〜湯けむり地獄うどん旅〜

道後散歩

 別府から道後に着いた日、宿到着後、夕食までにはまだ随分時間があったので、付近をテクテク散歩することにした。
 実は道後では
 「道後温泉に入る!!」
 ということと
 「道後温泉本館隣の道後麦酒館で、じゃこ天を食いながら地ビールを飲む!!」
 ということ以外まったく何も決めていなかったので、こうしてポッと時間があくと散歩するしかなくなるのである。宿でくつろいでいればいいじゃん、という意見もあるが、うちの奥さんは散歩が好きなのだ。名所旧跡などあろうがなかろうが、見知らぬ土地をただテクテク歩くだけでシアワセになる人なのである(東京的都会は除く)。僕はといえば、ただ歩くだけで腰が砕けていくのだが。

 よくある観光ガイドマップを参考にして歩いてみた。
 そのくせ、最初に目指したのが「秋山好古の墓」だなんて、思いっきりマニアックなのだ。

 秋山好古ってご存知ですか?
 日露戦争当時、巨大なるロシア陸軍に対峙した日本陸軍のうちの騎兵団を任されていた士官である。まだ軍隊が機械化されていなかった当時、騎兵集団というのはもっとも進歩的な軍隊だった。ロシアにはコサック騎兵隊という勇猛なる集団があって、これに対抗するべく、創設されたのが日本の騎兵隊である。ようするに当時とすれば新発想の軍隊だ。
 進歩的ではあったが、いつの世も旧態依然をモットーとしているかのような日本が、そのような新発想をやすやすと受け入れるはずはない。そんななかで、この秋山好古という人は、かなり頑張った人であるのだ。
 だがしかし、たとえば乃木希典とか児玉源太郎のようにかなりの高官であればいざ知らず、彼のようなポジションでは陸軍全体を動かすまでには至らなかった。
 そのため、能力はずば抜けていたであろうに、一般社会的にはそれほど著名人ではないかもしれない。

 にもかかわらずなんで我々がそのような人を知っているのかというと、「坂の上の雲」を読んでいたからであった。
 この司馬遼太郎の小説には、秋山好古、その弟の秋山真之、そして正岡子規の3名が主人公として書かれていて、それぞれとっても魅力溢れる人物として描かれている。そのなかでも秋山好古がうちの奥さんのお気に入りなのであった。
 なんでお気に入りかというと、それは「坂の上の雲」を読んでもらえば一目瞭然。どうやら彼は酒をこよなく愛していた人であったようなのである。前線で、砲弾がひっきりなしに落っこちてくるときにも悠然と飲んでいた、というような酒にまつわるエピソードがテンコ盛りなのである。
 そんなお気に入りの秋山好古の墓が道後に、それも宿からちょっと歩いたところにある、ということを知り、墓地へと向かった。しょっぱなから墓地というのも今思うと変だ。
 鷺谷墓地という墓地の名前だけを頼りに、テクテクテクと歩き始めたら、なんだかよくわからないけどさんざん遠回りをした挙句その墓地らしきところへたどり着いた。

 ……困ってしまった。
 だって、お墓がたくさんあるんだもの……。
 そんなの、墓地なんだから当たり前だろッ!!
 と責めないでね…。
 もちろん、墓がたくさんあるのはわかっていたけど、目立つところに「秋山好古の墓」ってわかりやすく書いてあると思っていたのだ。全国的にはどうか知らないけど、松山で秋山兄弟といえば正岡子規と同じくらい著名なんですぜ。
 なのに、見渡す限りの墓墓墓。著名人の墓を示すなにものもない。
 それも古くからの墓地だから、今風の区画整理された霊園と違ってどこをどう進めばいいのかわからないくらい込み入ったところ。そんな墓地の中を、「秋山さん、秋山さんは……と……」と二人して徘徊していたのだからけっこう不気味だ。
 結局、探せど探せど見つけられなかった。
 秋山家代々の墓、というのがあったが、好古個人の墓がどこにも見当たらない。うーむ、この代々がそうなのかなぁ、なんか違うなァ。
 そんなわけで、墓前で手を合わせておこうという野望はついに果たせなかったのであった。
 後日調べてみたら写真があった。秋山好古の墓は、小さな小さな、ホントに小さなお墓だった。どこにあったのだろうか……。

 再びテクテク歩く。
 伊佐爾波神社に向かった。イサニワ神社と読む。
 特に宗教的な神社めぐりの趣味はないが、古くからある寺や神社には巨木があったり古色蒼然とした風格があったりするので、何も詳しいことがわからなくてもただそこにいるだけで気持ちがいい。新興宗教がいかに威容を誇る建物を山の上に建てようと、こればかりは真似できまい。

 この伊佐爾波神社の創建は平安時代にさかのぼり、以来「湯月八幡」として親しまれてきたというから、そういった意味では行ってみたい神社である。どれどれどんなところかな……

 あ………階段………。
 神様と煙は高いところが好きなのか……。

 ヒーヒー言いながら階段を上った。
 現在の社殿は
17世紀に入ってからのものらしいけれど、この地に永きに渡って鎮座しつづける神様はやはり厳かである。朱塗りの本殿も鮮やかだった。
 この神社、日本の3大八幡造りのひとつだそうで、ここ自体は京都の石清水八幡宮を模して造られたという。後日大阪高槻の実家に帰った際、ついでに京都の石清水八幡宮にも行ってみた。なるほど、社殿はそっくり、うりふたつ。
 これで3大八幡造りの二つは制覇した。あと1つは……宇佐神宮。どこにあるのだろうか……
 ……アッ、大分県じゃないか。それも、別府にかなり近いところ。
 しまった。すんでのところで3つ完全制覇を逃してしまった。それも八幡様の本家本元を……。

 すでに日も暮れかけていたので、階段を上るときも境内にも他に人はいなかったのだが、僕らのあとから年配のご夫婦がいらっしゃった。
 すれ違いに帰ろうとすると、
 「すみません、シャッターを押してもらえますか……」
 と声をかけられた。

 こういう場合、果たしてうまく撮れているのかどうかということが大変気がかりである。神社とかの場合だと、屋根の天辺まで入れると足元まで写らない、全身を入れると屋根が入らない、というアングル的問題があるので、いつもどのように撮ったらいいのかうかがってからにしている。それでもやはり、ご本人の思いどおりの絵になっているのかどうか気にかかってしまう。頼まれればたいてい
 「はい、1枚500円で〜す」
 とイチビった冗談を言うのだが、内心おだやかではないのである。
 しかも、今回、
 「ついでと言っちゃなんですが、こっちのカメラも撮ってもらえますか……」
 と言ってうちのカメラで撮ってもらった。
 それがまた、お願いした本人の思惑以上にうまく撮れていたのだ。
 うむむむ……。
 ちなみに、今回の旅行で、初めて僕は写真に収まった。

 伊佐爾波神社のすぐ近くに、湯神社というダイレクトな名前の神社がある。

 日本最古の温泉といわれる道後では古来より湯に対する感謝の念が強く、湯の神様や湯釜などにまつわる祭りが多い。尾張名古屋が城でもっているように、道後は湯でもっているのである。
 そのため、昔から地震などで湯が止まってしまったときなどは、藩主から町民からこぞって祈祷したという。湯神社という名前だけ聞くといかにも軽々しい今風のセンスって思いがちだが、とにかくみんな本気なのである。
 一昨年の芸予地震の際も、止まるまでは至らなかったものの、しばらくの間温泉は濁りに濁ったらしい。道後温泉はしばらく休館していたそうだ。
 温泉地は火山列島の恩恵であるけれど、地震によっていつ息の根を止められるかわからない危険性と隣り合わせなのである。

 引き続きテクテク歩く。
 次に目指したのは宝厳寺(ホウゴンジ)。
 湯の町・鉄輪の生みの親、一遍上人ご生誕の場所である。鉄輪で、ご生誕の地を訪れる、という約束を果たすのだ。

 生まれ故郷ということもあって、この温泉地にも彼は足跡を残している。本館建築以前の湯口に、「南無阿弥陀仏」と書き記された湯釜があって、それは一遍上人が残したものだ、という話が残っているのだ。
 この一遍上人、それまで金持ちのものだった仏教を、広く庶民にも、ということで人気を博した人で、難しい経典も修行もなんだかんだもなんにも要らない、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えれいれば、誰でも彼でも浄土へ行ける、というとってもわかりやすい「時宗」を広めた人物である。
 ようするに、テーゲー、大雑把だったのではないか。
 その足跡を見ると、今でこそ時宗の開祖と崇め奉られているけれど、ようするにただ温泉が大好きで、気持ちいいからみんな湯に浸かれや、ということだけではないか。
 あ、それは我々が鉄輪から道後に来たからそう見えるだけか。
 一遍上人といえば時宗の開祖である。エライのである。

 なのに、宝厳寺はささやかなお寺だった。

 また、本来なら参道に当たるのではないかと思われる道沿いは、軒並み場末のネオン街だったので驚いた。往時はにぎやかな歓楽街だったのだろうが、見た感じ昔日の面影はない。最も寺よりの建物なんて、朽ち果てそうなくらいの不気味な建物だ。ネオン坂と呼ばれているようだが、夜訪れなかったのでどれくらい「ネオン」なのかわからなかった。
 この界隈、昔から歓楽街だったようで、漱石が松山に滞在していた頃は遊郭だったそうだ。あとで知ったのだが、朽ち果てかけていた不気味な建物は、遊郭当時のままの建物であるらしい。保存の仕方によっては、貴重な文化財に変わるのかもしれない。

 遊郭。
 キリスト教的倫理観でいうと存在そのものが許せないだろうけど、ソープランドとかファッションヘルスなどとかに比べればよっぽど文化的な響きではないか。
 どうせ暗黙の了解で同じようなことを、いや、もっと短絡的単純的なことをやっているのだから、いっそのこと建前上の倫理的ええかっこしいはやめて、昔のように公然と遊郭を復活させればいいのに。少なくとも場末のネオン街よりはよっぽどいいんじゃないか。
 ま、今の世ならホスト系美麗男性を揃えた女性向け遊郭が大ヒットするだろう。

 由緒ただしき古刹で何を考えているのだ、いったい。
 この寺は伊佐爾波神社よりもさらに古い創建で、なんと天智天皇の御世であるという。7世紀である。
 古刹中の古刹なのだ。
 本堂には、室町時代に作られたという重要文化財・一遍上人の木造があるらしいのだが、すでに日も暮れ、境内は冬の冷たい風が吹いているだけで、人っ子一人見当たらなかった。

 この寺で忘れてはならないのが

 色里や 十歩離れて 秋の風

 という子規の句。忘れてはならないのが、などとさも知っていたかのように書いているが、境内に句碑があったのだ。アハハ。
 テクニック、技巧、うわべだけの言葉遊びを嫌い、万葉の頃のような、己の見たまま、感じたまま的俳句、和歌こそが王道である、というのが子規さんの考えで、それによって俳句を一大芸術の道に返り咲かせたらしい(よく知らないから間違っていたらすみません)。そんな彼の句の1つがこれ。まさにこの場に来てみて実感できるではないか。
 残念ながら今は「冬の風」だけど、とにかく、本当に歓楽街から数歩歩いたら寺の門、そして境内なのである。そのギャップ、そして寺の中の厳かさ静けさ。それをたった17文字で表すなんて……。すごいよなぁ。漱石のように、山門の中に遊郭があるなんて前代未聞、と書く気持ちもわからないでもないけれど、僕はひたすらこの句に感動してしまった。