みちのく二人旅

ああ、松島や

 平泉に滞在していた1日半で、いったい何キロ歩いたことだろう。14、5キロくらいは歩いたろうか。朝になれば回復しているとはいえ、少しずつ疲労が溜まっている気がする。
 昼間からビール!
 などと言っていたのに、すっかり忘れて……というより、飲んで歩いたらそのまま倒れてしまいそうだったから飲まなかったのかもしれない。

 この日は、朝から平泉を後にし、一路松島を目指した。
 今夜の宿は塩釜だが、やはり日本三景を見ねばなるまい。
 初日こそ小雨混じりだったが、翌日からすっかり秋の青空になっている。眺めを見るには申し分ない天気だ。
 その松島までどうやっていくか、というのがまた問題である。
 宿に、平泉駅、一関駅それぞれの時刻表があったから一応電車での段取りはつけていたが、松島、塩釜周辺の駅はちょっとややこしい。
 なにしろ、東北本線と仙石線が手を取り合うように仲良く走っているのだ。そのため松島と松島海岸駅、塩釜と本塩釜という具合に、同じJRなのに隣接して駅がある。
 一関からまっすぐ松島に向かうなら、迷うことなく東北本線である。が、いわゆる観光地松島に降り立つなら仙石線の松島海岸駅なのだ。
 宿を引き払うため荷物が多くなることもあって、作戦の立案は難航した。
 いっそのことレンタカーを借りるか。
 さっそく平泉の駅前で一関のレンタカーに何件か問い合わせてみたのだが、車がなかったり乗り捨てできなかったりで結局借りることができなかった。レンタカーは当日借りるには不向きなのである。
 トヨタレンタリースなんて、石巻や気仙沼なら乗り捨てできるけど、松島、塩釜は営業所があるのに乗り捨てできないというのである。営業所間でケンカでもしているのだろうか。

 結局、鈍行電車でトコトコ南下することにした。
 窓外は一望田園だった。初夏なら一面青々とした稲の海に、実る頃には金色の野になるのだろう。
 という思いがつい口に出てしまった。
 「
その者、青き衣をまとい金色の野に降り立つべし

 「もう刈り取られてるよ」
 すかさずうちの奥さんに突っ込まれてしまった。

 ふと思ったのだが、この広い田を断ち切るように走る電車や太い道路のせいで、農家はどれほど不便になっているのだろうか。
 分断された双方を行き来する手間はいかばかりだろう。
 窓外の景色は楽しみたいが、農家の苦労を考えると電車や車は地下を走らすのが一番いいのだろうなぁ。

 でもやはり一望の田んぼというのは気持ちがいい。
 それに、新幹線と幹線の連絡は不便だが、平泉から一関、そして松島までは実にスムーズな接続だった。
 すでにベテラン気取りなのか、ドアの開閉ボタンを押すうちの奥さんは得意げである。
 途中、無人駅がいくつかあり、そこではキチンと整理券がニョロッと顔を出す。乗ってくる人も普通にそれをとっていた。

 平泉から松島まで1時間半ほどだった。
 駅に降り、すぐにタクシーに乗った。この駅から松島海岸駅まで歩けば30分ぐらいの距離。途中特になにも目的のない道のりを、大きな荷物を持って30分歩くのは辛い。タクシーに乗ろう。

 タクシーは5分くらいで松島海岸駅に着いた。
 海だ!!
 やっぱり海辺というのは落ちつく。
 平泉がいかに素晴らしいところであったとはいえ、内陸にいると心理的になんとなく閉ざされているような気がしていたのか、松島の海辺の雰囲気は開放されるような心踊るものがあった。
 また、天下の観光地ということもあって、やはり開けている。にぎやかなのだ。
 平泉の落ちついた雰囲気とは打って変わって、観光地に来た、という気分になった。
 それにしても、11月のこの時期というのにヤケに観光客が多い。
 運ちゃんに訊ねてみると、例年ならこの時期はもっと少ないらしい。どうやらテロ事件に関連しているようなのだ。
 海外も沖縄もアブナイし、だったらちょこっと松島でも、ということのようである。
 テロのあおりを受けてヒーヒー言っているところがある一方で、予想外の盛況に大喜びの場所もあったのである。

瑞巌寺

 日本三景というものがある。
 天の橋立
 安芸の宮島
 そしてこの松島。
 このうち僕は、すでに二つ制覇していて、残るはこの松島だけだった。
 逆に、うちの奥さんは、日本三景を目にするのはこの松島が初めてなのである。
 日本三景という言葉にかなり期待しつつ訪れたわけである。
 が、目の前の景色を見る限り、膨らんだ期待ほどには目を見張るものはなかった。
 もっとも、轟く美名は多島海の美しさによるものである。その島々の並ぶ姿は、海抜0m付近からでは味わえないのもやむを得まい。あとで高台から望むことにしよう。
 その前に、駅周辺を散策することにした。松島海岸駅のコインロッカーに荷物を預け、まず目指すは瑞巌寺。

 奥州藤原氏当時に比べれば、伊達政宗が活躍した時代というのは、歴史の上の区分では同じ中世ながら、僕的にはもう近世と言ってもいいくらいに時代がかけ離れている。資料も多く残っていて、かなり細部まで把握されている時代でもある。
 岩手県ではまったく名前を見なかったけど、宮城県内に入った途端、政宗一色になった感がある。
 エジプトはナイルの賜物だったが、「宮城は政宗の賜物」なのである。

 瑞巌寺は伊達政宗ゆかりの寺だ。
 戦国時代、奥州の王となった政宗も、時代の波には勝てず、徳川の世となりつつあったころ、いかに身を守るか、ということに神経の大半を割かねばならなくなった。
 家康にとっても、豊臣家を滅ぼした後、唯一といってもいい強大な勢力は伊達政宗である。
 つまり徳川に対して下手を打てば討伐されてしまう。
 そうならないよう政宗は外交政策をとる一方で、万一の場合に備えておかなければならない。
 この瑞巌寺は、実はその万一の際用の役割もあったそうなのである。
 以下の会話は、インターネットで瑞巌寺を調べていて偶然見つけたものだが、NHK大河ドラマ「徳川三代」の中の1シーンである。

 家康:「政宗は仙台に巨大な城を構え、あまつさえ松島に、寺に見せかけて堅固な砦を築きおった!!」

 秀忠:「瑞巌寺にございますか?」

 家康:「あれは出城じゃ!!」

 もちろんドラマだから会話内容はフィクションである。でも、瑞巌寺には、高所から銃撃できるよう設けられた庫裏の煙出しや、200人は収容できるという武者隠しなど、この会話ももっとも、といえるほどの戦用の備えがあるという。
 実際は、織田信長の本能寺のように、いざという時の最後の死に場所として用意したのではないか、といわれているそうである。いずれにしても、荘厳な桃山造りの寺であるだけだとばかり思っていたら、やはり戦国武者の熱い息吹を濃厚に残している建物だったのだ。
 そういえば、後日行った政宗の居城青葉城も、いかにも戦国時代の城、というべき立地だった。
 復元された小さな櫓と石垣以外なにも残ってはいなかったが、急峻な曲輪をヒーヒー言いつつ登っただけで、おそらく誰に攻められても落ちることはなかったろうと思えた。
 こんな坂道を毎日毎日登らなければならなかったなんて、江戸時代の仙台藩の侍は大変だったろうなぁ、と感心していたら、やはり彼らも人間であった。二代藩主忠宗が二の丸を完成させて以後、みんなふもとの二の丸で用を済ませるようになったため、山上に構えられた本丸は実用性がまったくなくなり、単なる飾り物になったようである。そりゃそうだろうなぁ。

 というほどの瑞巌寺ながら、やはり現代の寺である。拝観料が必要だ。

 出城のごとく重厚な寺だった瑞巌寺も、今や写真のような自販機でチケットを購入するようになっている。死に場所と決意して建立した政宗、まさか400年後にこんなものが設置されるとは夢にも思わなかったことだろう。
 しかも700円である。高いぞこのヤロー!

 建築の知識などまったく持っていないから、桃山造りといわれてもピンと来ない。それでも、なるほど、この広大な屋根は印象的である。夜になると仮面の忍者赤影が屋根の上を走っているかもしれない。

 本堂の中にはきらめく襖がたくさんあって、様々な絵が描かれてあった。
 こういった芸術面の知識もまったくないが、それが豪華であることくらいは見ていてわかる。
 わかったような顔をしてフムフムうなずきつつ各部屋を見ていたら、襖絵の一つに描かれていたタカの絵を見ていたうちの奥さんが
 「このタカ、変!」
 と指をさしていた。客観的には彼女の方がよっぽど変である。
 何が変なのかと思ったら、はばたき方が、なんだかキジみたいなのである。こんな格好で飛ぶタカはおらんでぇ、と言いたくなるのも無理はない。
 どれも当時の超メジャーな絵師が書いたものだから、絵の価値は途方もないものなのだろう。しかし絵師たちは野山で実際にタカが飛ぶ姿を見たことがなかったのだろうか。それとも、キジのように描くのが雅だったのだろうか。

 駅から「近道」という標識に従って来たために、西側の参道から我々はやって来たのだが、帰りに通った表参道はほぼまっすぐ海のほうに伸びていてかっこいい。
 その脇に、不思議な窟があった。
 岩肌がまるで採石場のようにいくつも四角くきれいに切り取られていて、そこかしこに仏様が彫られているのである。それが100mくらい続いているのだ。不気味的なのだがどこを探してもいっさい説明版がない。なんでこんな不思議なものの説明がないのだろう。
 とその時、団体客を引率する添乗員説明しながら通りすぎた。
 「この岩窟は、寺の修行僧がこもり、仏を彫りつつ修行していたところでございます……」
 な〜るほど。
 瑞巌寺自体もその周りの岩肌をくりぬいて境内にしているようだが、松島の島々を見ればわかるとおり、このあたりはとにかく砂岩なので加工しやすいのだろう。

 この禅宗の瑞巌寺、もともとは延福寺という天台宗のお寺だったそうで、慈覚大師こと円仁が開基したという。
 そういえば、中尊寺も毛越寺ももともとは円仁だったではないか。
 この慈覚大師は関東以北に数々の寺を開基しているが(中尊寺、毛越寺、日光山、埼玉県川越市の喜多院、福島県伊達郡の霊山寺、山形市の立石寺、秋田県象潟町の蚶満寺、青森県恐山の円通寺など、特に山形県においては
10を越える寺を開いている)、それがもし本当に彼自身のワザなら途方もないパワーの持ち主である。立ち寄っただけで名が残る弘法大師とは大違いだ。
 たしかに9年間も唐で頑張った人ではあるけれど、これほど各地に寺を開基する暇があったのだろうか。仏のパワーなのかなぁ。