写真・文/植田正恵

83.もったいないおばさん
月刊アクアネット2010年4月号

 

 私は「もったいないおばさん」だと自覚している。小さい頃からモノを捨てるのが不得意で、いまだに中学生のときのジャージを持っているし、小学生の頃から使っているお裁縫箱も現役だ。いただいたお菓子の箱やリボンなど、取っておいてもそれどうやって使うのよ的なものすらなかなか捨てられず、5年に一度くらい整理するとものすごい量になっていて、我ながら唖然としてしまう。

 そんな私にとって水納島が居心地いいのは、他の皆も同じように、物を無駄にしない生活を自然にしているからだろう。農業をしている人からすれば当たり前のことだろうけれど、牛を飼っている家では牛の糞は畑の肥料になり、その畑で育った野菜は人間の食べ物になり、余った葉や皮などはまた牛の餌になっている。メロンを作っていた農家では、間引いた実を漬物にしていたし、小中学校の島民参加型調理実習で豆腐を作ろうということになれば当然のように、そのとき出るおからでもう一品作ろうということになる。

 今のように自動車を気軽に持ち運び出来なかった当時は、使えなくなった車を目立たないところにやむなく放置していた。その車たちは、朽ち果てるより速いスピードで、まるでバクテリアが分解していくかのごとく小さくなっていく。何かに使えるような部品を、皆がそれぞれ持ち去っていくからだ。何を隠そう我が家の座椅子は、運転席のシートである(どんなに立派な市販の座椅子よりも丈夫なのでオススメ!)。その他、選挙ポスター掲示板がいつの間にか倉庫の扉になっている、などということもザラにある。

 最近のエコブームに乗って、リサイクルが流行っている。スーパーの入り口に設置されている回収ボックスに食品トレーや牛乳パック、ペットボトル、を入れている方も多いことだろう。こういったリサイクルという考え方は素晴らしいとは思うものの、使用一回きりで終わらせてしまうなんて、それこそもったいない。少し前の日本であれば、様々な容器などは、洗ってまた使うのが当たり前だったのに…。

 現代社会にくらべると、昔の人たちの生活はよほど「エコ」だったとよく言われる。しかしそれは結局のところ、当時はモノがなかったし、あってもやたらと高価だったからに過ぎない。工夫や労力で解決するよりもモノの値段の方が安い今、わざわざしんどいほうを選ぶ人はいない。

 そういう意味では私の「もったいない」も、那覇あたりに住んでいたらそれこそまったくの無駄になるかもしれない。けれど水納島のようにモノがない場所では、意外に効力を発揮するときがあるのだ。何かの拍子に箱が要るとき、リボンが要るときなどなど、すぐそこの店で買ってくる…なんてことができない島内では、もったいないおばさんの秘蔵ストックが、ここぞとばかりに活躍するのである。

 そういうときはやや得意気になるもったいないおばさんも、唯一突っ込まれると弱いのが「お酒」だ。わざわざ内地から日本酒をケースで取り寄せるなどというゼータクはもったいなくはないのか、と言われるとグゥの音も出ない。でもまぁ、何はなくとも酒だけは……。これについても島民の大多数と意見が一致しているので、わたしにとっての水納島は、より一層居心地がいいのかもしれない。