写真・文/植田正恵

46.最後の(?)卒業式
月刊アクアネット2007年3月号

 身の周りに当たり前にあるもの…というのは、おうおうにして、ある日ふと突然になくなってしまう。当たり前だっただけにその喪失感や驚きは大きく、失うとき初めてまぶしかった時を知ることになる。

 近頃は、帰省するたびに周囲が変わっていることに気づく。
 学校から帰ってくると必ずどこかで生き物たちと戯れていた子供の頃の私の縄張りは、今では見る影もない。キリギリスを捕った野原は宅地に、オタマジャクシが泳いでいた湿地は道路に、ホトケドジョウのいた小川はコンクリートに変わっている。かろうじてイシガメだかクサガメをよく見かけた沼地が一部残っているけれど、これもなくなってしまうのは時間の問題だろう。

 この春水納中学校から1人の生徒が卒業する。
 卒業式は父兄親類縁者に限らず島民全員参加で盛大に行われるのだけれど、時間的には短い。なにしろ例年卒業生はたいてい1人で、我々が出席した過去数度の卒業式では、最多で3人だった。
 その代わり小規模のおかげで1人1人が答辞を述べるし、出席者はそれを家族のような気持ちで聞くことができ、もちろんPTA会長も送辞を読む在校生代表も校長も教頭も卒業生をよく知っているから、それぞれの挨拶には本当に心がこもっていて、会場も一体となって感動するためにとても心温まる卒業式になる。

 卒業とともに島から出て行くことになる子供たちの顔は、未知の世界への不安をかき消すぐらいの希望に満ちている。在学中は生徒会長も学校代表も、部活の部長も全部ほとんど1人でこなさなければならず、そのうえ授業はほぼマンツーマン…という世界からの卒業である。うれしくないはずはない。
 このうれしそうな卒業生の顔を見て、島民たちは口々におめでとう、頑張れよと言いつつ、同時に一抹の寂しさを感じるのだ。

 そんな中学校の卒業式が、今年で最後になってしまうかもしれない。
 もともと現在中学生は卒業生ただ1人で、あとには5年生を筆頭とする小学生しかいないため、来年度の水納中学校は休校になってしまう運命にあったのだけれど、さらには水納島が属する本部町の財政事情による小規模学校の統廃合が推進されており、水納中学校は本島の中学校に統合されるというのが規定路線になっているのだ。

 今まで何の疑問も抱かず、中学校が島にあるのは当たり前と思っていたけれど、なくなりそうになって、改めてその重要さに気づかされる。中学校進学時から島外に出なければならないのだったら、本島に家があったほうが便利なことは間違いない。そうなればこれから先、島で子供を育てようとする人が住むようになる可能性は低くなり、今後水納島は過疎化高齢化が加速度的に進むはずだ。

 やがては中学校がないという状況が「当たり前」になる日が来るのかもしれない。そうすれば島民は懐かしく水納中学校を思い出すことだろう。お役所の机上の計算ではけっして顧みられることのない、強い喪失感とともに。

 市町村の財政事情による合理化策というのは、そもそも誰のために行うのだろうか。学校の統合が町の財政事情改善の一助となったとして、町民である島の人々の誰が幸せになるというのか、一度じっくり聞いてみたい。