1月18日・1

14・上野のアイルランド

 この日もいつもどおり7時30分頃に目覚めた。
 なんだか喉が痛い…。
 はは〜ん、昨日と同じで乾燥にやられたな。
 そう思い、傍らに置いてある「お〜い!お茶」をグビリ。フフフ…これで治ったろう。
 ゴクリ……唾を飲み込んでみる。
 あれ?……まだ痛いぞ。

 治まるどころか時間が経つにつれますます痛みが増していく。
 普段まったく気にならないのに、喉が痛くなると人間ってけっこう頻繁に唾を飲み込んでいるんだなぁということに気づく。そしてその都度喉が痛い。
 も……もしかして……風邪??
 そ、そんなはずは……。

 旅行前の体調整備と旅行中の体調管理なんて常識中の常識である……

 うちの奥さんをそう言っていじめたのはつい先日のことだというのに、いまさら
 風邪ひいてまんねん…
 とは言いにくい。
 でも、体裁を整えている場合ではない。風邪はひき始めが肝心である。

 「あのぉ……風邪薬を……」

 恐る恐るつぶやいたとき、うちの奥さんの顔は、般若が勝ち誇ったようなこの世のものとは思えぬ形相なのだった…。

 おりからの陽気でいてもたってもいられなくなった父ちゃんは、たまにしか会えない娘が今日帰るというのに、朝食後すぐにグランドに降りていった。この家はそういうあたりが面白いくらいに淡白なのである。おかげで、朝7時に若旦那を見送る必要もなかったりするのだが……。
 父ちゃんに別れの挨拶をすべく、我々も再びてっちゃんグランドに行った。
 昨日案内してもらったときに語っていたとおり、はびこる雑草の根っこをた〜くんさん抜き取る作業をしていた父ちゃんは、滝のような汗をかいていた。下手なスポーツジムに行くよりもよっぽどいい運動になっている。
 昨日聞かせてもらった今後の大計画のとおりになるなら、次回来た時にはまた目を疑うほどに大刷新されていることだろう。
 こういう作業は、楽しみにする人、評価する人がいればいるほどモチベーションは高まる。だから我々も、思う存分楽しみにさせてもらうことにしよう。一週間くらいいれば、テーブルやイスの一つや二つ、いつでも作るんだけどなぁ……。あ、そうすると我々の酒代で父ちゃんは大変なことになるか……。

 若奥さんに駅まで送ってもらった。
 昨日僕が適当にガレージに停めたら車は枠に対して斜めになっていたので、几帳面な父ちゃんや若旦那はきっと気にするに違いない、というようなことを告げると、
 「大丈夫、私は全然気にならないから!」
 そして、昨日僕がゴッドファーザーのベンツと思って緊張して運転していた父ちゃんのマークUを、若奥さんはまるでママチャリのようなノリでキュッキュッキュッとかっ飛ばす。
 このたくましい若奥さんがいるかぎり、うちの奥さんの実家は安泰であろう。

 駅前で別れ、さっそく売店に行った。
 無人駅となってしまった元加治とはいえ、売店には人がいる。
 で、のど飴をば……。
 ヤバイのである。
 痛いのである。

 そういえば、なんだかだるいような気もするなぁ……。
 あとのことを考えると、車内で寝ていればよかったのだろう。ところがずっと続きが気になっていた例の「犯人に告ぐ」を読んでしまった。これが敗因の一つ。
 そして池袋へ着き、まずはコインロッカーへ荷物を預ける。
 このままどこかゆっくりできるところでゆったりしていればよかったのだろう。ところが、このあと上野に行くことになっていたのである。これが敗因の二つ目。

 上野には何しに行ったかもうおわかりですね?
 そう、今回もまた入谷口改札。
 改札を出ると、なんだか魅惑的な店が駅構内にあった。アイリッシュ・パブだ。
 時刻はちょうどお昼過ぎ。であれば、おとなしく適当に飯を食べてゆっくりしていればよかったのだろう。ところが……
 さあ、ギネスビールの時間だ!!
 ……これが敗因の三つ目。
 そうとは知らない僕は、メニューにフィッシュアンドチップスという文字を見てちょっと喜んだ。こんな場末の――いや、場末とは言わないか――店でフィッシュアンドチップスもなにもないかもしれないけど、マスター・キートンとかを読んでいると、みんな実に美味そうに食べているのでひそかに憧れていたのである。今このとき、フィッシュアンドチップスなるものを目にするのは初めてだったのだ。
 さっそくオーダーし、ウェイターが届けてくれたものを見て……
 あれ?これがフィッシュアンドチップスなの?
 僕は長い間ずーっとずーっと、フィッシュアンドチップスってフィレオフィッシュバーガーみたいなものと思い込んでいたのである。<バカ
 そりゃ、愛蘭および英国の伝統の料理がバーガーってことはないよなぁ……。
 とはいえその伝統の料理って、単に白身魚のてんぷらとポテトフライじゃないか!<だからフィッシュアンドチップスなんだってば。

 自らの無知さ加減に愕然としつつも、やはりギネスビールは美味しかった。冬に飲むビールは味の濃いものに限る。泡の天辺にクローバーのマークはなかったけど、黒い生ビールが注がれたグラスの中の泡はなかなか消えなかった。さすがアイリッシュパブと銘打つだけある。
 うーん、美味い美味い。 
 「ギネスビールはリフィー川の水を使っているから黒いんだよ」
 そんなジョークが現地にはあるらしい。
 それが本当なら、その川の水をオリオンビールの工場まで密輸してしまおう……。

 …などとバカなことを言っている場合ではなかった。
 風邪薬をば……。
 ビールを飲んでから風邪薬を飲んでどうなるというのだ。効能的なことはともかく、その姿勢がすでにアウトではないか!
 と、神は怒髪衝天になっていたことだろう。しかし、天にいる神が怒髪衝天になると、いったい怒れる髪はどこを衝くのだろうか???
 ああ、そんなことを考えている場合ではなかった……。

 不思議なことに、店の看板や店内装飾のあちこちにオオハシの絵があった。
 オオハシというのは、異常に嘴の大きな熱帯系の鳥である。
 アイルランドとオオハシ??
 この店のキャラクターなのだろうか??
 なんとアイルランドのパブでは、よく看板にダチョウやオオハシをキャラクターに使っているそうである。へぇ〜。
 なんで上野でアイルランドのことを……。
 ともかく、我々の目を奪っていたオオハシの絵。
 そう、我々はこれからたくさんの鳥たちがいる楽園へ行くのだ。その名は…

 こんぱまる

 なんだよ、またか。
 そうおっしゃる方がほとんどであろう。
 でも、過去に何万回と会っているけど年に一度しか会えない織姫に、
 「なんだよ、またか」
 と彦星が言うだろうか?
 我々だって年に一度しか来られないのだ。

 というわけでこんぱまる。
 余人には何を言ってもわかるまいが、我々はここですっかり堪能してしまい、身も心も癒されたのだった…
 ……はずなのだが、どういうわけか、僕の身はさらにさらに敗北への道をまっしぐらに進んでいる。
 先ほどから敗因敗因と繰り返している。いったい何に負けるというのか?
 それはもちろん今宵の話………。