みちのく二人旅

青葉城恋唄

 ホテルで目覚めた時、すでに夜は明けていた。
 なんだか部屋中が異様な匂いである。
 何を血迷ったか、昨夜の帰り道、コンビニで二人とも締めのカップラーメンを買ってしまった。
 寿司、牛タンと続けざまに北の味を堪能した日の締めとしてはもっともふさわしくなかったが、酔っているからどうしようもない。
 しかも辛い辛いヤツである。
 部屋の異臭はラーメンの匂いであった。
 今は辛くないが、匂いが辛い(ツライ)。

 それに、なんだか妙にのどが痛い。
 風邪かな?
 と思ったが、どうやらそうではないらしい。
 昨夜あまりにも喋りすぎたのである。
 酔っ払っていたものなぁ。
 うちの奥さんいわく、僕はノリノリだったそうだ。のどが痛くなるほど金縛りについて語っていたのだろうか………。
 金縛りに遇いながら、白鳥が川に舞い降り、映画の予告を見ておお泣きする女性を慰め、なぜか一人留学するために旅立つ女性を見送りながら、転倒して頭がポッカリ裂けてしまい、隣りのオッサンはへべれけ、アベマリアが静かに流れている………という、まったく現実感の無い夢のような映像が頭に残っていた。

 この日、とうとう東北の地を後にする。
 行きは新幹線だったが、帰りは船である。仙台から名古屋へと向かうのだ。
 船の出港時間は昼12時過ぎであった。1時間前には着いていなければならないにしても、朝はたっぷり時間がある。

 仙台といえば杜の都である。数多くの史跡もあり、数多くの著名人にゆかりのある土地であり、しかも東北大学に象徴されるように知の都でもある。それなのに、我々の目的はただひたすら牛タンだけだった。それじゃあまりにも、ということで、プラプラと散歩することにした。
 広瀬川で青葉城恋唄を歌おう。

 そんなに遠くまで歩くつもりはなかったのだが、まだ朝起きたてということもあって元気いっぱいである。青葉城まで行ってみるか、ということになった。
 青葉城については瑞巌寺の稿で書いたが、とにかく堅固な城であったろう、ということを身をもって知ることになった。坂が辛かったのなんの。
 ヒーヒー言いつつ曲輪を登っていったのに、本丸付近の石垣は思いっきり工事中であった。政宗騎馬像も工事のフェンスで囲われていた。

 そのふもとにある三の丸のお堀跡が沼になっていて、ここでも鴨が泳いでいた。

 広瀬川は、青葉城に行く手前に流れている。
 〜♪広瀬川〜流れる岸辺〜はコンクリートの護岸〜
 だったが、青葉通りはとっても気持ちのいい道である。
 ケヤキ並木がずっと続いていて、地下に埋められているのかうざったい電線がまったくない。そして車道は広く、整然と車が流れている。
 戦後の仙台市の街作りは、ビシッと1本通ったこの青葉通りが根本になったらしく、見事なまでの幹線道路である。
 行き交う人々はあくまでもスマートで(体形のことじゃないよ)、人々がケヤキ並木の通りを歩く姿を見ているだけでも趣がある。これこそが都市ではないか。
 都内では、僕は田舎者なりに銀座の雰囲気が好きなのだが、青葉通りはそれほどお高くとまることなく、それでいて美しい。街全体がハイカラなのである。

 駅前には、有名な「ペデストリアン・デッキ」なるものがある。
 歩行者のデッキ。
 駅の2階部分が大きく張りだしたテラスになっていて、そこから街のあちこちに、回廊が縦横に延びているのである。各ビルの2階部分に繋がっているから、駅前の太い車道をいちいち信号待ちすることもない。また、道を1本1本越えるたびに歩道橋を上り下りする必要もない。
 回廊はかなり遠くまで延びていて、車道から見るとそれらが空中で連結しているのである。派手過ぎず無骨過ぎず、けっして目立たないのに存在感はたっぷりだ。
 都市なのである。
 日本の各都市をくまなくまわったわけではないから他は知らないが、仙台市の駅周辺、特に青葉通り周辺はとにかくカッコイイ、という一言に尽きる。こういう都市に比べたら、大阪も東京も那覇もなんだかウンコみたいに思えてくる。仙台は伊達氏の賜物だが、「杜の都」は伊達ではなかった(座布団一枚!)。
 歩いていて気もちいい都市。
 今の日本にどれくらいあるのだろうか。気持ちいい都市を探す旅も続けてみたい。

 僕の実家の近くにある高槻駅にも、ちょうどこのペデストリアン・デッキの縮小版のようなものがある。西武から松坂屋まで、駅舎を通して2階部分で行き来できるのだ。
 仙台のこのデッキは、昭和53年にできたという。
 高槻市はこれを真似したに違いない。デッキだけ真似しても、志操のなさはいかんともしがたい。
 この覚えにくい「ペデストリアン・デッキ」という名前、仙台市民なら誰でも知っているはずである。
 僕はとても一度で覚えられないから、「モンゴリアン・チョップ」と勝手に改名しておいた。

 そろそろ港へ行かねばならない。
 いよいよ東北の地を後にする時が来た。
 蝦夷の悲しみを無邪気に無視する限り、白河の関のさらに遠方といえば、古より都の人々にとって畏れと憧れが混ざり合ったロマン溢れる辺境の土地であった。
 そういった風流人たちは、松島の風光、朽ちた寺社、碑の年輪、野が語る故人の想念、一面の萩の花、それら風物を我が糧として、この奥州の地を磨いていったことだろう。
 風流人ではない僕たちは、ずんだ餅、ボタンエビ、仙台の牛タンを糧とした。
 おい、ここまで長々と書いてきて、結局東北の結論はずんだ餅とボタンエビと牛タンかいっ!!
 と怒ってはいけない。
 これでいいのだ。
 生涯風流とは無縁に過ごしそうだけれど、これらの糧のおかげで、僕らにとっての奥州の地は素晴らしい思い出を得た場所であるとともに、また再び旅してみたい土地の一つになったのである。