写真・文/植田正恵

62.透明な水の中に
月刊アクアネット2008年7月号

 水にまつわる幼い頃の思い出を持っている人は多い。
 それは、近所の海や川や湖で遊んだことだったり、スイミングスクールや学校のプールで泳いだ思い出だったりと、住んでいる環境によってそれぞれであろう。ときにはステキな思い出というよりは、「死にかけた…」といった恐怖体験だったりすることもあるかもしれない…。

 私の水にまつわる思い出といったらそれこそたくさんあるけれど、実家から徒歩3分の距離にあった川がらみの記憶がやはり濃厚だ。
 さして大きな川ではないものの、魚を採ったり、ザリガニやタイコウチを探す絶好のフィールドで、子供にとってはけっして飽きることのないワンダーランドだった。

 そんなよく通っていた川ではあっても、場所によっては背の立たない深みもあり、そういう所は子供心に近寄ってはいけないところ、と認識していた。
 たとえ背の立たないところで泳げる能力があっても、底の見えない淀みは、なんだか河童に足を引っ張られそうで怖い、と本気で思っていたからだ。
 そう、深いところ=怖いところだったのである。

 沖縄の大学に進学し、そこで亜熱帯の海を初めて覗き見た私は、その青さも砂の白さもさることながら、はるかな底まで見えるということに驚いた。
 そして何の因果かダイビングクラブに入部して、初めて水中マスクをつけて覗いた海の中は、透明な水の中に、想像をはるかに越えるカラフルな魚たちが泳いでいる楽園だった。

 その後半年くらいで、水深10メートルくらいまで素潜りで行けるようになった。
 水面から海底が余裕で見られるから、昔遊んだ川の淵のような怖さがまったくないのだ。それどころか、海底付近で泳いでいる魚を水面から見つけて、そこまで潜っていくということさえ可能なのだった。こんな透明な海は最高だ!

 ……と感動していた頃から20年経った。
 今、その透明度は格段に落ちている。世の中が便利になる裏で、密かに、しかし着実に失われていくものもたくさんあり、海の透明度というかけがえのない財産もまた、人知れず過去とは違う姿に移ろい変わっているのだ。

 海の透明度なんてものは、実際に海中に入ってみないと実感できないものだから、世の中のほとんどの方にとっては身近なものではなく、いわば月の裏側の絶景と同じくらい無価値なのかもしれない。
 けれど、海に飛び込んだときに味わえる「透明」であることの素晴らしさは、やはりいつの時代であっても、いつでも誰でも味わえるものであってもらいたい。それがあってこそ、海の大切さを心に刻むきっかけになるに違いない。

 昔ほどではないとはいえ、水納島では今でも桟橋の周りですら透明で、桟橋から普通に海底を覗き観ることができる。初めて来島されたお客様は、連絡船から降りてすぐ、まずそのことで驚きの声を上げることが多い。

 本土の海を初めて見た沖縄出身の友人が
 「あれは海ではない。何であんな汚いところに入って泳いでいるのか、信じられない」
 といっていた。透明な海の価値なんて、汚い海を目にしなければ気づけないものなのかもしれない。

 夏になれば毎日のように桟橋から海に飛び込んでいる島の子供たちも、大人になれば、子供の頃のステキな水の思い出として、あの日あの時の島の海を懐かしく思い出してくれることだろう。