旅は微塵も始まらない 

 今宵は、うちの奥さんの元上司にお誘いの言葉をかけてもらっていた。
 知る人ぞ知る、うちの奥さんはその昔サンシャイン国際水族館で飼育スタッフをしていて、その頃かなりお世話になっていた上司である。
 ご夫妻で何度か水納島まで来てもらっているし、それ以前から僕も面識はあったので、うちの奥さんの上司ではあるけれど僕も何かとお世話になっている。

 街中で待ち合わせるくらいなら水族館においでよ、と言っていただいていたので、ころあいを見計らって入園しておこうと思っていた。
 ところが、どういうわけか(そういうわけだが)水族館に着いた頃にはすっかり夜の帳が下りようとしていた。
 すでに水族館の改札は閉じられているだろうからその場で元上司さんを呼んでもらうわけにもいかず、途方に暮れて電話をしたら、
 「社員通用口からおいでよ」
 と言ってくださった。
 そこは元社員、むしりとった衣笠……じゃなかった、昔取った杵柄である。秘密の出入り口ならおまかせ……………のはずだったのだが、すでにかれこれ退社してから10年近く経っている今、彼女の記憶はゾウアザラシの皮よりも分厚いベールに覆われてしまっていた。

 それでも、暮れなずむ池袋サンシャイン通りを心細げに歩いているうちに、細い細い記憶の糸はしだいに往年の情景を織り成してくれたようだ。
 ちなみに、退社して10年たった人間が社員通用口から入館していいのか、という根源的なところはここだけの話であるからけっして口外しないように。それどころか、僕は社員でもなんでもなかったんだから。

 水族館内ではもうお一方と待ち合わせしていた。学生時代の大先輩である。
 上司氏とこの先輩とは仕事で出会われて以来の友人で、たまたま所用あって上京するから飲もうか、と先輩が上司氏におっしゃった日程が、たまたま僕らと一緒だったのだ。
 とはいうものの、この先輩、実は本部町に住んでおられるのである。それも渡久地港から目と鼻の先に。もちろん、本部でも我が家でも一緒に飲んだことはあるし泊めてもらったことすらある。まさか池袋で待ち合わせて飲むことになるとは思いも寄らなかった。

 先輩は水産関係のプロ、かたや我々は海中案内業。
 こういったマニアックな連中が水族館を歩くと異様である。
 きらびやかな魚たちをよそに、底砂でタラちゃんサイズにまで縮こまっているジャノメナマコを指差して、
 「これだとナマコにとっちゃ栄養補給できないからつらい環境だよなぁ……」
 などと言っているのだ。ある意味ヘンタイといってもいい。

 件の元上司氏は無類の日本酒愛好家で、我々などが飲んではバチが当たりそうなとっておきの酒をこれまでに何度もご馳走してもらっている。今宵飲みに行く場所もこだわりの店で、僕ら2人だけだったら敷居があまりにも高すぎてとてもじゃないけど入れそうもなかった。お品書きに並んだメニューはどれもこれも「時価」ですぜ………。
 こういう場所では、世なれた人生の先輩がいると心強い。
 そして、注文するのはモノを知らないほうが具合がいい。何食べる?と訊かれて、無邪気に
 「キンキの煮付け!!」
 と告げる我々………(この煮付け、胆まで丁寧に添えられていて、それがまた抜群の美味さ!)。

 上司氏が選んでくれたお酒は限定生産の超高価モノだった。
 ウム。皆が言いたいことはわかる。たしかに、日本酒と泡盛の区別のつかないヤツが飲んでいいシロモノではない。でも飲んじゃったも―――――ン!!
 2人だけだったら緊張して肴も酒も味がわからないところだったろうが、先輩たちのおかげで安心しきって普段通り飲めや食えや状態になっていた。
 結局、その場は上司氏がもってくれた(そうなることをかなり期待していた我妻マサエ)。僕らのほかにあと2名、合計6名のお会計はいったいどれほどになっていたのだろう…………。恐ろしくて聞くことすらできなかった。

 店を出てからお開きとなった。さて、今晩どうするの?と訊かれて
 「全然決めてません……」
 と明るく元気に答えていた。<バカ。ま、全然決めてません、とは、すなわち泊めてください、と言っているのである。上司氏のお宅は池袋なのだ。
 ご馳走になるだけなって、おまけに泊めてくれなどと、会社の上司というよりは学生時代の先輩に対するようなノリで接していいのだろうかと、さすがに思いはするのだけれど、どちらかというとうちの奥さんは在職中からこうだったらしい。うちの奥さんの勝手な予定では、最初から泊めてもらうことになっていたのだ。おそるべしB型………。

 明けて1月19日日曜日。朝食までいただいてしまい、すっかりくつろいだ気分になっていた我々を、今宵も飲み会が手ぐすね引いて待っている。
 旅程決定時点でこういう予定にしていたので、下手をすると飲み代が旅費を上回るのではないか、と危惧していたのだけれど、結局2夜連続ご馳走してもらった。やはり持つべきものは肉親そして心優しい先輩……。そして今宵は友人たちと飲む予定である。持つべきものはよき友人、ってことは、今宵もご馳走してもらえるのかな?
 そんなわけがない。

 ああ……タイトルは「山は白銀、朝日を浴びて」だというのに、いったいいつになったら白銀の山にたどり着くのだろうか。浴びているのは朝日ではなく、今のところ酒ばかり………。