写真・文/植田正恵

116.ジュウルクニチ(十六日祭)
月刊アクアネット2013年1月号

 

 毎年117日になると、島のおばあたちから、サーターアンダーギーや天麩羅、豚肉の煮物など、いわゆる仏壇に供える系の様々な食べ物をいただく機会がある。

 引っ越してきたばかりのころは、たまたま何かが重なっただけなんだろうと思っていた。
 ところがそれが毎年のことなので不思議に思い、水納島よろず質問所(と私が勝手に決めている)の船員さんに伺ったところ、「
116日は後生の正月だからだ」ということだった。
 そう聞いてもなんだか分かったような分からないような…。

 その後立て続けに島のお年寄りがあの世に行ってしまった。
 すると小さな島のこと、血縁でもなんでもない私も法事に出席することになるので、そっち方面の知識が自ずと入ってくる。

 そこでようやく、後生(ぐそーと読みます)の正月とはあの世の方々のお正月で、本来は旧暦の1月16日がその日にあたり、県内では広く「ジュウルクニチ」と呼ばれる祭事であるということを知った。
 水納島では祭事を新暦でおこなうから、この後生の正月も新暦の
116日になる。

 あの世にいらっしゃる方々があちらでにぎやかに過ごすためのお供え物は、16日が過ぎると仏前から下げるのだけど、とてもじゃないけどご家庭だけで消費できる量ではない。
 かといって隣近所はみな同じようにお供えしているから、近所に配るというわけにもいかない。そこで後生の正月とは無縁の我が家に廻ってくるわけだ。

 このお供え物は、気軽に本島に行き来できる今でこそ普通に見えるかもしれないけれど、昔なら小さな島では普段とても用意できないようなご馳走のオンパレードだ。
 食材を用意するだけでも大変、そしてそれらを大量に調理するのも大変。そんなメニューの数々が、惜しげもなく仏前に供えられるのである。

 そういったご先祖様に関する様々なことを簡略化する傾向は、近頃はどこでも同じだろう。たしかに、普通に仕事をしていたら、すべての行事法事を昔のしきたりどうりにこなすことは不可能だ。
 だからといってひとたび「簡略化」がフツーになると、それがますます簡略化されることは必至である。やがては、そういった節目に親族が集まり、仏前や墓前で手を合わせることすらまったくなくなってしまうかもしれない。

 先祖を敬う様々なシキタリは、今風の効率優先的考え方に照らせば、どれもこれも「ムダ」に思えるもののほうが多い。
 でもそういう無駄に見える様々なことの中に、人が人として生きるためのとても大切なことが数多く含まれているように思えてならない。

 水納島では後生の正月に限らず、日々の暮らしの中で、お彼岸、お盆といった節目節目で、当たり前のようにきちんとお供え物をし、お墓参りをして、ご先祖様を敬っている。
 その姿勢が子や孫にそれとなく伝わるのはもちろん、よそ者の私にまで伝わってくるのだ。

 情けは他人のためならずというけれど、ご先祖を敬う心だって、結局は自分自身に何かを人知れずもたらしてくれているに違いない。

 昨春に相次いでお星様になってしまったおじいとおばあにとっては、今月16日が向こうの世での初めてのお正月になる。
 この地に先祖はいない私だけど、もし例年のように翌
17日にお下がりを頂戴する機会があれば、ただ美味い美味いとほお張るだけではなく、あちらの世のみなさんに思いをはせながら、共に味わうようにいただこうと思う。