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初めてのスキー2

 まるっきりやったことがないのだから、講習はスキー靴やスキー板を履くところから始まる。慣れればどう履いたっていいのだろうけど、そこはそれ、ダイビングにだって、ウェイトベルト着用時の不思議な手順があるのと同じだ。
 シェフインストラクターはひとつひとつ実に丁寧に教えてくれた。さすがプロ。ゴーグルをつい鼻まで隠したくなるような我々である。教える側には並々ならぬ忍耐が必要であるに違いない。ウワサによると、ニセコなんてスキーをしたことがないヤツが来るべきところではないらしいんだけど………。
 これからは優しいガイドになろう………。

 午前9時半のスキー場は人もまばらで、修学旅行生がいなかったら貸し切り状態といってもいいくらいに空いていた。ただしその修学旅行生はわりと多い。地元北海道からも授業かなんかで来ているらしく、午後になるとそこかしこでゼッケンをつけたグループが滑っていた。
 宿の女将さんに聞いたところによると、雪の少ない道南はともかく、ニセコあたりの小学校では、入学前の児童を持つ親に対して、小学校に上がるまでにリフトに乗ってスキーができるようにしておいてください、というお達しがあるのだそうだ。
 あれだけ海に囲まれているのに沖縄では泳げない子供が多いというが、北海道ではスキーの出来ない子供は稀であるらしい。

 はたして日本全国の50才以下の方で、30過ぎるまでスキーをしたことがない、という人の割合はいったいどれくらいなのだろう。見当もつかないが、ここにたしかに1名いた。
 一応、僕は勝手知ったる……のでスキー板を履くのはどうってことなかったのだが、うちの奥さんはすべてが未体験ゾーンだ。片足履いて、もう一方を履こうとすると勝手に滑って行く我が体……。すでにこの時点から、いろんなことにオタオタする我妻マサエ。これを人呼んで「オタマサ」という。

 実に丁寧なシェフインストラクターに命まで預けているかのように、説明を一言一言噛み締めるオタマサ。スキー板の脱着方法、コケ方起き方、板をつけたままのカニ歩きなどなど、基本事項を教わったあと、いよいよ滑ってみるときが来た。
 といっても、まだカーブする方法すら知らないので目標まで行ったらワザとこけるのである。
 オタマサは、オタオタオタオタ……と歩くよりも遅く華麗に滑って、ダケカンバの下でコテンッとこけた。
 え?僕?
 そりゃ雪原の貴公子ですもの、言われるとおりに滑らかにコテンとこけましたよ。

 さて、次はカーブである。
 ようするに重心のある逆側に曲がって行くわけだから、その重心移動の方法はどうでもいいのだろうけれど、シェフインストラクターの方法は面白かった。曲がりたい方の逆側の親指をクイッと曲げればスーッと曲がっていくという(ここで手の親指を曲げると思ったあなたはハッキリ言ってアホである)。
 あ、ホントだ、親指曲げただけでカーブする!!
 と納得する貴公子。
 しかしオタマサは、なぜか頑なに一直線に進んで行く。
 一直線で行くと、たとえ緩やかな斜面でのボーゲンとはいえ、それなりにスピードは出る。カーブの練習をしているのに、なぜか一直線に進んでコテンコテンとこけるオタマサであった。
 なんで曲がらないんだろう?と首をかしげたシェフインストラクターは、自らは後ろ向きになってオタマサの前を滑りながらアドバイスを。それでもやはり曲がらない。
 すると、突然二人して爆笑しているではないか。
 なんと、左の親指を曲げようとするとき、つい力が入って右の指も一緒に曲げていたことが判明したという。
 そりゃまっすぐ行くわなぁ……。

 その後、ボーゲンにおけるありとあらゆる曲がり方、停まり方を習ったオタマサは、「生まれて初めてのスキーで午前中だけでこんなに滑れるようになったら上等!」とシェフインストラクターから太鼓判を押してもらった。これだったらリフトに乗って初心者コースを滑れるという。
 ……と言われても、いまいち自信のないオタマサ。
 え?僕?そりゃあなた、貴公子ですもの、余裕綽々ですわよ、ホホホ。

 そしてついにシェフインストラクター引率のもと、リフトに乗ることになった。 
 リフトに乗るにはリフト券というものが必要なんだけど、これの買い方にはテクニックがあって、自分がどれだけ滑りたいか、どれだけ時間があるか、にもよるとはいえ、1回1回料金を払うよりもパック券を購入した方が圧倒的に安い。ニセコにある5ヶ所ほどのスキー場のどこでもオーケーの、全山共通フリーパスポートというものもあるという。
 もちろん我々はそんなストロングスキーヤーではない。
 その他のパック券には、8時間券、2日券とかがあった。とりあえず3日間スキーしようという我々である。今日はすでに昼前だから、今から2日券というのではもったいない。というわけで8時間券を購入した。

 さあ、いよいよリフトへ行こう!
 ここのスキー場だからなのか今ではどこもそうなのか知らないが、4人掛けのこのリフト、座ると上から風防カバーが降りてきた。これだったら寒くない。便利になったものだ。

 従来のリフトもゲレンデの途中途中にいくつかあって、4人掛けのこのリフトは「クワッドリフト」と呼ばれているらしい。が、面倒なのでリフトと書く。
 ところで、この冬水納島では北海道が流行っていて、学校の先生たち数人と二家族が年末に北海道でスキーをしていた。で、ほとんどの人が生まれて初めてのスキーだったのだが、なんにも習わずに最初から果敢にリフトに乗って直滑降のみで降りてきたというツワモノ、民宿大城の若旦那ヤスシさんは、2回リフトに乗って2回とも降り際で転げまわったらしい。
 「2回もリフト停めた!」
 と楽しそうに笑っていた。
 そういう話を事前に聞いていたから、いやでも高まるオタマサの緊張感。
 「ダメだと思ったら乗ったまま下りてきてもいいんですかね?」とすがるようにシェフインストラクターに訊くと、「できません……」という予期していた返事。
 風防のおかげでリフトの中は全然寒くないというのに、一人落ち着かずに口数が多くなるオタマサだった。 

 リフトはグングン登って行く。
 そのときだった。
 さっきまで晴れ渡る空だったのに、俄かに空は鉛色になり、風が吹いてきたのだ。雪も降っているのだろうが、それ以上に積もっている雪が舞いあがる量が凄い。これってなんだか前線通過時の局地的突風みたい……。
 「風出てきたなァ……」とシェフインストラクターがポツリと言った。こうなりそうな気配を感じていたからこそ、行きがけの車内でも全面的に好天を喜んでいなかったのだ。
 たしかに風が強い。前のリフトを見ると、ブランブランと横に揺れまくっている!!
 誰かの旅行記で、ニセコのスキー場のリフトは根性があって、内地の他のスキー場だったらあっさりと運転停止になりそうな吹雪時でも平気で運行していた……というのを読んだことがあった。もしかしてこれがそれ??

 さっきまで視界良好だったのに、すでに20m先が全然見えなくなっていた。雪も降っているようだが、風で舞いあがる雪は地吹雪というヤツだそうだ。息を吹きかけただけで舞いあがる雪である。風で舞いあがる量は半端ではない。
 オタマサといえば、それどころではなかったらしい。吹雪いていようが何していようが、頭の中は
 「これから滑って降りなければならない」
 という不安で一杯だったのだ。でもそれがスキーだっつうの。

 いよいよリフトから降りるときが来た。
 風防が上がり、着地線が迫ってくる。
 さあ、1,2の3!!
 あれ?あれ?あれ?
 体がまっすぐ進まない。二人ともこけることなく降りられはしたが、密かに貴公子も緊張していたのだった。 

 無事タッチダウンを果たし、コースに出るところまで行くと…………
 な、なんにも見えない!!
 見えないだけではなかった。風が強い!!
 こりゃ、もしかして本格的猛吹雪なのではあるまいか………。
 でも、もっと上のコースから滑ってくるスキーヤーたちは、颯爽と眼前を通りすぎて行く。こんな状況でビュンビュンいくなんて……あの人たちは狂っているのか?
 と思ったら、我々も普通に出動するというではないか。こんな吹雪の中を!
 貴公子も真っ青である。

 あれだけ懇切丁寧に教えてもらっていたというのに、すでにオタマサの頭の中は視界同様真っ白になってしまったらしく、シェフインストラクターとマンツーマンディフェンス体制になっていた。真っ青になった貴公子ではあったが、真っ白にはなっていなかったので、それについていくくらいのことはできるだろう。

 10度もないような斜面を、何度も停止しながら途切れ途切れにゆっくり進むオタマサチーム。
 コースも何もわからないのでついていくしかない僕も、ゆっくりと降りていった。
 いや、それにしてもますます見えなくなっていく。
 10mと離れていないのに、なんでこんなに見えないんだろう??
 ハタと気がついた。
 ゴーグルが凍っていたのだ。
 貴公子のほとばしる熱気で内側が曇り、その水分が凍っていたのである。
 ゴーグルを取ってみると、途端に視界が開けた………けど、それでも20m先は見えなかった。
 ますます風が強くなってきた。オタマサはと見ると、後ろ向きになったシェフインストラクターにストックを引っ張ってもらって、ウミウシが這うようにゆっくりと下降している。
 この映像、是非ともみなさんに見てもらいたかったのだが、貴公子もそれどころではなかった。
 ゴーグルをはずしているから、吹きすさぶ風と雪で涙がチョチョ切れそうで、ノド元がなんとも冷たく、息もできないほどだったのだ。
 特に中級者コースとジュニアコースの分かれ目あたりなんて、ハワイのヌウアヌパリなみの強風である。聞けば、そこが一番風が吹く場所なのだそうだ。
 雪と風に責められ、視界からオタマサチームが消えていったとき、このまま「アゥッ、アゥッ……」とアシカのような変な呼吸をしながら窒息死するんじゃないかと思った。
 そこで味わった吹雪&地吹雪は、今回の旅行中最大のスペクタルショーだったといっていい。ホワイトアウトという言葉の意味がよ〜くわかったもの……。今朝窓から見た山が笑っていたわけがやっとわかった。

 ゲレンデに流れている放送は、現在リフトが停止中であることを繰り返し告げていた。根性があるといわれているところですらストップしている!!
 そんな中、生まれて初めてのスキーをしているオタマサ…………。
 ホウホウのテイでロッジにたどり着いた頃、彼女の睫毛はパリパリと音を立てていた。
 凍っていたのだ!!
 僕と同様、曇って見えなくなったからゴーグルをはずしていたオタマサは、いつのまにか植村直巳に変身していたのである…………。