余禄1・新白兎伝説

 

 9時5分発の米子行きアクアライナーが温泉津駅に到着した。

 行きに出雲から乗った石見神楽仕様と比べると、随分控えめな……って、これがノーマルか。

 ただし外見はノーマルだったけど、この車両、座席が銀河鉄道999なみに…いや、わかりやすく言うならステーキハウス・ジャッキーなみに……余計わかりにくいか、ともかく座席がにべもないほどに頑なに直角なのだ。

 5分や10分の乗車時間じゃない客のほうが多いだろうに、なんという人間工学無視の設計。

 …と思っていたところ、後日電車でGO!総裁A木さんに伺ったところ、アクアライナーの座り心地の悪さにはかねてより定評があるそうな。

 そりゃそうだろうなぁ……。

 でも↓この方には関係なかったみたい。

 山陰本線は、相変わらず海が近い。

 そして、ここ数日間、当たり前のように見ていた石州瓦の屋根屋根も、これでもう見納めだ。

 やがてアクアライナーは、大田市駅に到着した。

 さすが合併後広範におよぶ市域の中心地、都会である。

 その大田市駅に停車中、我々が乗っている車両はちょうど跨線橋の階段のあたりに停まっていた。

 その階段の登り口の出口案内の脇に、ふと気になる表示が。

 肉眼では読めなかったので、ジョニーのズームで解決。

 ん?現存最古の鋳鉄製門柱?

 いったい何が、どれが、どこが??

 と「?」マークを並べているうちにアクアライナー発車。

 慌てて跨線橋を撮ったのだけど……

 …てんでダメ男。

 結局なにが最古だったんだろう?

 これを書いている今調べてみたら、これのことだった。

 あ、階段の両脇の柱のことでしたか…。

 「最古」という定義については異論もあるようながら、とにもかくにもこうして古いものが持つ価値を見出すのは素敵なことだ。

 もっとも、聞くところによると、石見銀山が世界遺産に登録されたのと時を同じくして、「最古」表示が張り出されるようになったらしいけど。

 大田市駅を過ぎてもしばらくは海辺の景色が続いた。

 なんだか歌川広重描くところの神奈川宿のようにも見える日本海は、この日も実に穏やかだ。

 そうこうするうちにアクアライナーは、出雲市駅に到着。

 あらためて見ると出雲市、随分都会である。

 そして雄大な斐伊川を渡り、水田地帯や築地松といった懐かしい(たかだか3日前のことだけど)風景を抜け、しばらく行くと見えてくるのが……

 宍道湖!!

 シジミちゃんのふるさとだ。

 汽水湖とはいえ、なんと大きな湖だろう。
 線路に沿って走っている道は、もちろんいにしえの山陰道、国道9号。

 松江に向かっているのであろう一畑交通のバスも走っていた。

 そういえば、我々が乗っている快速アクアライナー、ずっと海沿いなんだから、いっそのことマリンライナーでいいじゃん…と行きには思っていた。 

 なるほど、汽水湖沿いも走るとなれば、マリン…じゃ都合悪かったのか。

 ずっと素朴な湖岸だった宍道湖沿いの風景も、やがて遠目に松江の街並みがにぎわうようになってきた。

 温泉津駅で乗車した頃にはガラ空きだった車内も、そのころには……

 けっこう混んでる。

 意外に多い利用客。

 ま、ほぼ2時間に1本程度の本数じゃ無理もないか。

 松江駅に到着する前に、松江市街のビルの向こうの小高い丘の上に、松江城が見えた。

 残念ながら2代でお家断絶となってしまったとはいえ、松江城を築城した堀尾氏は、出雲大社の参道を歩いていた際に触れたとおり、パクリ功名が辻・山内一豊と、関ヶ原前夜から因縁浅からぬ間柄。

 その両者が築いた高知城、松江城どちらも明治の世になって取り壊されることなく現在まで残っているというのも何かの縁を感じるけれど、先年松江城は「国宝」に昇格(?)し、国の重要文化財である高知城よりもワンランク上のお城グループに仲間入りした。

 忠氏、最後にしてやったり?

 お城といえば、松江を過ぎて中海沿岸を米子に向かっている間に停車した安来駅(だったと思う)に、大きな案内看板が出ていた。

 月山富田城!

 戦国時代初期の中国地方の雄、出雲の太守尼子経久が根拠地にしていた、難攻不落の名城だ。

 尼子経久が出雲地方からのし上がっていくに際し、避けては通れないのが出雲大社の特殊性だった。

 その時代でも出雲大社は他地域とはまったくことなる統治状況だったそうで、攻め滅ぼせば自分のもの!にはけっしてならないお土地柄なのである。

 そのため尼子経久は、統治上確実に身内にしておきたい千家・北島両出雲国造家と関係を深くし、遷宮の費用まで賄ったというから、相当関係は深かったはず。

 ところが今回訪れた出雲大社とその近辺では、尼子の「あ」の字も見なかった(見落としただけかも)。

 それがここにきて、さすがご当地、ドドンと郷土のヒーローの存在を誇らしげにアピールしている。

 おかげで、月山富田城がここから山の上に行ったところにあったということを初めて知ったワタシ。

 ここを拠点にしていたのであれば、宍道湖も目の前のこと、しょっちゅうシジミ汁を食べていたに違いない。

 戦国の世というのに、ひょっとすると100まで生きるかも…と当時の誰もが思っていたであろうほどに長寿だった尼子経久(享年84)、その健康の秘訣はシジミにあった…………かも。

 やがてアクアライナーは、終点米子駅に到着。

 オタマサ、初鳥取県。

 ちょうどこのあたりでお昼時になる予定だったから、米子駅で鳥取行きに乗り換える前に、せっかくだから時間をたっぷりとることにしていた。

 宍道湖が近い、海が近いとなれば、きっとおいしいお店があるはず!

 と、例によって思い込み情報を根拠に、完全に鮮魚モードになっているオタマサなのである。

 でも昼間っからそんなものが食べられる店を、知らない土地で限られた時間内に探すことができるんだろうか。

 前もってリサーチしているのであればともかく、まったく素のまま自信満々のオタマサ。

 ワタシはどちらかというと、きっとあるはずの駅前のカレーとか駅弁でいいんだけど……。

 そんなワタシにとって米子といえば、米子東高校。

 かつての甲子園の常連だ。

 ……と懐かしく思い出していたら……

 米子東高校、選抜甲子園大会に23年ぶり出場!!

 …を祝う米子駅社員一同からの、手作り感溢れる応援メッセージが。

 かつてセンバツで一度準優勝に輝いたことがある山陰の名門校、平成最後の大会で古豪復活なるか??

 そんな高校野球などハナから眼中にないオタマサ。

 いくらなんでも大きなスーツケースを引っ提げて街中をウロウロするのはイヤだったので、駅の片隅にあるロッカーコーナーにて預けることにした。

 大型荷物用ロッカーは、なんと料金700円。

 それだけでそば一杯食べられるじゃないか……。

 ともかく身軽になって、駅前に出てみる。

 すると、いきなりこういうモノが目に飛び込んできた。

 え?

 999??

 境港の水木しげるのように、米子って松本零士ゆかりの土地なの??

 ……という疑問を抱く方は世の中に多く、すでにネット上ではこの疑問が星の数ほどアップされている。

 なかには「答え」も教えてくれるサイトもあった。
 それによると、このオブジェは松本零士とも銀河鉄道999ともまったく関係が無く、もちろんながら宮沢賢治とも銀河鉄道の夜とも関係が無い。

 紹介されていたお役所の方のコメントに寄れば、米子は山陰地方の鉄道発祥の地だそうで、未来に向けて鉄道とともに発展する矜持を示すオブジェなのだとか。

 山陰の鉄道発祥の地としての誇りということなのだろう。
 でもこれじゃあ、ホコリというよりもパクリなんじゃ……。

 いかんいかん、限られた時間内に魅惑のランチを探さねばならない我々は、こんなところで時間を食っているわけにはいかない。
 時間食わずに魚食え。

 さあ行くんだ、その顔を上げて。

 新しい酒に 心を洗おう。

 駅前には居酒屋らしき店がありはしても、昼から店を開けている気配はない。

 なんだかお腹を空かせた井之頭五郎になりつつ、店はないか店はないか…とウロウロしていると、魅惑的なカレー屋さんが、手招きして呼び寄せているかのようにオープンしていた。

 ここでいいんじゃね?

 しかし米子といえば鮮魚、と勝手に思い込んでいるオタマサは見向きもしない。

 やっぱ、ランチで鮮魚は難しいんじゃないの……と諦めかけたそのとき、燦然と輝くお店を駅前通り沿いに暖簾が出ている店を発見。

 和食居酒屋 旬門 米子本店。

 後日知ったところによると、松江、倉吉などに店舗展開している店のようで、地元ではテレビCMも流れているほどにメジャーなお店の本店のようだ。

 我々にはまったく未知数のお店、ともかくどうやら鮮魚をいただけそうだということで、開店直後のお店の暖簾をくぐった。

 料亭のような作りの店内は広く、個室スペースをたくさん設けているようで、セパレートされた雰囲気ある席にてまずは乾杯。

 もちろん昼ビール。

 ランチメニューを見ると、魅惑的な品が勢揃いしていたけれど、ここはブレてはいけない。
 迷わずゲゲゲの故郷・境港直送お刺身定食@1500円。

 ほどなく出てきた定食は……

 超てんこ盛り!!

 メインの刺身をはじめ、(なぜだか熊本の)献上豆腐に茶わん蒸し、そば、お吸い物にすき焼き風牛肉の鍋(生卵つき)。

 そしてご飯は白米か蟹ちらしのどちらかが選べるというので、当然ながら蟹ちらし。

 これでランチなんですか?的超絶豪華メニューだ。

 このうえドリンクやデザートまでつくというのだからすごい。

 でまたメインの境港直送お刺身盛り合わせが……

 これで1人前ですぜ、だんな。

 下手な飲み屋にいったら、これだけで1500円しそうなほどだ。

 はてさて、この魅惑的なお魚ちゃんや貝ちゃんたちはどちら様なんでしょう?

 給仕してくれる若いおねーちゃんに、ひょっとして知っているかも…と淡い期待を抱いて尋ねてみると、案の定わからないみたい。

 でもとてもいい子で、「訊いてきます!」というや、すぐさま戻ってきて教えてくれていわく、

 「本日の鮮魚のこれらのうちのどれかです!」

 と、わざわざメニューを持参してきてくれた(撮る間持っていてくれたおねーちゃん、ありがとう)。

 というのも、定食といいつつも、刺身盛りはそれぞれ出されている皿ごとに内容を変えているそうで、板場の方が直接見ないことにはわからないそうな。

 まだ仕事を初めて間もなそうなおねーちゃんは盛り付けを見てもわからない以上、あとは自分たちで推理するしかない(レジ係もしていたベテランぽいおねーちゃんなら全部わかったかも)。

 メニューを見ながら、あーでもないこーでもないと文字どおりの品定めをしながら食べるお刺身も楽しい。そしてもちろん……

 美味いッ!!

 一時はカレーでも…と諦めかけたワタシに対し、勝ち誇るオタマサであった。

 デザートで出てきた、生クリーム付きブドウっぽいゼリーがフルーツ感満載で美味しく、少量とはいえ意外なところで本格スイーツ。

 お会計の時にレジのおねーちゃん(スタッフのおねーちゃんたちはどういうわけだかそういうわけでみんなかわいい)にその感想を伝えると、

 「間違えて大量にブドウジュースを仕入れてしまって、消費するためにゼリーにしてます。日によって味が違うんですけどね(ペロッ < 可愛く舌を出す音)」

 なにげにビミョーな裏話も気安く教えてくれる店の雰囲気、いいじゃないかいいじゃないか。

 大型店舗とはいえさすが地元の名店、旅行者の心も食いしん坊の心も飲兵衛の心も全部くすぐる和食居酒屋・旬門なのである。

 束の間の滞在だったにもかかわらず、米子でいい思い出ができました。

 駅に戻り、ロッカーから荷物を取り出して再び駅構内へ。

 構内には名物駅弁が少数売られている売店もあったけれど、どれも高級駅弁で、1000円超は当たり前の価格帯。

 これならよっぽど旬門でお刺身定食を食べるほうがいい。

 井之頭五郎化していたオタマサ、でかした。

 米子からは、快速とっとりライナーに乗って鳥取駅を目指す。

 乗車時間90分ちょいほどの車内は比較的空いており、また海辺を通る路線だからという単純な理由で左側の席に座っていたのだけれど。

 この路線で座るべきは、圧倒的に右側だった。

 だって……

 大山が!!

 子供の頃に家族で訪れ、中学生の頃には泊りがけの遠足のような林間学校のような学校行事で山頂まで登った(はず)ことがある大山。

 しかしそれはどちらも岡山県側からで、日本海側から眺めたのは初めてかもしれない。

 というか、このように雪を頂いている姿を間近で観るのも初めてだ。

 なんて美しんだろう……。

 かつてニセコを訪ねた際に同じく車窓から眺めた羊蹄山に勝るとも劣らない。

 山陰本線は大山の山裾に沿うように海岸線を走るものだから、その間ずっと麗しい山体を眺めていられた。

 ……反対側の座席から。

 帰宅後何日も経った頃、撮り鉄で有名な中井精也が山陰本線で撮り鉄旅をする番組が、BSNHKで放送された。

 とっとりライナーの中吊り広告で番組宣伝されていたくらいだから、山陰本線としても全面的に協力していたのであろうその番組でも、やはり大山という超ビジュアルスポットが登場。

 そこで中井誠也氏いわく、

 「冬の大山は、山頂付近が雲に隠れていることが多いんですよねぇ…」

 なんと!!

 なにげなく当たり前のように見てしまった大山の山容、この季節にはかなりのレアケースだったらしい。

 そういえば、冬の日本海なのに海はベタ凪ぎだったものなぁ…。

 というか、大山に見とれるあまり、海辺を走っている間海を見た記憶がほとんどない。

 そうこうするうちに終点鳥取駅に到着。

 スタバが無い頃からスナバはあった鳥取県といえば、鳥取砂丘。

 ホームから街を望むと、鳥取砂丘への標識が見えた。

 地図を見るかぎりでは、駅から6〜7キロ。
 ジョギングでも40〜50分の距離でしかない。
 もっと時間に余裕があれば、ここでオタマサ人生初の鳥取砂丘ということも可能だったろう。

 あいにくいまだ道半ばの我々は、先を急がねばならない。

 ここから特急「スーパーはくと」に乗り換えて、一気に中国山地を越えて山陽本線に乱入するのだ。

 ほどなくして、超白兎到着。

 さすが因幡の白兎のご当地、特急にその名がついているのですなぁ…。

 白兎には大国主神がついているのだから、よもや事故など起ころうはずもない。

 ……あ、因幡の白兎の話になぞらえるなら、事故った後に何とかしてくれるってことになるのか。

 ともかくこの特急に乗って初めて、テーブルを使える座席に座ることができた。

 大阪駅まで2時間半の乗車時間、すでに米子駅前の旬門で一度はいいコンコロモチになったとはいえ、時間があいたので飲み直し。

 もちろん旅のお供は……

 開春純米ワンカップ。

 スーパーおがわで買っておいた↓これを……

 開春で流し込む。

 さてこのスーパーはくと、時刻表マニアオタマサが特に注目したのは、途中で智頭急行の路線に乗り入れるところ。

 …と思っていたら、特急「スーパーはくと」はそもそも智頭急行株式会社が保有する特急なんですね。

 なのでスーパーはくとは、JRの路線に乗り入れて鳥取と京都を結んでいるということになる。

 特急はロングレンジながら、本来の智頭急行路線は地図上どう見ても相当険しそうな山間の土地を南北に縦断しているローカル路線だ。

 もともとは国鉄時代に山陽と山陰を結ぶ線路がいくつか建設されていたところ、おりからの国鉄の経営悪化で建設中の路線はすべて凍結。
 でもその時点でほとんど建設が終了していた智頭急行は、鳥取、岡山、兵庫各知事の合議により、第三セクター方式で開業することに決定したそうな。

 その際の経営見込み調査では、ローカル線のみだと間違いなく赤字ながら、国鉄(当時)に乗り入れる形で特急を運行すれば黒字を見込める、と判断されていたらしい。

 実際現在もそのような図式だそうで、わりと混んでいた特急に対し、普通車両は常時スカスカなのだとか。

 ただし稼ぎ頭の特急「スーパーはくと」も、開業当初は大変な目に遭っていたようだ。

 というのも、智頭急行の開業は1994年末。

 その翌年1月に、あの阪神淡路大震災である。

 鉄道は軌道を走っていても、経営はまったく軌道に乗っていなかった開業初っ端に、いきなりスーパーはくと全面運休に追い込まれた智頭急行。

 そのため初年度の売り上げは、当初見込みのたった1割ほどだったという。

 これがクロワッサンなら、とっとと尻尾を巻いて逃げ出しているところだ。

 しかし智頭急行は踏ん張った。

 ギリギリのところでピンチを乗り越え、やがて黒字に転じた経営状況は、2015年以降現在に至るまで、経営状況的には第三セクター鉄道のトップの座に君臨しているという。

 スーパーはくと、最大のピンチを誕生当初に迎えたけれど、白兎にはやっぱり大国主神がついていた。

 これはもう、立派に平成版「白兎神話」ではあるまいか。

 スーパーはくとは、そんな智頭急行路線に突入した。

 この路線には、なんと「宮本武蔵」という駅名がある。
 彼の生誕地がこのあたりなのだそうだ。

 でも宮本武蔵の出自はけっこう謎に包まれているはずで、出生地にも他の説があったんじゃなかったっけか?

 でもまぁいち早く生誕地宣言し、ウソかマコトか生家跡まで設定したり駅まで作ったりして観光開発に一所懸命になっている美作が、このままゴリ押しで宮本武蔵の生誕地になりそうな勢いだ。

 そんな駅をひと目見てみたかったのだけど…。

 智頭急行ラインもその前後のJRラインも、トンネルに次ぐトンネルに次ぐトンネルで、気がついた頃にはすっかり眠りこけたあとだった。

 宮本武蔵駅、スルー。

 そして超白兎は相生あたりから山陽本線に乱入し、姫路を通過しつつ、無事大阪駅に到着。

 いやあ、長い鉄旅だった。

 朝9時5分に温泉津駅を出て、途中ランチタイムを挟んだとはいえ、最終目的地摂津富田駅に着いたのは午後6時過ぎ。

 毎度のことながら、鉄旅すると日本の広さを実感できる。

 さあて、連日の酒にただれた胃袋には、お茶漬け&味噌汁くらいの優しいソフトランディングを提供してあげたい。

 ああしかし。

 実家に帰ったその夜から、母によるカメーカメー攻撃が始まるのであった。