6・出雲大社

 いよいよ出雲大社である。

 オタマサにとって、今回の旅行の唯一の動機といっていい出雲大社である。

 しかるに彼女に出雲大社のなんたるかを尋ねても意味はない。

 何も知らないのだから。

 なのでいろいろ調べてみた。

 現在でも本殿の高さ24メートルと相当大きな社だというのに、上古ではそれが48メートルもあったと伝えられている。

 それは様々な発掘のおかげで、どうやら本当かもしれない…という話になってきている、という話はすでに触れた。

 そして往時の様子を復元した絵や模型も、あちこちで見られるようになってきている。


境内の説明板より

 これが現在最もよく目にするタイプ(諸説あるらしい)。

 日本に統一王朝ができた時代から今もなお続いている出雲国造家には、鎌倉時代の遷宮に際して用意された設計図が伝えられているそうで、それによると本殿の床面積は現在と変わらないらしい。

 となると、楼閣状のタワーのような建築物ということになる。

 それがあまりにも現実離れしすぎていたせいで、考古学・史学どちらの世界でも誰にも相手にされていなかった設計図。

 しかしながら、設計図に描かれているとおりの三本束の巨大柱が発掘された。


境内に掲げられていた看板より

 このトロイの遺跡級(?)の発見によって、設計図はにわかに現実味を帯びた。 

 高さ48メートルでさえオドロキの高さだというのに、鎌倉時代からさらに時代を遡ると、高さ三十二丈(97メートル!)ほどもあったという伝承が残っているそうな。

 なにしろ平安時代末に当地を訪れた京都の僧が、

 「千木(社殿の上でクロスしている木)が雲に分け入っている!」

 と驚愕の感想を残しているというほどだ。

 おそらく当時から京都といえば「なんでも一番」の自負心の塊だったろうに、そんな京都の僧がその大きさに驚愕しているのだから、97メートルは大袈裟にしても(ホントかも…)、高さ48メートルが現実のものと認定されそうな今、相当なタワーだった可能性は高い。

 それにしてもそんな巨大建造物が、よりにもよってなんで首都(平安京)から遠く離れたこんなところに?

 考古学や古代史の世界では、邪馬台国論争に代表されるように、おそらくは一つであろうジジツについて綺羅星のごときたくさんの説があり、誰も彼もが「我が説こそ正解!」と胸を張りながら自説を開陳する。

 そのため定見など持たない我々シロウトは、このヒトの説を読めばなるほどなぁ…と納得し、あのヒトの説を読むとああそうか…と膝を打つことになる。

 で結局のところ、ホントのところはわからないまま。

 なにしろ一つのジジツについて綺羅星のごとく説があるってことは、客観的に観ればほとんどの人は「ウソツキ」だということになるのだから。

 なのでシロウトとしては、どうせウソなら面白くて理にかなっているようにみえてワクワクするような、よりストーリー性のあるウソを信じるほうが面白い。

 以上を踏まえたうえで、「こんなに巨大で立派な出雲大社がなぜにこの土地で大切にされているのか?」に対する個人的に面白い結論はといえば。

 とんでもなくうしろめたい罪を背負って成り上がった「成功者」が、その罪を償う…というよりも、かつて罪なきまま貶めたモノたちの強大な祟りの力が目覚めないよう、なんとか鎮まったままでいてもらうための「祟り封印装置」だから。

 ということに決定。

 原発を首都近辺に造らないのと同じ事情で、そんな危険なものを飛鳥宮なり平城京なり平安京といった都のそばに造れるはずはなし、いっそのことうしろめたさの原点の原点に由来する土地に鎮まっていただきましょう……

 …ということでの出雲大社である(※個人の見解です)。

 神が鬼とほぼ同義語だったこの時代、この世のモノならざるナニモノかに対する畏怖が今の世では想像もできないほどに巨大だった当時のこと、成功者たちが抱き続けるうしろめたさに由来する恐怖が、巨大建造物を造る原動力になったに違いない。 

 ともかく、誰かが何かに脅えて建てた、祀った、と理解してしまおう。

 以後、長きに渡ってこの地に鎮まっている「何か」。
 それが鎮まってくれているのは、とにもかくにも出雲大社のおかげなのである。

 というわけで我々は、襟を正してお参りせねばならない。

 ビールは飲んじゃったけど。

 観光客にとっての出雲大社といえば、重さ4トン超という巨大な注連縄が有名だ。

 なのでてっきりその注連縄があるところが正門なのかと思っていたところ、あれは境内横にある神楽殿で、それも昭和56年に建てられた超今出来の建造物なのだ、ということを恥ずかしながら今回初めて知った。

 本来の入り口(?)はまったく異なる場所にある。

 地図下側の正門が↓こちら。

 この正門になっている部分は神社なのになぜだか勢溜(せいだまり)と呼ばれているところで(本来は軍馬が集まる場所に使われる用語だそうな)、このような平面的な地図だけを見ているとわからないんだけど、実際に来てみるととても面白い土地であることがわかる。

 ここにある鳥居から参道へ進むと……

 本殿へと続く参道は、いきなり下り坂になる。

 参道が下り坂ってのも珍しい…。

 一方、鳥居から反対側を見てみると……

 神門通りと呼ばれる現在の表参道も、やっぱりいきなり下り坂。

 実はこのあたり、昔は砂丘地帯だったそうで、現在よりも海が遥かに出雲大社に近かった大昔の地形がそのまま残っているのだそうだ。

 それってつまり……

 水納島の桟橋から続く石畳道と同じなんじゃ??

 水納島も、防風林が植えられる前は海岸べりの砂がこんもり盛り上がって小高い丘となり、そこに海岸植物が自生しているプチ砂丘だったのだ。

 現在の石畳道はその地形のまま造られたものだから、神門通りから参道へと一直線に続く坂道と比べると、内側には緩やかに、外側にはわりと急傾斜になっているあたり、地形的な雰囲気はそっくり。

 規模が違うけど……。

 などとブラタモリごっこをしつつ参道を行く。

 この下り坂参道を下り始めると、すぐ右手にあるのがこちら。

 祓社(はらえのやしろ)。

 祀られているのが何の神々なのか詳しいことは知らねども、日本を代表するお祓いのプロフェッショナルが全員集合しておられるそうだ。

 本殿にお参りするに際し、身にまとわりついた現世の罪という汚れを、こちらの神様方が祓い清めてくださるそうでございます。

 祟り封印装置をお参りするにあたっては、スルーは許されない場所なのである。

 きっとここで、先ほど飲んだビールも祓い清められたことだろう。

 身も心も胃袋も洗われ、引き続き坂を下ると…

 あ、合鴨だ!

 ちょっとした親水公園みたい…と思ったら、こちらは浄めの池と呼ばれているそうで、水面が観る人の心を浄めてくれるのだそうな。

 すみません、合鴨しか観てませんでした…。

 このあたりから来し方をふりかえってみるとこんな感じ。

 神社にはつきものの古木がなんともステキ。

 日本有数の観光地のこと、例によってお隣の大陸や半島の方々が大勢いたらどうしよう…と心配していたところ、彼らの姿はまったくといっていいほど見当たらず、参拝客全体でも、午後まだ日が高い時間というのにこの程度。

 平日って素晴らしい(そもそもアジアン団体は今のところほとんどいないらしい)。

 坂を降りきったところには小川が流れていて、そこに架かっている橋を渡ると平地になり、天橋立のような松並木の参道になる。

 参拝客は松並木の中央にある鳥居をくぐることなく、この両サイドの道を行くことになっている。
 それは、真ん中の道は神様が通るからなのだろう…

 …とばかり思っていたら、鳥居の下あたりにあった立札を見てみると、

 「松の根の保護のため参道の左右をお通りください」

 けっこう現実的な理由によるのだった。

 江戸の昔は身分の高いヒトのみが真ん中の道を通ることを許されていたそうで、そもそもこの松並木の松は、松江藩主堀尾忠氏の奥様が、祈願成就の返礼にと出雲大社に奉納したものだという。

 堀尾忠氏といえば。

 徳川家康率いる「豊臣政権」の軍勢が上杉景勝征伐の途上、石田三成起つの報を受け、家康は栃木県の小山で諸大名を呼び、今後の進路を決めるべく緊急会議を開いた。

 家康としては、自らに付き従っている豊臣恩顧の大名たちがどっちに転ぶか、その動向が今後を左右する大一番である。

 あらかじめ根回しをしてあった豊臣恩顧大名筆頭株の福島正則は、席上真っ先に三成討つべし!を進言。

 はたして他の大名たちは……

 その時、家康が欣喜雀躍せんほどに喜んだ意見具申をしたのが、功名が辻・山内一豊である。

 いわく、三成討伐のための西進に際し、東海道上にある自身の城も兵糧もなにもかも内府殿に進呈すると。

 この意見具申が実は、前夜のうちに堀尾忠氏に今後の身の振り方を相談しに行った山内一豊が、堀尾忠氏本人から直接聞いた秘中の秘的アイデアのパクリであった…

 …という話は、真偽のほどはともかく、たびたび大河ドラマでも取り上げられたりするほどに、かなり有名なエピソードだ。

 その後の功名が辻・山内一豊の立身出世を思えば、堀尾忠氏はただバカを見ただけ……と誤解しがちだけれど、さにあらず。

 彼はパクリ一豊を恨むわけでもなく、その後の関ヶ原では前哨戦・本戦で武功をあげ、堂々の論功行賞により浜松12万石から倍増の出雲・隠岐24万石の大名になったのであった。

 移封後、現在の松江城を築城するにあたり、場所を選定したのもまた忠氏だった。

 しかしながら、戦国を生き抜いた若き猛将も病には勝てず(マムシに噛まれた説あり)、志半ばにしてこの世を去ったとか。

 その後、父である堀尾吉晴が我が子の遺志を継ぎ、松江城を見事完成させたそうな。

 忠氏の奥様が松を奉納した頃にはすでに忠氏はこの世になかったはずで、ひょっとすると祈願成就というのは松江城落成のことだったのかもしれない。

 以上を踏まえて考えてみると、もし小山評定で山内一豊がパクリ功名に走らず、そのまま堀尾忠氏が家康に進言していれば、堀尾忠氏はまったく別の土地に移封されていたやもしれない。

 そうすると出雲大社のこの松並木も、今に残っていなかったかもしれない。

 パクリ功名が辻・山内一豊、ありがとう。 

 このステキな松並木参道を進むと、やがて……

 おお、あれが…あれこそが………

 祟り封印空間、出雲大社だ!!