写真・文/植田正恵

75.島んちゅぬ宝
月刊アクアネット2009年8月号

 

 週末に雑貨屋さんで店番をしていると、パタパタという足音とともに、「まさえさん、来たよー」と元気よく水納小学校の児童が顔をのぞかせることがある。
 私は「また来たな、ヒマ人」と軽口をたたいて迎えるのだが、彼らはお店が忙しくないと見るや、30分ばかりゆんたくして帰ってゆく。どうやら、「なにしよっかなぁ……そうだ、植田さんのところに行ってみよう!」ということになっているらしい。

 引っ越してきたばかりの頃は、ときおり我が家にやってくる子供たちに実際のところかなり閉口していた。下は3歳くらいから上は小学校高学年までの子が、数人単位で何の前触れもなくやってきては、家の中を走りまわったり、漫画を読み出したり、まるで自分の家のようにくつろいでいるのだ。
 それも子供だけでやってきて、親は我が子がどこにいるのかまったく感知せず。はじめの数年は週末ごとに、いつ子供たちの来襲があるかとヒヤヒヤしたものだった。

 ところがそれから10年以上経った今現在の児童といえば、我々はその子が産まれたときから見ているわけで、その生い立ちから性格、好みまでかなり知っている。家族というほどまでの親密さはないものの、まったくの他人というほどには距離がなく接しているのだ。
 そのため我が家の中で何かしていてもあまり気を使わず、むしろ本気でしかることもできるし、彼らが興味を持ち始めたことを、もっと教えたい、能力を伸ばしてあげたい、と思うように変化してきた。

 水納島の人たちは、おそらく昔からそんなふうに島の子供たちと接してきたのだろう。島全体が大きな家族のようなもので、子供といえば島の宝。小さな子供たちが子供たちだけで行動しようとも、島の誰かが見ていてくれる安心感があるのではないだろうか。

 実際、3歳の子供が観光客の人を連れて、我が家の庭の動物たちを見せていたこともある。越してきたばかりの頃の感覚では、そんな小さい子が一人で出歩くというだけで驚きだというのに、そのうえさらに知らない人と一緒に、となると驚異の世界で、おまけに他人の家の庭を案内している、となればそれはもう未知との遭遇レベルだった。
 ところが今ではすっかり当然のこととして受け入れている。連れてこられた観光客の方が、多少の戸惑いを禁じえないって感じのようだけれど。

 水納島のようなところで暮らしたい、とかつて遠い目をして憧れていた理由のひとつに、自然の中で子育てをしたいという思いも大きなウエイトを占めていた。残念ながら思惑とは反対に自分の子供には恵まれなかったけれど、島の子供たちがいるおかげで、おいしいとこ取りの、プチ子育てを体験できているような気もする。そして子供たちが育っていくには自然も大切だけれど、地域の人たちの存在がとても大きいということをあらためて実感している。

 島の子供たちが「なんかつまんなーい、DSをしよう」ではなく、「植田さん家へ行ってみよう」と思ってくれるのが今では嬉しく感じられる。そして大きくなってから、「島のはずれに動物好きな変なおばさんがいて、時々遊びに行ったよなあ」なんて思い出してくれたらいいなと、ひそかにささやかに夢想しているのだった。