1月20日・1

21・朝飯前の散策・1

 暖かい部屋、暖かい布団で心地よく眠り、翌日は爽快に目覚めた。
 日が出ないと起きないキャシャーンのようなうちの奥さんよりも、こういう場所では僕のほうが早起きだったりする。
 朝食を8時にお願いしてあったので、その前に少しばかり散歩することにしていた。朝飯前の運動である。

 7時少し前はさすがに宿の方も活動されておらず、玄関先はまだ夜だった。
 でも外はもう朝だ。
 ピンッ
 と音が鳴るかのような空気の冷たさは、沖縄にいるといくら冷え込もうとも味わうことはできない。
 ただし、期待していたような雪はない。
 雪景色を見たかったんだけどなぁ……。チラチラ降っているこの雪、積もってくれないかなぁ…。

 通りを一本入るとすぐに宮川になる。
 川沿いの道を通って南下することにした。
 僕がこれまで暮らしたことがある土地では、一直線ではないにしても川といえば北から南へ流れていくものだった。北に流れていく川というのがなんだか不思議だ。さすが日本海側である。
 その宮川には、カモがいた。
 おいおい、またカモかよ…。
 そう嘆かれても、いるのだからしょうがない。

 テクテク歩いていると、傍らに
 越中街道
 と書かれた標識があった。
 越中街道。この街道、またの名を鰤街道ともいう。
 関東にお住まいの方にはいまひとつ馴染みがないかもしれないけれど、年取り魚、もしくは正月魚として関東で鮭を食べるのに対し、関西文化圏では鰤を食べる。魚偏に師走の師と書くのはそのためだ。
 元禄以降天領となって江戸の文化も入ってきたものの、基本的に飛騨は関西文化圏なので、飛騨地方では年取り魚として昔から鰤を食べる。
 しかし鰤は海の魚。いったい飛騨でどうやって手に入れるのか?
 越中、つまり富山から運んでくるのだ。
 歩荷(ぼっか)と呼ばれる荷役の職人が、「越中ぶり」と呼ばれる塩鰤を富山から山を越え谷を越え高山まで運んできたのだという。
 そしてその塩鰤は高山からさらに野麦峠を越えて信州各地へと運ばれていくのだが、それらの地方ではこの鰤のことを「飛騨ぶり」と呼んだのだそうだ。当時の信州の人たちは、ぶりは飛騨で獲れるものと信じていたのだろうか…?
 道なき道を歩きに歩いた歩荷たちのもともとの仕事は、塩を運ぶことだったのかもしれない。
 「敵に塩を送る」
 という謙信と信玄の間の故事があるとおり、山地で暮らす人々にとって塩は大層貴重品だった。それが世が平らかになるにつれ、いつしか鰤の道になったのではなかろうか。江戸時代がいかに平和に満ち満ちていたかがよくわかる。
 とにかくこうして昔から海の幸は富山から飛騨に届けられていたのである。飛騨の飲み屋で海の幸の美味さを高らかに謳っているのは、山菜料理の地で豪華伊勢えび料理!などという勘違い甚だしい事態とはまったく違う。
 年末に来ていたら、おそらくこの地で塩鰤を堪能できたことだろう。今はその道を見て想像に耽るしかない。

 そんなわけで僕はひそかにこの鰤の来た道に興味があったので、越中街道の標識を記念に撮ろうとしていたら、その脇の家の方らしき初老の紳士が、家から犬を連れて出てきた。朝の犬の散歩らしい。
 「お2人で撮りましょうか?」
 この先ほうぼうで味わうことになるのだけれど、とにかくこの町の人たちは観光客に優しい。こんな朝早くでも、そうやって一言声をかけてくださる。
 実はこの道標を…とはさすがにいえず、お礼を言いつつ辞退した。

 再び川沿いに戻りカモを見ながら歩いていると、先ほどの初老の紳士が、
 「ホーホーホーホー……」
 と、キタキツネに向かう田中邦衛のような声を出していた。
 なにやら川原に撒いている。
 すると川にいたカモたちがヒョコヒョコと集まってきた。初老の紳士が撒いていたのはカモの餌だったのだ。
 カモを見て喜んでいるのは我々だけじゃなかった。

 この宮川沿いに、有名な「宮川朝市」の通りがある。
 もともとは江戸時代、お蚕さんの餌となる桑の葉っぱを売る店の集まりが始まりだったそうだが、いつしか野菜売りの市となり、朝市、夕市、夜市…つまり一日中売ってたんじゃん的に盛んになった。
 戦争中は停滞したものの戦後になると闇市も抱き合わせて復活し、やがてもともとの場所が国道になってしまったために場所を移動したのがここ宮川べりである。
 60年代には300店舗くらいの盛況振りだった朝市も、今では夏のピーク時で50軒ほど。それでもいまや立派な観光名所だ。
 夏で50軒なんだったら、冬は??
 せいぜい10軒くらいだった。
 夏場は朝6時ごろから始まるらしいが、この時期は我々が散歩している時間がちょうど準備の時間のようで、同じような白いテントをそれぞれ組み立て、商品を並べていた。寒いから身を寄せ合って立てるのかと思ったら、テントは随分まばらに点在していた。
 冬に乗ってこそホンマモノのライダーだ、という意味と同じく、彼女たちこそホンマモノの朝市の人たちだ、ということなのか、それとも商売熱心ということだけなのか??
 凍えそうな寒さの中、練炭で暖をとりながらずっとテントにいるのだ。ホンマモノであることだけはたしかだろう。
 いずれにしても、まだ2泊するので今買い物をするわけにはいかない。もっとも、まだ準備中でそれどころではないようだった。

 もう少し先まで歩いてみたい……。
 ちょこっと歩いただけなのに、そんな気になってしまうウワサどおりの町並みである。この先にいわゆる「古い町並み」があるのだ。
 だが朝食の時間が近づいていた。
 いったん宿に引き返さなければならない。
 これが…。
 岩田館さんは我々にとって文句なく素晴らしいところだったのだけれど、オロカな我々のオロカな行程のせいで、少しばかり弱点が……。
 だって、せっかくここまで歩いてきても、朝食のために再び宿に戻り、朝食後もう一度こっちまで歩いてくる………
 この余計な往復が、病み上がり(?)の我が肉体を責め苛むのであった……。
 いっそのこと朝食抜きにして、朝出たが最後夜まで戻ってこないようにしたほうが楽だったか?
 いや。
 朝の散歩を終え、お風呂で温もり疲れを取り、それから朝食をとって部屋で一休み……。
 それ自体は間違ってはいなかったし、なんといっても
 朝食!!
 朴葉みそである!!

 これを抜きにして飛騨高山を語れようか。
 1時間近くも散歩すると腹が減る。おまけにそのヨロコビの味噌があまりにも美味しいために、ついついバカの3杯飯。おかげで、お昼はいろんなもの食い倒れツアーを企画していたのに、ツアーに出る前から食い倒れてしまった………。

 この朴葉味噌、何も知らなかった僕はてっきり朴葉で作った味噌なのかと思っていたらそうではなかった。木こりさんたちの簡単料理が由来の、味噌とそれにからませた具を朴葉の上で焼く、というものだったのである。
 朴の葉に素敵な香りがあるのだそうだ。 
 何度も食べたけど僕はついに朴の葉の香りとやらを感じ取ることができなかった。だったら、朴の葉じゃなくてアルミホイルでも充分に美味しいのではないのか、この味噌??
 ……すみません、違いのわからない男で。

 味噌といえば、ここいらのお味噌は赤味噌が主なのだろうか。
 3回食べた朝食のうち、3回とも味噌汁は赤味噌だった。町中でお土産で売られている朴葉味噌も、居酒屋で食べてみた朴葉味噌も赤味噌系だった。
 ところが、朝食で2回出してもらった宿の朴葉味噌は、どういうわけかほんのり甘く、色も白っぽい。他で食べた味噌がすべて辛い系だったので、なんだかとってもやさしいおふくろの味って感じである。きっと本当は家庭ごとに微妙に味が異なるのだろうなぁ……。

 この朴の木を見てみたい…。
 しかし季節は冬。広葉落葉樹である朴はこの時期すべての葉を落としている。木だけを見て朴の木を知る術は、我々にはなかった。