水納島の魚たち

クロハコフグ

全長 15cm

 ダイビングを始めて間もない方にとっては、海の中で出会う生き物のほとんどすべてが非日常クリーチャーだ。

 とはいえ魚だけでも、ダイビング中に出会ったものをいちいち全部覚えてはいられない。

 そのためすでに135回くらい出会っているにもかかわらず、出会うたびに同じ魚を「あれは何?」と指さす方もいらっしゃる。

 そのような「陸に上がると忘れる魚」がたくさんいる一方で、なかには形状、色柄、行動のいずれかもしくは全部が、とっても印象に残る魚もいる。

 このクロハコフグも意外なところで印象派で、ダイビングを始めて間もないゲストから、ログ付けの際に「あの魚は何?」という質問をちょくちょくいただく。

 ログ付けの頃まで覚えているというのは、相当な印象派といっていい。いや、覚えていたヒトが、じゃなくて、覚えてもらっていた魚が。

 印象には残ったもののゲストご自身は正体がわからないため、記憶に残っている色柄形の説明を聴くことになるのだけれど、クロハコフグの場合はすぐさま正体がわかることが多い。

 奇抜な↓この体色のなせるワザなのだろう。

 ただしそれはオスの場合。

 メスはこんな色をしている。

 オスメスともに岩肌に付着している動物や藻類などを食べているらしく、ちょくちょく岩肌にブチュッと口をつけている。

 よく観るとヘンテコな口は、こういう食事方法に適しているのだろう。

 ところで、ハコフグ類はメスからオスへ性転換する魚だそうで、メスとオスとで色柄が異なるのはミナミハコフグと同じ。

 ただしミナミハコフグは幼魚とメスではまったく異なる色柄なのに対し、クロハコフグは幼魚の頃からメスと同じような体色をしている。

 今のところ人生最小記録は3cmほどながら、これより小さいサイズでもドットは同じように細かいようだ。

 ちなみに、やはり尾ビレは折りたたんで泳ぐことが多い。

 このチビはチビでシアワセの黄色いサイコロとはまた違う可愛さがあるけれど、むしろクロハコフグの場合はオトナのオスが目立っているくらいだから、印象派という点ではチビターレが表舞台に出る機会はあまりない。

 印象派のオスは、派手なくせに日中は後ろを気にしながら恐る恐るといった感じで泳いでいる。

 ところが水温の高い時期なら、夕刻になるとその様子が変わる。

 やけに活発になり、やたらと遠くまでフラフラと泳ぐようになるのだ。

 アテもなく徘徊しているわけではない。

 オスはその縄張り内にメスを複数囲っており、繁殖時期の夕刻になると、縄張り内のメスを訪ねまわるのである。

 このときクロハコフグのオスは、底からけっこう離れたところをピコピコ泳ぎまわる。

 ベラなどのスマートな魚たちとは違い、あくまでもハコフグなので、泳ぎ回るといってもなんだかゼンマイ仕掛けのオモチャのようで、よくもまぁそんな泳ぎで広い縄張りを巡回できるなぁと感心してしまう。

 もっとも、ミナミハコフグ同様体表から強烈な粘液毒を分泌する防御手段を有しているだけに、どんくさい魚見っけ…とばかりに襲い掛かるバカな魚はいない。

 オスの模様が派手なのは、おそらくこういう場合に活かされる「警告色」なのだろう。

 実際、日中サンゴの近くにいるときに比べ、巡回するときの体色は青味が強くなって、遠目には光沢感があるように見える(気のせいかも…)。

 興奮色なのだろうか。

 ゼンマイ仕掛けピコピコ泳ぎではあるものの、日中のオドオド感がウソのように、中層でアピールしまくりながら泳ぐオス。

 彼が見事彼女のハートをゲットすると、オスは彼女をエスコートしながら(オスがメスの背中に口をつけてくっついた状態で)仲良くランデブーし、上昇しつつ中層で産卵・放精に至る。

 四半世紀以上昔、我々の同級生が結婚するに際し、某有名海洋写真家が贈った写真がたしか、そのクロハコフグの仲睦まじい産卵エスコートシーンだったような記憶が……。

 プロはそうやってちゃんとチャンスを逃さず写真に納めるのに、ワタシはただボーッと観ているだけなのだった。

 追記(2020年5月)

 夕刻から日没前後にかけて産卵行動を見せる魚たちは多く、その時間帯の魅力はもちろん知ってはいるものの、その時間も潜っているとタンクのチャージは間に合わない、夜の酒にすべてをかけて手すぐね引いて待っているゲスト…などなどモロモロの事情があるために、無沙汰を余儀なくされている。

 ところが今年(2020年)の春は、コロナ禍のために経済的には厳しくとも、魚たちが活発になり始める「いい季節」に時間も心の余裕もたっぷりあるという、例年じゃ考えられない日々を送ることができている。

 おかげで普段のシーズン中ならおよそ考えられない時間帯に潜りに行くこともできた。

 もっとも、沖縄の5月は日の入りが午後7時過ぎだから、午後5時出発だとまだ海中は明るく、魚たちは活発ではあるものの、クロヘリイトヒキベラがそれっぽい行動をしている以外は、あまり繁殖行動チックな様子が観られない。

 ところがそれから小一時間ほど過ぎると、オジサンなどのヒメジ類が盛り上がってきたかと思えば、リーフエッジ付近のハナゴイのオスが、日中はまず見せないメスへの猛烈アピール泳ぎをし始めた。

 ヤマブキベラのオスがメスを誘うような動きだったから、これは産卵行動間違いなしだろう。

 それを観ていようかな…

 …と思ったその時。

 活発にメスを勧誘中のクロハコフグのオスの姿が。

 縄張り内のメスを巡回すべく、海底や岩肌から離れてプカリと浮きつつ、不器用そうにヒレをハラホロヒレハレと動かして泳ぎ始めるオス。

 そして盛り上がっているメスがその気になると、メスも海底から離れ……

 デートが始まる。

 かつて観ているだけで終わっていたシーンが、今目の前に。

 この時オスは必ずメスの上側にいて、メスの気分を盛り上げつつ、上へ上へと誘う。

 でも慎み深いメスは一度や二度のアプローチでホイホイと最後まで達することはなく、まるでオスを焦らすかのようにスッと身を引き、下方に針路変更してしまう。

 その際、ムード盛り上げ楽団的に懸命なオスは、なんだか誘い文句をつぶやいているような感じで口元をメスの背中に当てながらメスの気分を盛り上げようとする。

 それでメスが再びその気になって、上昇に転じてくれればいいのだけれど、そうは問屋が卸さない。

 メスがその気になりかけては……

 その気を失い…

 また盛り上がっては……

 まだダメェ……

 …を繰り返すメス。

 この「まだダメェ…」のあともなお2人は一緒にいるわけではなくて、いったん気分が盛り下がるとメスは海底に降り、オスは宙に浮いたまま状態で離れ離れになる(水平方向にもけっこう離れる)。

 そこからまたメスを誘うハレホロヒレハレ泳ぎを再スタートさせなければならないオスは、実はこの間ずっと大変なのだ。

 メスから「せっかちねぇ…」なんて声が聞こえてきそうなシチュエーションながら、ワタシにはオスのキモチが痛いほどわかる。

 というのも、すでにエントリーから70分が経過しており、オタマサはとっくの昔にボートに上がっている。

 いつもだったらたとえ遊びで潜っていても、70分くらいが限度というのが暗黙のルールになっているため、ルール違反状態のワタシとしては、一刻も早くメスにその気になってもらいたいところなのだ。

 ああ、でもさすがにこれ以上遅くなると、オタマサがボート上で鬼の形相になっているかもしれない。

 …と諦めかけたその時。

 再び盛り上がったメスの目つきがこれまでと違っていた。

 その上昇角度も、これまでとは比べ物にならない。

 そして2人は、昇る昇るグングン昇る。

 どこまで上に行っちゃうんだ??

 …と思ったその時、

 メスの上にいたはずのオスが姿勢を変えた。

 これは!!

 産卵だ!!

 同じように見える2枚の写真、でも下の写真ではオスとメスの間にツブツブが見える。

 ベラ類だと上昇したペアの産卵放精は一瞬で終わるけれど、クロハコフグはここに至るまでの道のりが大変だったからなのか、これまた実感5秒以上はこの姿勢のままでいた。

 その間産卵&放精。

 卵がどんどん広がっていく。

 この姿勢をキープしていた2人は、やがて産卵を終えると再び海底に降りて行った。

 いやあ、いいものを見せてもらった。

 このいい季節にこうして初めてクロハコフグの産卵を目にすることができたのは、かえすがえすもここまでヒマなおかげ。

 新型コロナよ、ありがとう。

 追記(2023年6月)

 コロナ禍中に通常営業を終了したおかげで、コロナ禍がひとまず終了してもヒマになった。

 サンセットダイビングのチャンス!

 小型ヤッコ類の産卵シーン目当てだったのだけど、いささかエントリー時刻が早すぎ、まだ明るい海中ではクロハコフグが俄然やる気モードになっていた。

 せっかくだから、クロハコフグの産卵シーンを動画で撮ってみよう。

 …と思い立ったはいいものの、上記にて紹介しているように、メスの気分が最高潮に盛り上がるまで、オスはあっちのメス、こっちのメスを相手に何度も何度もハレホロヒレハレ泳ぎを繰り返していて、その都度ワタシは動画を撮りながら行ったり来たり。

 その果てに、ようやくメスの気分が最高潮に達した。

 動画の最後のほうで、Vの字を横に寝かせたような状態で静止している時間帯に、産卵・放精しています。