H鶴ヶ城〜ああ、会津藩〜(3月9日)

 なんとか時間どおりに喜多方駅に戻ってきた我々は、再び電車に乗り、会津若松駅を目指した。
 このあたりの
JRのキャラ赤べぇが描かれた車両が可愛い。
 会津に来る前から、うちの奥さんお気に入りのキャラなのだ。

 

 鶴ヶ城に行くなら西若松駅が最も近い。
 けれど、そうすると会津若松駅で乗り換えなければならず、限られた持ち時間の中、乗り換えのための待ち時間がもったいなかったので、会津若松駅で下車後、タクシーで鶴ヶ城を目指した。

 会津盆地は広い。
 その広い盆地に都心のような高層ビルが建ち並んでいたりしない。おかげで、さして巨大城郭というわけでもない鶴ヶ城は、会津盆地に雄々しくその天守閣を広い空に聳え立たせていた。

 鶴ヶ城。
 戦国時代以降会津を治めた家は、葦名氏に始まって蒲生、伊達、上杉など有名どころだらけなのだが、現在復元されている天守閣は、徳川の世になって早々、上杉氏の後に会津を任された加藤嘉明の治世の頃に築城されたもの。つまり江戸300年の間の姿だという。

 加藤嘉明といえば、はて、どこかで見た覚えが……。
 そう、道後温泉へ行った際に立ち寄った、松山城もまた、彼の手による。
 伊予やら会津やら、時の権力者の都合であっちこっち引き回され、そのたびにお城を作っているのだから、封建社会に生きる大名というのも大変そうだ。
 おまけにこの加藤家は、嘉明の子の代で断絶。お家はあとに残っていない。樅の木が残った家はちゃんと続いたというのに(伊達家)、お城が残った家は途絶えてしまったというのも趣深い……。

 ここ鶴ヶ城公園では、この天守閣が博物館代わりになっていて、最上階の展望フロアまでの各階に、会津藩と会津の歴史にまつわる様々なものが展示されている。
 同じく近代になって復元された大阪城にはエレベーターがあるというのに、ここ鶴ヶ城天守閣はあくまでも階段を登らねばならない。
 僕はずっと、こんなところに住むなんて殿様も不便だなぁ、と思っていたのだけれど、天守閣とは別に「本丸」というものがあるということを最近知った。それはほぼ平屋作りである。なんと殿様たちは、その本丸にお住まいだったのだ。

 さて、入場料500円を払ってこの天守閣に入ってみると……

 さすがというかやはりというか、現在放送中のNHK大河ドラマ「天地人」にちなんだ展示が、今年の旬のようだった。
 3月現在の「天地人」では越後にいる上杉氏は、やがて秀吉によって会津に置かれることになる。
 そしてこの地にあって、家康を迎え撃とうとするのが直江兼続なのである(石田三成の動きに呼応してという説もある)。

 ま、上杉家は2年そこそこで米沢に行ってしまうし、そもそも上杉氏が会津に入ったときにすでにあった若松城はもっと小さいお城で、別の場所に巨大城郭を築こうとしていたくらいだから、この鶴ヶ城とはあまり縁が無いんだけど……
 …と言ってしまうと身もフタもないか。

 余談ながら、「なせばなる なさねばならぬ なにごとも ならぬはひとの なさぬなりけり」という有名な言葉を残した人は、米沢に移封された上杉氏の9代目の藩主上杉鷹山。ケネディ大統領やクリントン大統領が、最も尊敬する日本の政治家として名前をあげた人である(クリントンの場合ははケネディのパクリと思うけど…)。
 彼の何がどう優れていたのか詳しいことは知らないけれど、宿で食べた米沢牛はたしかに美味かった。<それって鷹山とは関係ないんじゃ??

 とにかく、そんなテレビの流行り廃りに関係なく、会津がここを訪れる人々に見てもらうべきは、やはり圧倒的に幕末の歴史でなければならない。

 2ページ目で書いた僕の拙い会津幕末史の主人公、松平容保とはこの人である。

 松平容保といえばこの写真、というくらい有名な写真だから、ご存知の方も多いだろう。京都守護職時代に撮影されている。
 このときの容保はまだ30にも満たない青年である。世が世なれば神々の頂に囲まれた会津の地で、健やかに平凡に藩主として過ごせたろうに……。

 鶴ヶ城は、この容保の居城だ。
 その天守閣からの眺めは見事だった。

 会津盆地は広く、雛を抱える親鳥のように、山々が優しく盆地を囲んでいる。
 11歳で会津松平家の養子となってからは江戸藩邸住まい、17歳にして藩主となるも、その後すぐにペリーの浦賀来航、そして時代は幕末へ……。
 子供時代をこの地で過ごしたわけではなく、長じてからも会津では席の暖まる間もなかったであろう容保が、この天守閣から城下を眺めたことがあったのだろうか。

 幕末当時、ここで暮らす者たちにとっての京都なんて、あまりに世界が違いすぎる。大してよく思わないことには「よろしおすなぁ」といい、ご飯をおかわりしたいときにはわざとらしく茶碗を裏返して「どこの焼き物どす?」などという京の都人を相手に、こんな雄大な自然に抱かれて育った人々が丁々発止と立ち回れるはずがない。
 慶喜や春嶽がこの風景を知っていたら、容保に京へ行けなどととてもいえなかったろう。けれどこの大地あったればこそ、家訓十五か条にあるような会津藩の士風が育まれたに違いなく、その士風があったからこそ、あらゆる面で幕府に頼られたのだとすれば、なんとも皮肉なことではある。

 展望フロアの天井には、その方向に見える景色の説明が描かれてあって、磐梯山の方角の小さな丘に、有名な山の名が記されていた。

 飯盛山だ。
 鶴ヶ城城下から黒煙が上がるのを見た白虎隊が、絶望の果てに自刃した丘である。
 写真にある紅白のポールの向こうの丘が飯盛山なのだけれど、このポール、どうやら双方から場所を視認しやすくなるよう、鶴ヶ城と飯盛山を結ぶラインにわざと立ててあるようで、天守閣から眺めると、ちょうどポールの背後が白虎隊自刃の地になっていた。

 この会津若松ではまず真っ先に鶴ヶ城に来てみたかった僕には、それに加えてもうひとつ希望があった。

 飯盛山から鶴ヶ城を見てみたい……。

 うちの奥さんにも出発前からそう伝えてあって、彼女はその点僕の趣味に付きあってくれるので、快く了承してくれていた……

 ……のだが。
 鶴ヶ城天守閣内の展示物を見て回った後、彼女が言った一言に僕は度肝を抜かれた。

 「だからダンナは飯盛山から鶴ヶ城を見てみたいって言ってたのかぁ!」

 え゛ッ!?
 わ……わかってなかったんですか??

 なにはともあれ、理由をわかってもらえたのは鶴ヶ城天守閣の展示物のおかげである……。

 というわけで、このあと我々は飯盛山を目指した。