みちのく二人旅

平泉

 平泉である。
 その地が岩手県にあることすら知らなかったけれど、憧れ(と言っていいのかどうかわからないくらい薄ボンヤリした意識の中)の土地である。たとえて言うなら、どこにあるか知らなかったけどなんとなく夢見たモルディブに初めて来たわ……というノンダイバーの感慨に似ているかもしれない。
 その真っ只中に降り立ったのである。ちょっとした感動だ。
 そういう思いでこの地を訪れる人は意外に少ないのか、駅前は非常に上品なまま、すなわちあんまり観光観光していない。もちろん観光案内所もレンタサイクルの受付場所もあるにはあるが、さあ、ここが平泉観光の中心地でござい、という力みかえった様子はどこにもなかった。
僕ら的にはそのほうが気分がいい。

 チェックインの時刻にはまだ早かったが、荷物がやや重いので、宿に連絡して早めに寄せてもらうことにした。
 駅から宿までは歩いて5分ほどだった。挨拶もそこそこに荷物だけ置かせてもらい、まず最初の目的地へ向かうことにした。
 その際、ご主人に簡単な地図をいただいた。本来は、もう少し便利な地図があったらしい。
 「あいッ、なくなってるさぁ」
 とは言わなかったものの、肝心の地図が無いあたり、まるで民宿大城的で好感度大である。

ああ、二足の草鞋・地水庵

 さて、我々はなんで昼過ぎに到着すべく朝早く出発したのか。
 それはほかでもない、昼飯のためである。
 平泉に評判の蕎麦屋があるのだ。
 時刻表は調べないが、食い物屋に関してはマメなのである。
 が、問題があった。
 その日打った分が無くなると終わってしまう蕎麦屋なのである。
 時間的にどうしてもギリギリになってしまう。だったら翌日にすればいい、というところだが、あいにく翌日翌々日は定休日。つまりこの日しかない。
 そのためどうしても今日はこの地水庵という蕎麦屋で、というのが至上命題になっていたのである。
 満員電車にもめげず朝早く出てきたのはこのためだったのだ。

 宿から一旦駅前に行き、脇にある観光案内所で宿が切らしていた地図を貰った。
 観光案内所はささやかながら上品な作りで、町並みにピッタリフィットしていた。そういえば駅前からずっと、家並が一様に落ちついた和風作りである。後でわかったことだが、町が総力をあげて町並みの景観を統一しようと努力しているらしい。
 毛越寺までの参道沿いは新たに区画整理をし、かなり住民には痛手をしいつつも、そのフォローも怠っていない。町の要求するとおりの和風建築であれば、町からちゃんと補助金が出ているというのだ。町全体を世界遺産に、という平泉の並々ならぬ決意の現われでもあろう。

 観光案内所で貰った地図と、あらかじめプリントしておいたかなり簡略化された地図を頼りにトボトボと件の店を目指した。

 古都平泉といっても、奥州藤原氏全盛時からだったのかどうか、町並みという点ではそれほど大きなものではない。北上川が西へ流れを変えてしまっているということを差し引いても、いったいどこに10万人もの人が暮らしていたのだろうか、と思えるくらいである。
 諸説あるらしいが、おそらくもう少し北の、衣川あたりの平野部に一般市民は暮らしていたのだろう、というのがどうやら的を射ているようである。ちなみに現在の平泉町の人口は9千人。小さな町だから、右と左さえわかれば、地図を見ながら歩いていける。

 国道4号線が町を横切ってさえいなければ、かなり静かなところである。ちょっとした商店街が国道から横にそれており、車の通行も頻繁ではなく、散策するのにはうってつけの場所だ。この商店街っぽい道が、中尊寺への参道になっている。今の平泉町の勢いからすると、この参道ものちのち毛越寺参道同様、大幅に作りなおすのではなかろうか。
 この中尊寺の参道伝いに、奥州藤原氏の主だった遺構群がある。
 駅から順に、伽羅御所跡、無量光院跡、柳の御所跡、そして高館。
 どれもこれも、往時は威容を誇った建物であったろうが、今やすべて田んぼや住宅地である。どこもかしこも、兵どもが夢の跡なのだ。

 今の我々はそれらにかまっている場合ではない。
 なにしろ非常に微妙な時間になっているのである。

 店の地図はあまりに簡略だったため、果たしてたどり着けるのかどうかさえ危ぶまれたが、たどり着いてみればたしかに地図どおりであるからまたフシギである。わかっている人が見るのと、わからない人が見るのとでは地図は大きく違ってくるのだ。そのあたり、名古屋駅周辺の地図を書いた担当者にわからせてあげたい。

 店にはたどり着いた。はたして営業中か準備中か。
 緊張しながら入り口まで来ると、おお………!
 営業中…………!!
 ヨロコビも悲しみも幾年月。新幹線の中にこれといった駅弁がなかったせいで、早い朝ごはん以降なにも口にしていなかったうちの奥さんは、まるでニッカド電池のようにエネルギーが突然切れかけ、機能停止寸前であった。
 暗闇にポッカリ見えた人家の灯りにも似た安堵感を味わいつつ、鬼平犯科帳に出てくるような渋い作りの店内に入った。周りの蕎麦をすする景気のいい音も耳にうれしい。
 入り口には10歳未満のお子様のご来店はお断りいたします、とあった。つまり騒いではいけないのだろう。ヨロコビをジム・キャリーのように全身で表したかったが、ここはグッと堪えた。

 オーダーをとりにきたとき、すでに注文できる品は限られていた。やはりギリギリだったのである。なんとか間に合ったという安堵感が、胃袋を完全に蕎麦待ち状態にした。お茶をズズズとすすりつつ、魅惑の蕎麦の到着を待った。

 ところが!!
 まさにところが!!

 オーダーを一度取ったにもかかわらず、再び店員がやって来て、
 「すみません、蕎麦もう切れちゃって、ソバガキかぜんざいしか出せないんです」
 ああ、なんということだぁ!!
 そんなことなら、入店前に断られた方がまだどれだけシアワセだったことか。
 ソバガキのほうがより蕎麦らしいですよ、という慰めの言葉も耳に入らない。ソバガキがどれほど美味しかろうと、胃袋はとにかく蕎麦待ち状態なのである。
 この天地がひっくり返ったかのような衝撃に我々夫婦は深くうなだれつつ、出された茶だけを飲んで店を後にしたのであった。はたしてうちの奥さんのエネルギーはもつのか?カラータイマーの点滅がまぶしい……。
 店を出るとき、玄関には
 「蕎麦売りきれました」
 という紙が置かれていた。我々と同時に出ようとしていたご夫婦は無事食べ終えた方だったらしく、
 「やっぱりこういうこともあるのねぇ。食べられてよかったわねぇ」
 などと話していた。ダメージ倍増である。

 さて。
 蕎麦がダメだったら、じゃあ、とんかつでも、と安易に選べるほどの立地ではない。近くに店屋などないのである。
 すぐ近くに和風の建物があり、料理屋っぽい看板があったからまさに救いの神か、と思ったら、それは「翁知屋」という秀衡塗りの有名店であった。今の我々には、ブタに真珠、猫に小判、ケンタローにダイヤのネックレス。どれだけ立派な漆塗りの器を差し出されてもなんの意味もない。
 この先はもう中尊寺周辺くらいしか食い物屋はないだろう。中尊寺周辺の食い物やなんて、バスでヤンヤヤンヤと押し寄せる団体客向けの食堂程度の店しかないに違いない。
 でももうそんな贅沢を言っている場合ではない。電池が切れようとしているのだもの。
 結局そのまま中尊寺のふもとまでたどり着き、どこの観光地にでもあるようなどうでもいい食堂で蕎麦を注文した。お姉さんがきれいじゃなかったら暴れたくなるくらいにまずい蕎麦だった。
 昼間からビール、という勢いも、この驚天動地のショックから抜け出せないままいたせいで、ぬるい茶をすするにとどまってしまった。壁に貼られていたロシナンテのポスターとドロンズのサインが無性にもの悲しい。 
 悔しいことに、あと3歩ほど歩みを進めれば、広い駐車場を取り囲むようにいろいろ店があったのである。どうやらよりによってもっともイケテナイ店に入ってしまったようなのだ。まさに泣きっ面にハチ、弱り目に祟り目、貧すれば鈍す、慌てて便所に行ったら清掃中の看板、という状況である。