●海と島の雑貨屋さん●

ゆんたく!島暮らし

写真・文/植田正恵

225回.鳴くよウグイス

月刊アクアネット2022年2月号

 梅の花が咲く頃といえば、ウグイスのホーホケキョ。

 花札の梅に鴬、鴬餅、鴬張り、鴬笛などなど、ウグイスは昔から日本人にとってたいへん身近で、「花鳥風月」の「鳥」を代表するもののひとつといっていい。

 でも残念ながら沖縄にはいない…と勝手に思いこんでいた私。沖縄での4年間の学生生活で聴いた覚えがまったくなかったのだ。

 ところが水納島に越してきた際、島のあちこちからウグイスの囀りが聴こえてきてとっても驚いた。

 梅の花のひとつもない島でウグイスっていってもなんだか似合わないよなあ…などと、当初こそ勝手な感想を抱いていたものの、島での暮らしが四半世紀以上過ぎた今では、2月、3月になってホーホケキョがあちこちから聴こえるようになると、春の到来を感じてなんだかウキウキしてくるようになっている。

 もっとも、「声はすれども姿は見えず」の代表ともいうべきウグイスだから、小さな島にもかかわらず相当数生息しているはずなのに、長い間その姿を目にすることができないでいた。

 ところがある年、我が家の垣根のハイビスカスの根本あたりに、それまで見たことがない小さな茶緑色の野鳥がいた。

 はてなんだろう?と思ったら、それがまさかのウグイスだった。

 裏の小道でエサを啄んでいたウグイス。水納島では、オスが囀る恋の季節以外なら、このように身近に姿を拝めることもある。ウグイスの個体数は多いので、運が良ければ、囀っているところも枝間越しに見られる。巨大なホテルがいくつも建つよりも、春になるとあちこちからホーホケキョの声が聴こえてくる方がいい。かつて「花鳥風月」を愛した日本は、いったいどこに行ってしまったのだろう?

 花札の絵や鴬笛の姿形とは違い、いささか地味な小鳥だったのが小さな驚きだった。

 姿を見るまで随分時間がかかったのに、その後は散歩中に見かける機会も増えてきた。

 ウグイスの姿を見るのが難しいと言われているのはオスが張り切って囀る季節のことで、それ以外の時期ならごくごく普通に姿を拝めるのだけれど、昔は気づかなかっただけなのか、そもそも見られなかったものが見られるようになってきているのか…。

 水納島で1年を通して観察できる鳥、すなわち留鳥はウグイスのほかにもいろいろいて、キジバトやイソヒヨドリ、メジロなども、そういえば昔に比べ最近妙になれなれしい。

 庭でお茶していると、傍らで育てているプチトマトを盗みにイソヒヨドリがすぐ近くまでやってくるし、垣根のハイビスカスにメジロがペアで蜜を吸いに来ることもしばしばだ。

 畑仕事をしているときには、ふと振り返ると手の届くところで、掘り返した土から出てくるお宝をゲットしようとキジバトやイソヒヨドリが待ち構えていたりもする。

 なんだか全体的なイメージとして、越してきた頃の昔に比べ、野鳥の警戒心が薄くなっている気がする。

 私の脳や行動が鳥化しているために野鳥たちが親近感を抱いている…というわけではないのだとすると、これは島の過疎化が進み、より無人島の環境に近くなってきたから、ということなのかも。

 人の来島を厳しく制限しているガラパゴス諸島の生き物たちがそうであるように、「人間」を危険生物として認識しない動物たちは、人の存在をまったく意に介さない。

 ということは、このままさらに過疎化が進めば、野鳥たちの警戒心は激薄となり、渡り鳥のアジサシすら手に乗るようになるかもしれない。

 独特の生物相から「東洋のガラパゴス」などと昔からよく謳われている沖縄で、水納島はある意味その最先端を走っているのだ。

 経済振興というよりも経済信仰とでもいうべき狂乱ぶりで、絶望的にどんどん自然が失われていく「東洋のガラパゴス」。

 その様子を見るにつけ、過疎化もなかなか捨てたものではないとも思えるようになってきた。

 人類以外のすべての生き物たちにとって、それがなによりも望ましい未来なのかもしれない。