1月19日・2

19・飛騨の匠

 飛騨高山について僕は何も知らなかった。
 昨年、「アラスカに行く」と言ったときの
 えぇッ!?
 という声は、今回「飛騨高山に行く」と言うと、
 へぇ…
 に変わったことを思うと、おそらくみんな飛騨高山についてあまりご存知ではないに違いない。
 飛騨高山に関して、読者も僕とともに勉強しなければならない。

 以前ゲストとともに日本地図書きごっこで遊んでみたら、関東の人は西日本を、関西の人は東日本をほとんど知らないということが判明した。なので、そんなみなさんに問おう。

 飛騨高山って何県にあるでしょう?

 グッとつまってしまったあなた、そこのあなたです。大丈夫ですね?
 そう、飛騨高山は岐阜県にある。
 岐阜といっても、もう少し北に行くとすぐに富山県になるあたりだ。
 有名な白川郷はすぐ近く、そして小柴教授の秘密の要塞――のような――スーパーカミオカンデがある神岡村もすぐ近くだ。
 …とエラそうに言っている僕は、旅行を前にして初めてそれらのことを知ったのだった。
 子供の頃に赤影を見ていたときは、イメージ的に「飛騨の国」って栃木県くらいの位置にあった。飛騨の国から仮面の忍者を呼んだ…って大層にナレーションが言うんだもの。でも赤影を呼んだ籐吉郎がいた近江から見たら、飛騨ってすぐお隣さんだったんじゃないか…。

 何も知らないままでいったらもったいなそうな場所だったので、旅行気分を盛り上げるためにもう少し調べてみた。
 旅行ブームの昨今である、ガイドブックも多種多様だ。驚いたことに、それら多様なガイドブックのなかで、飛騨高山はたいてい1冊の独立したものになっていた。
 ある出版社の、全20巻しかない日本の観光地ガイドブックシリーズでも、「高山」というタイトルで1冊を形成しているのである。東北にだって見所はたくさんあるのに「東北」というタイトルで1冊にまとめられていることを思えば…
 高山ってすごい……。

 ガイドブックの冒頭、グラビアページでは「旅を彩る珠玉のシーン」と題して高山地方の見所が紹介されていた。その項目は、
 町並み
 美味
 匠の技
 自然
 とあった。

 町並みも美味も、場所こそ違え観光地ならたいてい紹介される。自然もまた然り。
 しかし、

 匠の技…

 これぞ飛騨。
 テレビに毒された僕のオロカ頭では、匠と聞くと「大改造!ビフォーアフター」に出てくる建築デザイナーしか思い浮かばないのだが、世間では匠といえば
 飛騨の匠
 という言葉のほうがいち早く――というか、平安の昔から世に知られていたそうである。
 てことは、まだ律令時代華やかなりし頃、寺社仏閣や宮中の何かをリニューアルする際、限られた予算内でよりよい仕事をしてもらうために、飛騨の国から匠を呼んだのだろうか?

 そうではなかった。
 匠というと今では尊称のように使うけれど、ようするに大工さんである。
 美濃の国と違って山ばかりの飛騨では米がなかなか取れないため、律令時代の税金である米などとても払えなかった。
 では、体で払え。
 こうして飛騨地方の若い女性はみんな都に連れられて……
 ヤクザの取立てじゃないんだからそんな事態にはならず、男たちの肉体労働が税金代わりとなったのである。
 大工だけではなく防人の仕事もあったとかなかったとか、徴用された人数分の米も差し出さなければならなかったとかいろいろあるらしいけれど、この際僕のオロカ頭でもわかるように簡単にいうなら、下っ端の大工としてこき使われるために都に出て行ったということだ。
 このあたり、非常に微妙である。
 もともと木材に事欠かない山国で、大工仕事なら腕に覚えがある人たちばかりだから大工の仕事になったのか、都でのいろいろな作業様式が飛騨でもどんどん蓄積して、いつしか「匠」になったのか……。
 よくわからないけれど、延喜式という平安時代初期の国のあらましブックのようなもののなかでは、当時の建設省のようなものである修理職と木工寮の人員配分に、
 飛騨工(ひだのたくみ)
 と固有名詞つきで書き記されているらしい。
 始まりはともかく、すでにその頃にはもう、れっきとした職人集団になっていたのだろう。

 律令の世の中が終焉して以降は、飛騨の匠が中央に徴用されることはなくなった。そのかわり、何百年と培われ蓄積した技術は、飛騨の国でさらに発展し、以後途絶えることなく続いていくことになる。鉄道で旅してさえ奥深い国だから、昔であれば世が乱れ戦乱に明け暮れる時代になろうとも、飛騨の国の人々にとっては、それらは下界の出来事でしかなかったろう。
 裏を返せば、都の人々にとっては伝説の職人集団だったってことだろうか。のちのち天下を取っていろんな建築物を建てることになる藤吉郎が飛騨から呼ぶべきは、赤影ではなく匠たちのほうだったかもしれない。

 木工に少なからず興味のある僕は、匠の技というものにももちろん興味があった。
 中央で徴用されなくなってからはずっと飛騨国内で完結していた匠の技も、いまでは海外に雄飛するまでにパワーアップしている。
 飛騨の家具である。
 完全にブランドとなっているのだ。
 これがもう、あなた……高いのなんの!!
 家具だけではない。
 一位の木で作る一刀彫も飛騨高山の超有名な工芸なのだが、町を散策しているときに入った工芸品店の壁に掛けられていた、幅40センチほどの精巧な龍の彫り物の値段を見てみると……
 24万円!!
 ……息が止まった。
 いったい誰が買うんだろう……。

 そんな匠の国、すなわち大工職人の国で、忍者は生きていけるのだろうか?
 もちろん忍者もある意味職人である。伊賀の国は忍者という職人集団の国である。でも……飛騨にいて忍者の鍛錬をしていたら、
 「こりゃ、お前なに遊んでいる!!」
 と怒られ、スゴスゴと大工仕事に戻らねばならないではないか。手裏剣を失敗して柱に突き刺そうものなら、ボコボコに殴られてしまう……。
 仮面の忍者赤影の原作者横山光輝は、いったい飛騨のどこに忍者を見出したのだろう??

 でも現地に行けば、赤影の気配はあるかもしれない。
 その「現地」、飛騨高山に我々はようやく到着した。
 平泉では義経が、仙台では政宗公が、町のあちこちにその姿を見せていた。
 赤影は……。
 しかしすでにすっかり陽は落ち、夜の帳が下り始めている。赤影どころか自分の影さえ見えない。

 高山駅まで宿のお迎えが来てくれることになっていて、駅に着いたら電話をしてくれとのことだった。厳寒のフェアバンクスで慣れない英語モドキを駆使してホテルに電話をした昨年のことを思うと、やっぱり国内旅行は楽だ。英語の国では終始沈黙を守っていたうちの奥さんも、余裕綽々で迎えを求める電話をかけていた。

 タクシー乗降場で待てということだったので、改札を出てズンダラズンダラ歩くと、
 さ、寒い……。
 さすが日本海側だ。
 このまま永遠に待っていたらきっと凍死しただろうが、ほどなく迎えのバンが来てくれた。

 翌日以降、さんざん歩き回ることになる町並みを走り抜け、宿についた。
 3泊お世話になる岩田館である。
 今晩遅くに着くお客さんが他に一人いるらしいものの、ほぼ我々二人だけのようだ。これぞ平日の醍醐味。

 女将さんから部屋の鍵を受け取り、旅装を解くべく部屋に向かった。そして、テケテケ廊下を行く僕の目は、ふと見上げたポスターに釘付けになった。


赤影参上!

 赤影さんだ!!
 やっぱりいたんだ、赤影は!!
 お前、なに遊んでいる!なんて怒られたりはしていなかった。それどころか、岐阜と滋賀の宣伝に一役買っているじゃないか。

 赤影とゆけ。

 なんと素晴らしいキャッチコピーだろう!!
 少年時代の僕にとっては彼こそが飛騨の匠だった。もちろん僕は応えた。
 「ガッテンガッテン ショ―――チッ!!」