな。

 内容が内容だけに土佐藩はただちに幕府に披露したところ、あれよあれよという間に諸国大名の知るところとなり、語り部の中浜万次郎は一躍時の人に。

 おりしもペリーショックに揺れる鎖国時代のこと、突如目の前に現れたアメリカを当時の日本で誰よりも知る男として、中浜万次郎は幕府直参、すなわち旗本にとりたてられたのであった。

 万次郎そのヒトも優秀であったからこそではあるけれど、彼を世に早いうちに送り出すことができたのは、河田小龍の「漂巽紀畧」のおかげといっても過言ではないのだ。

 そして万次郎のおかげで開明的に先進国のあり方を知るところとなった河田小龍は、その後土佐で藩士たちにどのような教えを説くことになったかは、あらためていうまでもない。

 そしてそんな河田小龍からアメリカンなデモクラシー思想の影響を受けた人物の一人が、たまたま義兄(乙女姉さんのダンナ)が画伯の友人だったという縁もあった坂本龍馬なのである。

 ようするに風が吹けば桶屋が儲かる的に考えてみると、風が吹いて万次郎が漂流したことによって、江戸幕府は倒れたことになるわけだ。

 風が吹けば幕府が倒れる。

 うーむ、これぞ歴史の妙、ヒトの縁の綾。

 そして河田小龍塾は、服飾専門学校になる……。

 このあたりから、堤防沿いに町を歩く。

 堤防が高いためにあいにく川はまったく見えないかわりに、実に古風な一直線の石垣が続く道になる。

 このあたりは築屋敷(つきやしき)と呼ばれていた土地だそうで、詳しくはこちらの説明をご覧ください。

 で結局、今に残るこの石垣が当時築造された石垣なのかどうかという肝心なことを説明してはくれないのだけれど、ともかくもこの築屋敷に、坂本龍馬が14歳から19歳まで通った日根野道場があったという。

 ちゃんと旧跡を示す案内文も立っている。

 このあたりに道場があったのなら、鏡川で水練をするなら目と鼻の先だ。

 水量も川原の様子も随分変わってしまっているだろうけれど、遠くの山並みは基本的に往時と変わらないはず。

 きっと坂本龍馬その他多くの土佐藩士たちも、この風景を眺めながら道場に通い、剣術や水練に励んだことだろう。

 そのまま下流に向けて歩きながら往時の風景に思いを馳せていると、すぐ隣で目の前の風景に目を奪われているヒトがいた。

 やっぱり冬の水辺といえばカモ。

 オオバンも、カモに混じってスイスイと泳いでいる(左がオオバン)。

 もう少し下流に行くと大きなホテルがあって、その専属運ちゃんなのかホテルスタッフなのか、おんちゃんが川辺でカモ相手にエサを与えていた。

 すると次々に集まってくるカモ軍団!!

 鏡川は現在も人と繋がっているようで、こうしてカモにエサを与えて楽しんでいるおんちゃんがいる一方、ヤスと網を手に、ときおり川面を覗き込みながら散歩しているおじぃもいた。

 なにが獲れるのか訊ねてみると、今は水量が少なくて何がおるというわけじゃないけど、何かいた時のために持っているだけ、というような意味のことを、土佐言葉で教えてくれた。
 ただ歩くだけじゃつまらんから、あわよくば獲物付きのウォーキングということらしい。

 そのさらに下流には、こういうものも。

 池や湖や流れの無い海でしか手漕ぎボートを操ったことがないと、気がつけば遥か下流に…なんてことになりそうな危うい遊び……と思ったけど、これってただボートに乗るためじゃなくて、釣りの手段なのかな?

 この貸しボートハウスの向こうに見えているのが、天神大橋だ。

 幅広い鏡川に架かる橋はどれも立派なんだけど、この天神大橋だけは朱塗りの古風な造りになっている。

 欄干の擬宝珠も趣きがある。

 なぜにこの天神大橋だけこのような作りなのだろう?

 橋詰めに掲げられていた説明によると、どうやら江戸時代の高知城城下町で鏡川に架かっていた橋はここが唯一だったそうで、他の川に架かる橋も含めて城下最大だったため、俗に「大橋」と呼ばれていたのだそうな。

 ここから北へ伸びる道は大橋通りで、前日のれそれを買った大橋通り商店街に続いている。

 その名の由来はこの橋だったわけですな。

 明治後はこの大橋の近隣に次々に橋が架かり、かつての「大橋」の存在意義が無くなりかけた頃もあったようだけど、大正時代にはコンクリート化され、戦後になって大型化された際にあらためて「天神大橋」という名になったという。

 なので見た目は古風でも、造りは今風の近代建造物ではある。
 でも朱塗りであるところといい、その存在感といい……

 「はりまや橋」より立派なんですけど。

 < それを言っちゃあ、おしまいよ。

 そんな天神大橋の橋詰めにも、いました、尾長鶏!

 ……って、標識によると、我々が河川敷を歩いている間にスルーしてきたところに、旧山内家下屋敷長屋なんてものがあったらしい。

 カモ見ている場合じゃなかったカモ?

 天神大橋からそのまままっすぐ北へ歩くと、後藤象二郎誕生地などがある。
 しかしそれよりも目を引いたのはこちらの看板。

 今じゃもう、両者相並んでいるのが当たり前みたい……。

 やがて向かいに大橋通り商店街入り口が見える国道に出た。
 そのまままっすぐ行けば、ほどなくひろめ市場だ。

 時刻は午前11時。
 我々の早お昼タイムにバッチリ、ひろめ市場がランチタイムで混み合う前という意味でもバッチリ。

 しかし。

 火曜市で買ったサバチビターレの干物は要冷蔵だし、文旦、プチトマトの残りをそのまま抱えて歩き続けるのも何なので、いったんホテルに戻って出直すことにした。

 地図をご覧いただければ、いかにムダに遠回りかということをご理解いただけるはず。
 でも道のり的にはものすごくムダだけど、おかげで再びはりまや橋。

 やっぱ、天神大橋の方が立派なんじゃ……?

 < だから……それを言っちゃあおしまいよ。

 はりまや橋交差点近くのビル脇にある、からくり時計が作動しているところも観ることができた。

 からくり時計に合わせて流れるメロディは、もちろんのこと

 〜♪坊さんかんざし買うを見たぁ

 ここからはりまや橋商店街を歩いていると、朝方には準備中状態だった小さな商店街が活気づいていた。

 魚の棚商店街。
 はりまや橋商店街の途中から、北へと延びている。
 商店街とはいっても、幅せいぜい3メートル、長さ100メートルにも満たないこじんまりとした通りだ。

 しかしなりは小さくとも、歴史は古い。
 なんと江戸時代初期に、藩主から魚の小売を許可された界隈なのだとか。

 今の世から見れば魚を売るのにいちいち藩主の許可が必要というのも不思議な気がするけれど、ジョートーなものはお上のものだった当時のこと、なにかと縛りはあったのだろう。

 その名のとおり今ももちろん魚を扱う店が多い。
 そして、数百種類のコロッケを扱う惣菜店も人気なのだとか。

 コロッケ美味そう……。

 しかし今ここで腹を満たすわけにはいかない。

 このあとはもちろん……