1月15日・2

8・三線心模様

 新年会については、昨年の旅行記も参照されたい(こちら)。
 本来は1月の第3土曜に開催されるのが恒例だった。我々はこの時期たいてい暇なので、連絡船が欠航しない限りまったく問題はない。
 ところが、いつのころからか航空各社が「バースデー割引」なるサービスを始めた。
 バースデー割引についてご存知ない方がわりといらっしゃるので説明すると、誕生日割引のことである<そりゃわかってるって。
 本人はもちろんのこと、同伴者3名までもが恩恵にあずかれるのだ。その恩恵は、国内であればどの区間であっても片道12000円!!(以前は10000円だった)しかも誕生日の前後7日間すなわち15日間有効なのである!!
 もちろんお盆・年末年始・GWといった繁忙期には使えないけど、そのあたりにお生まれの方は日程をずらして設定できるようになっている。
 我々の誕生日はといえば、僕が11月、うちの奥さんが1月。まるでクロワッサンのオフシーズンに合わせたかのような都合の良い誕生日である。これを使わない手はない。

 そこでモンダイが生まれた。
 うちの奥さんの誕生日が、ちょうど新年会が催される週になるのだ。
 たいてい10日間ほどの旅行になるので、ほぼ完璧に重なってしまう。そのため、残念ながら一昨年の新年会には出席できなかった。
 ところが昨年、わざわざ我々の日程を確認していただいたうえで新年会の予定を立ててくださった――ということは昨年の旅行記でも触れた。
 そして今年、またしてもあらかじめ我々の日程を確認していただいたのである。

 非常に申し訳ない。
 だいたい、OBと一口にいっても齢30何年を数えるクラブである。僕がせいぜい18期なのに対し、新年会に集まる方々は遥かに上の大先輩ばかり。ただでさえ恐縮してしまうというのに、旅程のせいで慣例を変えていただいたとあっては……。

 たとえ連絡船が欠航しようとも、這ってでも参加せねばならない。
 それはもちろんのことながら、恐縮しつつ、僕は考えた。
 この宴席で、いったい僕にできることはなんだろうか?
 そういえば、いつだったかこの宴の席で三線を披露したことがあった。
 ヘナチョコな僕の腕前でも、学生の頃から酒とトークしかなかった我がクラブの飲み会の席に、文化の香りを注いだことだけはたしかなのだった。
 歌う人あり、踊る人あり、そして三線の音色が夜空に舞い上がる…(いや、屋外で飲んでいるわけじゃないけど)。
 これぞ、沖縄の宴席だ。

 それから何年か経って、ひところは水納島のモーツァルトだと思い上がっていた僕の三線熱は冷えてしまった。
 空前絶後の沖縄ブーム、三線ブームに天邪鬼を起こしたわけではない。
 一言でいうなら、三線はやはりウチナーンチュが弾いてこそだ、という結論に達したからである。
 そう悟ったのは、もちろん己の才能の限界と無縁ではないということは正直に告白しておこう。

 とにかくそういうわけで僕は引退を表明し、ここ1年は確固たる意思で三線ケースの蓋すら開けていなかった。
 しかし……。
 僕に求められているのがあのときのような宴席演出だとするなら……。
 床の間に飾ってある三線を手渡され、「いや、ゴニョゴニョ…」と言葉を濁してお断りできようか。渡されれば1曲や2曲、おなじみの民謡でも何でもすかさず弾いてこその僕ではなかろうか…。

 そして旅行出発の4日前。
 ほこりをかぶり、物置部屋の奥に静かに眠っていた三線ケースの蓋がついに開けられた。
 3、4日間、練習しよう!
 とはいえ、何年か続けていたのでまがりなりにも3歩進んでいたとしても、このブランクで183歩くらい後退してしまっている。元に戻すことなど到底不可能である。でも……

 驚いたことに、歌によっては体が勝手に覚えているものもあった。
 記憶をたどろうとして頭で考えると手が止まるのに、さりげなく弾くと勝手に最後までいくのである。
 「自転車のようなもので、一度覚えたら体が忘れない」
 一昨年スキーを習ったときにそう教わった。三線もそういう意味では自転車と同じなのだなぁ…。

 予定外の早期出発のために練習日は一日短くなったけれど、思っていたよりも後退していなかったことにちょっとホッとして新年会に臨むことができた。
 そしてその新年会……。

 なんと、この日初めてこの新年会に出席されたあるOBの方は、先頃めでたく三線の審査で「優秀賞」を得られた方なのだった。
 もちろん、ウチナーンチュである。

 新年会の一角は、父ちゃんたちに同伴されてきたキッズがたくさんいて、その中の一人の子がかぎやで風を踊れるということで、宴はすでにすっかりたけなわになっていたもののようやく幕開きの演奏となった。
 これがもう、上手いのである。
 三線ももちろんのことながら、彼はその声がふるっている。
 広い舞台でソロで弾いたとして、客席の奥の奥まで染みとおるような声量かつ美声。かつて学生の頃、「シブイ」を通り越して「ニガイ」とまでいわれた彼のキャラクターからは想像もできない姿であると、大勢の先輩方が口を揃えて言っていた。 

 三線には、奏でる音色にも歌にも情がいるといわれる。
 情と書いてナサケ(キ)と読む。
 チャンチャラ鳴らすだけなら僕にもできるし誰にでもできる。メロディをはずすことなく歌うだけなら、音痴じゃないかぎり誰でもできる。
 でも、この情というのが難しい。
 ただ沖縄に住んでいるだけでは自分の身からほとばしらせることなどできない。そして、自分がナイチャーであると考えれば考えるほど、余計に難しくなっていく。

 たかが三線じゃないか、楽しければいいじゃないか

 そういう人は多い。僕も基本的にはそう思う。
 でも、島で人前で弾いていたりするとき、何かのおりにヒョッと頭をよぎるナニカがつらい。それもあって、

 やはり三線は沖縄の人が弾くべきものだ

 いつしかそう思うようになってしまった。
 そして今、沖縄生まれの先輩の、心に響く歌声と三線の音色の美しいことよ……。
 こうして、一人勝手に思い込んでいただけとも言えるこの宴席での僕の肩の荷は、おだやかにゆるやかに酒とともに溶け去っていった。

 せっかく練習してきたのに……
 そう同情してくださる方がいらっしゃるとしたら、それは誤解である。
 実は、恐れ多くも僕はいっときその先輩と一緒に弾いていたのだ。

 これからはOB会の中に三線サークルを創ろうか

 弾きながら先輩は冗談交じりにそう語った。
 それもまた面白そうだなぁ……。
 OB会の席上、舞台に立ってみんなで弾きますか!
 なんだか面白そうである。
 そしてそれこそが、僕にとっての三線のあるべき姿なのかもしれない。
 僕の確固たる意思というものがいかにか弱いものであるかということは、常日頃ログコーナーをお読みの方なら百も承知のことだろう。
 というわけで、実現は百年先かもしれない三線サークルを目指し、再び三線の蓋を開けてみることにしたのだった。

 あれ……?
 これ、旅行記だよなぁ………。