みちのく二人旅

遠の朝廷

 しばらく行くと、ようやく多賀城碑、そして多賀城政庁跡にたどり着いた。
 多賀城碑は日本三古碑の一つで、各地からの多賀城までの距離、そして最初に作った人、復旧した人が書かれてある碑である。復旧した本人藤原アサカリが立てたものとされている。

 最初に多賀城を作ったのは大野東人(おおののあずまびと)という人である。
 聞いたこともない名前だ。
 だが、東北の古代を語る上で、この人は欠かせない存在だったようなのだ。
 続日本紀などに登場する事歴を見る限りどうやら当時のスーパーヒーローだったような節があるのだ。もう少し時代が下れば義経のように多分に脚色された物語が伝えられたろうに、当時は漢字の羅列だけの書に登場するだけで、それを「物語る」人はいなかったのだろう。
 この碑は東人の功績を伝える数少ないものの一つだが、それでもたった2行の漢字の列でしかない。

 三古碑の一つ、と気張ってはいるものの、小さな小さな岩である。今はささやかな祠に覆われているが、芭蕉が訪れた当時は碑が土中から発見されてまだそれほど時が経っていなかった頃で、碑はただ野にポツンと立っていたらしい。
 歴史にロマンを求める当時の風流人たちが「壷の碑」と呼びもてはやしたこの石碑を見て、芭蕉は曾良とともに熱心に解読し、またしても感涙したという。よく泣く人である。

 この碑で注目すべきは大野東人でも藤原アサカリでもなく、平城京から何里、蝦夷との国境から何里とずっと続く多賀城の位置を示す項目の最後尾である。
 「靺鞨国界ヲ去ル 三千里」
 とある。

 靺鞨国とは中国・ロシアの沿海州にあたりに存在したといわれる国である。
 中国の辺境は時代ごとに様々な「蛮族」が登場する。スキタイ、サルマタイ、匈奴、鮮卑、烏桓、拓跋、突厥、ウイグル、契丹、蒙古、高車、吐蕃、夫余、高句麗、靺鞨、渤海、粛慎、女真………

これらは時代ごとにその名称が変わるので、どれとどれが同じ民族であるのか僕なんかにはとんとわからない。中原の中国自体がめまぐるしく王朝の変遷を繰り返すうえに、辺境の名までがあまりにもややこしいから世界史を敬遠した、という方も多いだろう。
 でもそんなに難しく考えることはない。おおむね同じような騎馬民族、もしくは狩猟民族の国と思っても大した間違いではないのである。たぶん。
 そして、これらの人々は、おそらく東北日本の人々、すなわち蝦夷と呼ばれた人々と密接に関係していたはずである。

 学校で習う歴史の教科書がどれだけ改定されようとも、それは中央政府の歴史だ。
 そのため古代の日本を取り巻く国際社会は、百済、新羅、高句麗などの朝鮮半島と、漢、三国のうちの魏、そして隋、唐と続く中国との関係だけであったかのように錯覚してしまう。
しかし当時は今よりも遥かに東アジアが人々の可視範囲に入っていた。蝦夷から見れば、まだ黒曜石が重要な石器であった時代から、中国、ロシア沿海州を中心にした北方の地域は近隣諸国だったのである。

 そう考えると、碑を作った時代から遥かに下るとはいえ、奥州藤原氏のきらめくばかりの物流事情も理解できる気がする。騎馬民族との交流があったからこそ、奥州の馬が中央で重宝されるほどに素晴らしかったのであろう。

 多賀城政庁跡にたどり着いた。
 多賀城。
 その言葉をはじめて耳にしたのは、これまた大河ドラマ「炎立つ」である。
 「炎立つ」のような蝦夷の末裔を主人公にした物語を知ったあと、改めて日本史の年表を見ると、蝦夷討伐という文字が異常に並んでいることに気づく。どれもこれも、蝦夷が反乱したからであるらしい。

 復元模型を見たことはあったとはいえ、実際にその地に立つと、いかにこの城が当時威容を誇っていたかが実感できる。
 また、なぜか平地にあると錯覚していたのだが、多賀城市を見晴るかす高台だったのだ。この地から、源頼義も義家も、大野東人も遥かな野を眺めたことだろう。区域は見事に整備されていて、実に気持ちのいい広場になっていた。
 この政庁跡は、下の写真の通り当時は周囲をグルリと築地塀に囲まれていた。
 その範囲が「国府」なのかと思っていたらそうではなかった。なんとこの政庁跡を中心にした一辺1キロ以上もの範囲が壁でグルリと囲まれていたというのだ。それが「国府多賀城」だったのである。そういえば、政庁跡から遠く離れたところに南門跡とか東門跡があった。周囲にはまだまだ蝦夷の勢力があった時代ならではの城郭都市なのである。
 まさに、遠の朝廷。広大である。
 これほどまでの巨城を、この地になぜ作らねばならなかったのだろうか。

 遥かな古代、関東以北には蝦夷の社会があった。大和の人々とは言語風俗をまったく異にする別の民族であったといわれている。
 時代が下ると蝦夷という言葉は蔑称となるが、それ以前はまったく意味が違っていた。
 屈強なる人々、(朝廷に)まつろわぬ人々という、どちらかといえば畏怖にも似た気持ちで呼んでいた気配があるのである。蘇我蝦夷、小野蝦夷などのように(当時は毛人と書いてエミシと読んだそうだが)、有力貴族の名として使われていることを見ると納得できる。たくましき人々が東方にいる、と、どちらかといえば好意的に見られていた時代もあったようなのだ。
 では、いつからエミシは蔑称となったのか。
 中央の朝廷にとって討つべき相手になってからである。
 なぜ討たねばならなかったのだろう。
 いろいろな理由が考えられるが、少なくとも蝦夷が悪かったからではないことだけはたしかである。

 前述の通り、昔の日本は、今では考えられないくらいに近隣諸国と密接な関係にあった。密接どころか、大和朝廷に関していえば、はたして半島の百済と明確な国境が物理的にも精神的にも存在したのかどうか、と思えるくらいの関係である。
 そのもっとも密接であった友好国百済が滅亡に瀕して以来、中国との関係を誤ると日本の前途が危うい、という状況に陥った。対新羅の外交を有利に進めるためには、なんとしても中国皇帝の覚えをめでたくし、東アジアの雄は日本である、と認識してもらわなければならなかった。
 遣唐使が蝦夷を唐まで連れていき、わざわざ皇帝の目に触れさせたという記録がある。ひとえに天皇の日本における権威を知らしめるためである。中華思想では、蛮族をひれ伏すことがすなわち支配者の徳を表すことになるのだ。蝦夷が「蛮族」として脅威であったわけではなく、日本の事情が蛮族を必要としたのである。

 また、半島の百済が滅んでしまうと、日本は事実上朝鮮半島の足がかりをまったく失うことになる。朝鮮半島が、地図通り完全に海の向こうの地域になってしまう。
 そうなると、当時の朝廷の勢力範囲は西日本だけになる。心細いどころの話ではなかったろう。
 そんなとき東に目を向けると、蝦夷の国があった。
 土地は広大にして肥沃である。
 討ってしまえ!!

 蝦夷たちこそいい面の皮であった。しかも、よりによって金が産出してしまった。
 彼らにはなんの落ち度もないにもかかわらず、7世紀の阿倍比羅夫の遠征を皮切りに、8世紀初頭からおよそ100年間、侵略に次ぐ侵略を受けることになる。

 この侵略は、蝦夷の神々たちをも駆逐したことだろう。
 二大カトリック国が南米を布教という名のもとに侵略していった様子と似ているかもしれない。
 つねづね、仏様のまわりには、なぜ毘沙門天や不動明王のようなおどろおどろしいシモベがいるのだろうか、と不思議だったのだが、この蝦夷討伐を宗教的に考えるとなんとなく理解できる気がする。日本に限らず、仏様は各地で異教の神々と戦っていたのである。 

 仏様と神様の戦いはともかく、多賀城とは、つまるところ侵略戦争のための前線基地だった。
 大野東人がこの地に多賀城を設けて以来、中央政府の勢力範囲は画期的に広がっている。
 蝦夷は各地で投降するか、または北方に逃れていく。
 投降した蝦夷は、俘囚と呼ばれ、蔑まれた。
 蔑まれるだけでなく、おびただしい人数が日本各地に移配されているのである。九州で防人になった俘囚も数多い。
 また、勢力下においた蝦夷の地には、まるで流刑の地のごとく大和の人間を移住させていく。
 混血させることによって、その血を絶やそうとしたのだろうか。
 蝦夷や俘囚の反乱、という文字がこの間の年表に目立つが、こんな仕打ちを受けて抵抗しない方がおかしいくらいだ。「キレる」のも当然ではないか。
 蝦夷討伐とは、ようするに北日本で平和に暮らしていた国が、日本に征服されていく物語なのである。

 100年に渡る侵略戦争の後、俘囚はいいように利用されていった。
 蝦夷をもって蝦夷を討たせたり、統御させつつ、少しずつ中央政府の管轄下に置かれるようになっていく。奥州藤原氏の前身、安部氏や清原氏は、俘囚の長なのである。
 ここで、藤原清衡が、中尊寺の願文に書いた文を思い出して欲しい。
 「俘囚の上頭」
 と自ら名乗りながら、これでもかという力を中央政府に見せつける清衡の耳には、間違いなく古代からの蝦夷の叫びが届いていたはずである。

 ことの善悪はともかく、この地が中央から見れば辺境であったことは間違いない。しかも「蛮族」蝦夷と対峙している。
 鎮守府将軍、陸奥守などを拝命して都から下ってきた貴族たちの苦労はどのようなものだったろうか。

 そういう辺境への思いもまた、松島とおなじように詩になっているわけである。
 実際にこの地に赴任した人も、行ったことすらない人も、みんな「辺境」というロマン溢れる言葉に胸を熱くし、思いのたけを詩にする。
 芭蕉のような歌人は、そういう様々な思いがこめられた詩の数々も各地の文物も当然ながら知っている。だからこそ、壷の碑のようなただの岩を見て涙を流すのである。
 けれどその涙には、蝦夷の悲しみは含まれてはいない。 

 自分が国の端に住んでいるせいもあって、ついつい蝦夷に対して感傷的になってしまう。
 だが、これらのことは、一つの国ができあがる過程の避けられない歴史であるともいえよう。

 威容を誇った多賀城は、今はもうない。
 何もない小高い丘に、ただ風が吹いていた。