1月19日・3

20・民宿岩田館

 高山は日本有数の観光地である。もちろん宿はたくさんある。
 また、飛騨高山の周囲には鄙びたものから豪華なものまで数々の温泉地がある。
 さあ、宿はどこにするか?
 飛騨高山にも温泉があるとはいえ、昨今流行の無理矢理温泉だから、「飛騨高山温泉」と銘打っていても、実は源泉からタンクで湯を運んできているものである。だから本格的な温泉を優先するなら、飛騨高山の周囲に散らばる温泉地にいったほうがいい。
 でも、雪に閉ざされた奥地にいっていったい何をしろというのだ。我々の目的は飛騨高山を歩き回ることにこそある。
 当然宿は高山市内に求めた。

 旅行当時はまだ合併前とはいえ、高山市は人口6万5千人ほどの大きな町である。一口に市内といっても広い。ただし数々の名所旧跡や町並みは狭い範囲に集中しているので、それらに近いところにある宿がいい。
 そしてなによりも、目当ての飲み屋に近いほうがいい。
 酒処の飛騨高山である。そして意外や意外、富山からの海産物で肴も充実している。
 宿の食事も魅惑的だったけれど、せっかくだから夜は町に繰り出し、飲み屋でお酒を飲んでみたい。
 そんなこんなで、時刻表はなんにも調べないくせに行きたい居酒屋リストはたくさん作っていたのだった。
 歩ける範囲にそれらすべてが揃っている宿。
 それでいて、大きすぎず寂れすぎず、民宿大城っぽいノリが通用しそうな……
 そして、チャン・ツィイーのような仲居さんがいて、おひとつどうぞ…と注いでくれて、まぁまぁご返杯、あらすみません、お、いけるクちだね、あらいけませんわ、くるしゅうない、ああ、ご無体な……
 ………ゴホン。
 そんなこんなでいろいろ探してたどりついたのがこの民宿岩田館さんだ。
 (もちろんチャン・ツィイーはいない)

 赤影のポスターに感動したあと、旅装を解くべく部屋に着いた。
 きれいに片付けられている6畳間は、やはり雪国、しっかり暖房してくれてあった。
 そして驚いたことに、民宿と銘打っているのに、タオル、バスタオル、浴衣、丹前、歯ブラシなどのアメニティグッズが揃っている。しかもそれらは毎日新しいものが用意されていた。
 まるで旅館である。

 到着が遅いことが予想されたので、この日はさすがに夕食をお願いしてあった。もう間もなく夕食の準備ができるという時刻に宿に到着したものの、まずはひとっ風呂浴びて旅の垢を落としたい。部屋で旅装を解き、貸切状態の風呂場に向かった。
 飛騨高山温泉利用組合に入っている岩田館さんのお風呂には、源泉からタンクローリーで運ばれてくる温泉で満たされている。ただし、ドアで仕切られた先にあるささやかな露天風呂は、普通の水を沸かしたお風呂になっている。
 温泉であれなんであれ、普段湯船になかなか浸かることができない我々からすると、両手両足をたっぷり伸ばしてもまだ余裕がある大きな浴槽というものが飛び切り気持ちいい。
 さすがに20人も泊り客がいたら大変な騒ぎになるのだろうが、貸切なんだもの、道後温泉の坊ちゃんのように泳ぐことだってできる。おならだって……失敬。

 このお風呂、我々二人しかいない間は、本来男女に分けられているうちの片方しか用意されないので、僕は結局片方だけしか入っていない。ところが最後の日は他にお客さんがいたこともあって、初めて男女で分けられ、うちの奥さんは未体験ゾーンも味わうことができた。なんだか悔しい。
 貸切状態だと他の人に気を使わなくて気楽でいいのだけれど、我々二人だけのために湯を沸かすということだけでも、よくよく考えたら大サービスだ。食事の用意からなにから、すべてを含めるとかえって赤字になるのではなかろうか……。
 他の客に気を使わなくていいとはいえ、なんだか宿の方に申し訳ない気もするのだった。

 申し訳ないついでに、洗濯機をお借りした。
 ここに来るまでにすでに家を出てから何日も経っているので、さすがに洗濯をせねば間に合わない。そのため、宿を予約した時点で洗濯機の使用をお願いしてあったのだが、朝食時に女将さんに打診してみると、
 え?
 というレスポンス。どうやらメールを担当しているのはご主人もしくは他の方のようで、女将さんにまで話は通じていなかったらしい。小さな宿でよくある一こまである。
 でも、快諾してくださったので助かった。

 ひとっ風呂浴びたあとは夕食だ。
 大きな食堂に用意されているのは我々二人分だけの食事、というのはちょっぴり寂しいけれど、無遠慮に騒ぎまくるオヤジどもや二十歳そこそこのうるさいガキどもがいたらいたできっと僕は文句を言っていたことだろう。それを思えば天国のような状況である。
 うれしいことに、スーパードライではなくキリンの瓶ビールを頼めた。
 さっそく乾杯。
 いやあ、久しぶりに美味しくビールが飲める!!<久しぶりって、たった一日だけじゃないか?

 夕食は聞いていたとおり豪華だった。
 鯛が踊っていたり分厚いステーキがドドンッとあるわけじゃない。
 でもこれは……
 思いっきりうちの奥さんのストライクゾーン!!
 そしていつしかうちの奥さんに感化された僕にとっても直球ど真ん中だった。

 とにかく品数が多い。
 小鉢や小皿がいったいいくつあったろうか。
 夕飯にカレーライスを出すとちゃぶ台返しをするうちの奥さんである。量よりも質、そして品数にヨロコビを見出す。
 そして眼前の夕食は、そのどれもが飛騨高山のヨロコビの品々なので旅情もたっぷりだった。
 思い出せるかぎりの品をここに書き記してみよう……
 ……すまぬ、忘れた。
 ともかくも写真を見てくれい。
 パッと見目を引くのはアユと飛騨牛だが、気になったのは高野豆腐のような、それでいてチクワブのような輪郭をした豆腐。女将さんにうかがい、これはこも豆腐いうものであることを知った。
 その皿に乗っていたマメのようなもの、食べてみても僕にはなんだかわからない。
 棗だった。
 後日スーパーをのぞいたら、棗の実が缶詰で売られていた。
 見るのも食べるのもまったく初めてだ。
 漬物はもちろん、ご存知赤カブ!
 かつてフランキー堺が演じていた赤カブ検事、彼が劇中いつもポリポリ食べていたのがこの赤カブだった。春川ますみがよそるご飯がと〜っても美味しそうに見えたものだった。今でも橋爪功が、藤田弓子が、同じように演っているのだろうか……。
 春川ますみの100分の1くらいしか体積がないうちの奥さんがよそってくれたご飯も、赤カブともどもとっても美味しかった。

 さすがにこの日は移動で疲れていたのだろう。
 ビールはほどほどにし、寝る前にもう一度お風呂に入ることにした。

 一坪ほどの露天風呂スペースに出るドアには、
 「気温が低すぎる場合はご利用いただけないことがあります」
 というようなことが書かれてあった。
 気温差が激しすぎると体に異常をきたしてしまうからであろう。
 でも、「低すぎる」ときってどれくらい低いのだろうか。
 いまでも充分外気は寒いと思うんだけど……。

 檜の湯船に浸かると夜空を仰ぎ見ることができる。
 限られたスペースで、しかも周囲にいろんな構造物があるから空は四角く切り取られてはいるけれど、心地よく肌を刺す夜の空気は、まぎれもなく旅の空のものだった。