文・植田正恵

1.定住のダイビング主婦
月刊アクアネット2003年6月号

 初夏の日差しと海からのさわやかな風が、桟橋に立つ私を心地よく包んでくれる。
 ここは水納島。沖縄本島北部の本部半島の先から7キロほど離れたところにある小島だ。
 県内に住む人々でさえ、

 「え?あの島に人が住んでいるの?」

 と驚くほど小さい。郵便局も交番も、銀行も診療所も商店もないけれど、どっこい、人々はそこで楽しくたくましく生活している。

その数ざっと50名。

 都会のマンモス校の1クラスほどの人数だ。当然、島内に知らない人など1人もいないし、ウワサは瞬く間に島中を駆け巡る。埼玉出身の私と大阪出身のだんなも、今ではその50名の一員になっている。
 なぜ我々がそこで暮らすようになったかというと、話は学生時代にさかのぼる。

 私もだんなも、何を血迷ったか琉球大学に進学した。
 なにしろ沖縄の大学である。「ちょっとそこまで」という気分でいつでも気軽に海まで行けた。ヒマはあるけど金はない、という清貧学生だったものの、口車に乗せられて入部したダイビングクラブで得た技術を駆使し、酒の肴がないといっては海に行き、海から帰ってきては飲んでばかりいた。あれ?これじゃ海三昧じゃなくて酒三昧??まあ早い話、今思えば夢のような暮らしをしていたわけ。

 そんな人間が卒業後本土の都会で勤め始めると、途端に海禁断症状に襲われてしまう。それを強い意志で乗り切った勇者は、見事まっとうな社会人として世を渡ることになるのだろうが、乗り切れなかった我々は、5年と経たぬ間に沖縄に帰ってきたのだった。

 それにしても、よりによってなんで水納島にやってきたのか。

 それはひとえに、私が「放浪のダイビング主婦」になろうとしたためである。

 水納島には学生のころからちょくちょく訪れていて、卒業後も休みを取っては埼玉から遊びに来ていた。そして結婚退職した私は、すでに夢中になっていた水中写真の腕を磨こうと決意。半年ほど無給で手伝いをするかたわら、暇なときはタダで潜らせてはもらえないかと、学生時代からお世話になっていた島のダイビングショップのオーナーに話を持ちかけた。

 それが「ひょうたんからコマ」になってしまった。

 すでに一身上の都合で店をたたむつもりでいたオーナーから、そのダイビングショップの経営を引き継ぐことになったのだ。いつかは沖縄に戻りたい、という漠然とした望みを抱いていた我々夫婦にとっては、まさに渡りに船だった。

 もちろん不安はあったものの、当時まだ26歳。やり直しはいくらでもきくだろう、という無謀な思考ができる若さである。そんなわけで、放浪のダイビング主婦になるはずだった私は、にわかに先発現地準備隊長になり、翌年夫婦揃って水納島に引っ越してきた。

 胸一杯の期待と一握りの不安を抱きつつ「定住のダイビング主婦」になって今年ではや9年目になる。渡りに船の「船」が実は沈没しかけていたという衝撃からスタートしたものの、今でもときおり玄関先に傘地蔵のように野菜が置いてあったりするほどに、島の人たちに文字通り支えられてきた8年間だった。

 そしてその8年間で、すっかり都会生活不適格者になってしまった。もちろん私たちは、それを何物にも換えがたいヨロコビとしている。