みちのく二人旅

輝け金色堂

 千葉菊に圧倒されつつ、ここでのメインイベント金色堂にたどり着いた。
 さすがに寺は商売上手。メインイベントに至ってようやく拝観料を要求する。ここまで登ってきて、金色堂を見ずに去るわけにはいかないだろうから、ほぼすべての人が払っているに違いない。首里城正殿には入らなかった我々ながら、ここでは当然のように拝観料を払った。隣りの宝物館とあわせて
800円。ちょっと高いぞ。

 中尊寺金色堂。
 あらゆる旅行ガイド、パンフレットに載っているのがこの金色堂だ。
 でも目にする写真はたいてい外観で、いったいどこが金色なの?といいたくなる。
 実はこれは覆堂
(さやどう、もしくは、おおいどう)といって、本体を風霜による腐食から守るために丸ごと覆っている建物なのである。
 現在の覆堂はコンクリート製だが、本体を覆うようになったのは近年に入ってからではない。鎌倉時代、風雨にさらされつづける堂を見るに見かねた時の政府が覆いを作ったという。もちろん当時は木造だが、その後昭和40年に現在の覆いができるまで、実に600年余もの間、雨にも負けず風にも負けず金色堂を守りつづけていたのだ。

 誉れ高きその旧覆堂は、すぐそばに移築されてひっそりとたたずんでいた。金色堂自身もさることながら、覆いにすら風韻がある。単なる覆いが重要文化財に指定されているのもうなずける。

 いよいよ金色堂である。
 コンクリート製の建物の中に入ると、まさに全身金色のお堂があった。
 まさに「光堂」だった。
 まるでコアラやパンダの飼育ケージのようにガラスに全面覆われながらも、輝きを周囲に放ち、見るものを圧倒する。
 この金色の堂が、覆いも何もなく、木立の中木漏れ日にあたっている姿はこの世のものとは思えないほどの眩さであったろう。

 金色堂を見ると、ついついこの金箔の輝きに目を奪われがちだけれど、その内陣の装飾にこそ目を見張るべきものがある。なかでも螺鈿細工。これほど豪華な螺鈿は見たことがない。
 螺鈿細工の歴史についてはまったく知らないが、別系統で世界各地にその技法があるらしい。日本には奈良・平安の頃に中国経由で技術が導入されたといい、各地の国宝や重要文化財などにも多数螺鈿があしらわれているものがある。

 が、この内陣の装飾ほどにものすごいものが他にあるだろうか。
 使われている貝は夜光貝(ヤコウガイ)だそうだ。サザエのお化けみたいな大きな貝である。
 当時も今も、ヤコウガイは琉球以南でしか獲れない。これだけの螺鈿を施すのに、いったいどれくらいのヤコウガイを必要としたのだろう。
 当時の粋を集めた工芸技術もさることながら、こういった材料だってやすやすとは手に入らないシロモノなのである。それだけ考えても、奥州藤原氏の並ぶ者なき栄華のほどを窺い知ることができる。
 そのほか、象牙やアザラシの皮など、平泉では獲れないはずのものがいくらでも流通していたようなのである。当時の奥州の可視範囲は、相当広かったに違いない。 

 それにしても、不信心な僕たちからすれば、金色堂に限らず、なんでこんな堂塔伽藍に贅の限りを尽くすのだろうか、というフシギな気持ちを持たずにはいられない。莫大な金をかけてお経を輸入したり、ただの彫刻に国が傾くくらいの財をなげうったり。そもそも平泉自体が「仏都」と呼ばれる都市だったのだ。仏都ってなに?

 当時の貴族の間では、寺を建てたり仏像を作ったりするのが流行っていたのだ、と言ってしまえばそれまでだろうが、やはり当時の人々の暮らしを味わわない限り、これを理解するのは不可能だろう。
 今と違い、絶えず見えない不安が満ち満ちた世界に住んでいる人々にとって、頼るものとてない世の中の一筋の光明のごとく、それでいて力強く鎮座している寺社仏閣は、多くの人々のエネルギーの源になったに違いないのである。鎮護、鎮魂、とにかくあらゆるものを鎮めたまう力こそが当時の仏教だったに違いない。そして、往生、すなわち往きて生きると表現された死後の世界こそが素晴らしい、と信じることで、あらゆる人々が救われていたのである。
 八百万の神々と共に暮らしていた人々からすれば、仏などというのは当初は相当胡散臭かったことだろう。しかしこれほどまでに文明のきらめきを見せつけられれば、神々に比べてよっぽどハイカラに見えたに違いない。

 そう考えると、浄土を演出する数々の仏教建築の意味も、この地にかけた藤原清衡の気合もいろいろ理解できるような気がするのである。

 それにしては、金色堂はその絢爛豪華な装飾のわりに、ずいぶんささやかなサイズであるように思える。
 今はないが、丘陵上にそびえ立つ二階阿弥陀堂は、この地を訪れた頼朝でさえ度肝を抜かれたというほどに壮大な建築だったらしい。関山にそびえる堂塔伽藍はどれもこれも目を見張るほどだったのだ。
 それなのに、この金色堂はささやかである。
 清衡自身が死後住まうべき浄土として作ったというから、謙虚に小さくしたのかもしれない。
 ということは、子孫までがそこで弔われるとは思っていなかったのだろうか。
 だってそうでしょう。
 たまたま三代
(泰衡を入れれば四代)で滅んだから、ミイラ化した遺体を入れた棺は三つですんだけど、徳川将軍家のように十五代も続いたらどうしていたのだろう。
 「あー、もう入らんがな、そろそろ一族滅んでくれな困るで」
 ということになってしまうではないか。

 深く考えてみると、このサイズが、なんだか奥州藤原氏の限界だったような気がしてならないのである。
 物理的な力だけなら、軽く中央を凌駕した時代もあったであろう。一般に源平の争乱と言われる時代、風雲に乗じたらあるいは藤原氏の天下になっていたかもしれない。
 なんでそうしなかったのか。
 できなかったのである。
 物理的にではなく、精神的に。
 都の人々から蝦夷と呼ばれ蔑まれた人々の複雑な精神を受け継いでいたからこそ、最大のチャンスを逃してしまったのではなかろうか。

 中尊寺の落慶供養の願文には、清衡が自ら「俘囚の上頭」と名乗っている個所があるらしい。
 俘囚とは、中央に帰属した蝦夷のことである。
 いわれなき差別を受け虐げられつづけた人々である。
 これは単なる謙遜だろうか。
 願文には、伽藍の建設によって、いわれなき蔑視を受けてきたこの辺境の地を浄化し、同じ人として対等の扱いを受けるように、とまで書かれてあるそうである。
 ミイラ化した遺体の調査では、骨格的には東北人よりも京都の人間に近かったという藤原三代ではあるけれど、その精神には脈々と蝦夷と呼ばれた人々の血が流れていたのだろう。
 ひょっとしたら、
 「どうだ、俘囚の力もすごかろう!!」
 という気合をにじませているのかもしれない。
 金色堂が放つ輝きには、喜びも悲しみも含まれている気がした。

 いつの間にか空は一段と暗くなり、今にもポツリポツリと降ってきそうな気配。五月雨は金色堂に似合うかもしれないが、氷雨はなかなか辛いものがある。
 下りも、途中のお堂を立ち寄りながらゆっくりと降りた。
 結局、この地を訪れた芭蕉の感動の千分の一くらいをキチンと味わえたのかどうか。
 紅葉がきれい、千葉さんが多すぎ、とか、そういったことの方に興味が行ってしまう自分を止められない。
 ふもとの駐車場にあるトイレに行くと、
 「さわやかトイレ」
 と書かれてあった。やはり作りは和風である。たしかにトイレの中はきれいだったとはいえ、さわやかもなにも、トイレはトイレだろうに。
 と思うのだが、このあたりにも平泉町の気合があるわけである。清衡が「仏都」として平泉を全国区にしたように、現平泉町は「街並み」で全国区に踊りでようと努力しているのだろう。