1月18日・3

16・居酒屋朦朧記

 その後、元上司氏をが勤務を終えるのを事務所の脇の別室で待っていると、かつてうちの奥さんがお世話になっていたみなさんもかわるがわる言葉をかけてくださる。
 どう考えてもたった3年しかいなかった人に対するものとは思えないくらいにみんな親しげに接してくださっていた。そして……。
 「どうぞ…」
 女性スタッフがコーヒーを持ってきてくれた。
 そんな……おそれおおい……。 
 ジャイアントクラブとの対人比で活躍したほどの小ささながら、おそらく職場でもずーっと態度はLサイズだったに違いない。まるで20年勤めているかのように……。
 「え?3年だけだったっけ?」
 みんなが口を揃えてそう驚くのもうなずけるのだった……。

 僕がますます朦朧としていく一方、うちの奥さんはといえば、今宵の酒に心が飛んでしまっていた。グロッキー状態で見る「はしゃぐ人」というのは目にドクである。
 だからといってせっかくの宴席、一人グロッキーをアピールするのは申し訳ない。ここからは気合いでGO!!
 いざ、今宵の席へ。

 池袋を地元として何十年の元上司氏。
 誰も行きつけないような秘密の飲み屋もすっかりテリトリーの範囲だ。
 一昨年連れていってもらったところも、僕ら夫婦がどやどやと入っていくのが申し訳ないくらいに格調高い店で、酒も料理もべらぼうに美味しかった。
 しかし、おそらく池袋近辺のほとんどの人にとっても敷居が高かったのだろう、その店は潰れてしまったという。
 そして今回あらたに連れていってもらったのは……
 と、ここで店名を書くと、元上司氏の秘密の店が世間に知れ渡ってしまうのでやめておこう。でも、また潰れちゃったらどうしよう??

 とにかく驚いたのは入り口。ここが居酒屋であるということを知らなかったら到底入ることなど不可能だ。まるでくぐり戸のような、もしくは茶室の入り口のような小さな小さな戸がある以外、これ見よがしな看板も電飾もな〜んにもなく、ただ酒屋の印・酒林(杉玉)がポンと軒から垂れているだけ。
 なんだか旧家の勝手口のような風情で、くぐり戸から鬼平が出てきてもおかしくはなかった。
 入り口だけで期待が高まってしまった。
 そして熱もどんどん高まっていった。

 今宵の席には、元上司氏のほかに、彼と一緒に水納島にお越しくださる職場の若い方々も同席してくれていた。お酒は美味しく、肴も絶品。宴席は盛り上がり……熱も盛り上がる。ときおりおしぼりを顔に当てると気持ちいい………。

 ああ、限界かも……。
 焼酎のお湯割りは痛む喉に心地よかったものの、せっかくの料理に手をつけることがほとんどできない…。このまま背後の荷物置きにグッタリ身をあずける…というのがこのうえないヨロコビであるかのように思えてきた。
 さすがにそれはできない。
 なので、ときおりかわやに行き、便座に腰掛けて休憩し、神に許しを請う。
 ああ、神様…。ワタクシが悪うございました……。
 そう己の悪行を思い起こして懺悔しようとしたものの、悪行の数々は朦朧とした頭ですぐに思い起こせるような数ではなかった……。

 座がお開きになる頃には、発熱のピークは過ぎていたような気がする。
 そして、心地よい酔いに満たされたみなさんと、熱で朦朧としている僕と、動きも表情もあまり変わらなくなっていた。一人を除いて……。そう、すっかりゴキゲンのうちの奥さんのこと。

 みんなと島での再会を約し、お別れした。
 このあとは、またしてもズーズーしく元上司氏のお宅に泊めていただくことになっている。
 本当は元上司氏の奥さんも宴席に参加されるはずだったのだが(奥さんもよく水納島にいらしてくださる方である。日焼けをものともせずビーチで貝殻を拾うH子さんといえばおわかりになる方も多かろう)、お風邪を召され、ご自身の体調もさることながら、旅行出発を控えた我々に風邪をうつしてはならじと、自宅で待っておられたのだ。
 すみません、すでにもう風邪ひいてます…。
 そう言いつつお邪魔したのだが……。
 まぁうちの奥さんときたらもう……シラフの方に会わせるのが申し訳ないくらいに単なる酔っ払いである。おそらく普段はこれが逆の立場なのだろう。人のフリ見て我がフリ直せ……いえ、きっと直りません。

 うちの奥さんは単なる酔っ払いだったけど、元上司氏の奥さんはひょっとしたら救いの女神だったのかもしれない。
 すでに快方に向かっている彼女も、一度はかなり発熱したという。そこで近所の病院に行って処方してもらった薬がまだ何日分も残っていた。
 風邪のタイプが一緒だから……
 という、冷静に考えると超素人診断で、その薬を飲んでみろということになった。
 いきなり老後の世界に突入したかのようなたくさんの薬、これが結果的に効いたようである。 

 「猫の間」とご夫妻が呼ぶふかふかベッドで爆睡させてもらったら、翌朝、まるで前夜のことがウソのように、す―――っかりよくなっていたのだ。
 ウソではなかったことは、枕に触れてすぐにわかった。
 夜中、思いっきり体が戦っていたのだろう、フカフカ枕がまるで氷枕のようにビショビショになっていたのである。体の中のバイキンマンは、滝のような汗とともにきれいさっぱり流れ去ったに違いない。
 風邪を治す薬はないかわりに、インフルエンザには特効薬があるという。ひょっとするとこれはインフルエンザで、彼女の薬が特効薬だったのかもしれない。

 ともかく峠は越したようだ。
 だるさもなければ熱もない。喉の痛みもほとんど無くなっていた。
 そしてなにより……
 おなかが減っている―――ッ!!

 というわけで、お雑煮その他ごちそうだらけの朝ごはんを、バクバクバクと豚のように食べまくったのだった。もちろんうちの奥さんは、お雑煮一杯いただくのもどうかというくらいに、二日酔いだったのはいうまでもない。

 念のために熱計ってみたら?
 そういって体温計を持ってきてくださったので計ってみると………
 35.6度!!
 完全復活―――――――――ッ!!

 このお酒場所ともいえる今回の旅行、初場所で全勝優勝した朝青龍のように白星街道を突っ走るつもりだったのに、危うく(横綱昇進をかけつつも序盤で負けがこみそのまま休場した)魁皇になってしまうところだった。枕をビショビショにしてしまったのは大変心苦しいことながら、こうして僕は苦境を乗り切った。
 そしていよいよ、旅は本編へ……え?今まではプロローグだったの??