写真・文/植田正恵

99.なにものかおわします
月刊アクアネット2011年8月号

 

 なにもののおわしますかは知らねども…
 という感覚を、最近とみに感じるようになっている。宗教にはまったわけではけっしてなく、ただただ森羅万象すべてに、侵すことの出来ない大きな力のようなものがあるような気がするのだ。齢のせいだろうか??

 水納島に引っ越してきて数年がたった頃、「御願所(うがんじょ)の掃除をするから来てね」と声がかかった。
 御願所とは沖縄各地域ごとにある神聖な場所で、水納島には井戸2箇所、祠3箇所の計5箇所あって、その周りを婦人部で掃除するのである。

 その後毎年参加するようになった御願所の清掃は、台風などで倒れた木を除去するといった大掛かりな作業がないかぎり、たいてい年に3回、女性だけでやる仕事だ。
 島の神事系担当のおばあが祠に向かって、「これから掃除をします、少しお騒がせします云々…」というようなことを、実に厳かに祈るところから掃除は始まり、祠や井戸の周りの雑草や落ち葉を、鎌と竹箒でせっせときれいにしてゆく。
 私が越してくる以前から何十年もの間、主要メンバーはほとんど変わっていないため、作業時における指示など一切ないのに、みながそれぞれ役割を全うして、あれよあれよという間にきれいになっていく。いつも決まった順番で5ヶ所を回り、だいたい2時間くらいかけて終える。

 声を掛けていただいた当初は、「面倒くさい」と思うこともあった。それが10年以上続けてやっていると、掃除をしながら様々な年代の人から聞く、井戸や周りの木々の思い出話が面白いことも手伝って、そろそろ掃除しないと…と考えるくらいに変化してきた。

 その御願所のひとつである井戸の石組みが、老朽化して随分崩れてきたため、このたび修理しようということになった。井戸として使われなくなって久しく、それが無くなってもまったく誰も困るわけではない。なのに島の予算と手間をかけてやるのだという。
 10年前だったら間違いなく心の中で「そんなことしなくてもいいんじゃない」と思っていただろう自分が、なんのためらいもなく賛同していることにいささか驚いた。

 無神論者を気取りながら宗教を軽んじる傾向があった私のこの心の変容は、使わなくなってもなお感謝の気持ちを持って井戸の掃除を怠らない島の人々の姿勢に触れたからこそだろう。
 そして自然のなかに身を置いて生活していることによって、森羅万象にナニモノかの理を感じ、畏れ敬う思いが自然に沸いてくるようになったのだと思う。

 実際井戸や周りの巨木を見ると、自然と気持ちがピシッと引き締まる。それは、最近流行りの「パワースポット」という言葉で表されるものとは似て非なるものであるとも思う。

 井戸の修理に先立って、お隣の島から本職(?)の方が招かれた。「これから修理をするので少しお騒がせします」と、各御願所を回るのだ。
 それに参加させてもらったところ、あいにくその日は朝からバケツをひっくり返したような雨。井戸の修理のお断りをする日に大雨だなんて、神様怒ってるのかしら??これで御願所めぐりをするのは辛いなぁ…

 ……なんて思っていたら、なんとなんと、その御願所めぐりをしているほんの1時間ちょいの間だけ、雨が止んで薄日すらさすほどになっていた。
 その後ほどなくして、再び大雨に……。

 これはどう考えても…………やはりナニモノかがおわします。