写真・文/植田正恵

146.神 域
月刊アクアネット2015年7月号

 近頃沖縄観光ガイドブックなどを見ていると、パワースポットという言葉をチラホラ目にするようになった。

 沖縄の神域を軽々しく「パワースポット」などと呼んでほしくはないところながら、沖縄本島におけるそのパワースポットの本家本元といえば、斎場御嶽(せーふぁーうたき)である。

 今でこそグスク群と絡めた世界遺産になっているけれど、私が学生だったころは観光地としてはなんの整備もされておらず、あくまでも聖地であり、そういった所の常として神域には鬱蒼と茂る木立があるだけだった。
 もとより沖縄の古神道に興味があったわけでもなし、そもそもそこへ赴いたのは天然記念物のクロイワトカゲモドキの観察が目的だった私だから、そういうことでもなければ訪れる機会はまずなかったことだろう。

 それが現在は立派な駐車場も整備され、入場料(併設されている資料館の入館料)も必要になり、毎年大勢の観光客が訪れる一大観光地になっているから驚きだ。

 沖縄は地域ごとに御願所があって、その地域の方々の聖域になっている。
 そして聖域であるがゆえに、そこに生える木々も大切にされるから、樹齢数百年といった大木や、他所ではあまり見られなくなってしまった草花が今もなお残っていることも珍しくないため、生物学的にも貴重なゾーンなのである、と学生の頃に教わったことがある。

 水納島にも神聖とされる御願所が島内に何箇所かある。
 そこは毎年数回、島民によって清掃され常に神域として美観が維持されており、お正月には男性陣がお供え物を持って一年の平穏をお願いするのがならわしだ。

 そうやって作法を心得たヒトが拝む分にはいいのだけれど、近頃のパワースポット流行りのせいか、島外の方々もときおり御願所めぐりをしているらしく、ときとして礼にかなっていない方法で何かがなされていることもある。
 普段極めて温厚なおばあがそれを目にするや、神様に失礼だろうと激怒することがあるほどだから、流行りといっても無闇にヒト様の聖域に入り込まないほうがいい。

 ところがパワースポットの流行は、沖縄各地の御願所を紹介する御願所めぐりの本まで世に出るまでになっている。
 水納島のような小さな御願所はまだしも、斎場御嶽ほどビッグネームになると、もはやそこは単なる観光地のひとつとして観光客に受け取られているように見える。
 すなわち、大勢でわいわいがやがやと訪れ、作法も礼儀もあったものではない状態で域内を歩き回る人々が増えているようなのだ。

 なかには神聖な香炉の上に乗って写真を撮る輩まで出現したり、祈りを捧げている地元の人々を無断で撮影したりする非常識な観光客が後を絶たないという話もあり、地元では昔ながらの男子禁制を徹底しようという対策も考えられ始めているという。

 神域で問題視されるマナー違反をしてしまう方々は、「パワースポット」にいったい何を求めているのか、まったくもって理解に苦しむ。
 パワースポットの「パワー」には「罰」という力もあるということを知らないのだろうか。

 ガイドブックや観光情報ウェブサイトなどでの軽いノリの紹介の仕方にも問題はあるのだろうけれど、その地域に住まう人々に対するリスペクトの根本的な欠如がそもそもの原因なのかもしれない。

 自分自身も非常識な観光客になってしまわないよう、水納島の御願所を訪れるたび、気持ちを引き締めるのだった。