●海と島の雑貨屋さん●

ゆんたく!島暮らし

写真・文/植田正恵

230回.アウトドアの真髄

月刊アクアネット2022年7月号

 4月のある日、灯ともしごろに我が家の庭先にいた東京在住の知人が、「こんな時期に虫が集くのを聴けるんだねえ、さすが沖縄」みたいなことを感動的に話していた。

 そういえば埼玉にいた頃は、虫の声といえば夏から秋の風物詩だったっけ。亜熱帯沖縄生活が四半世紀以上も経つと、季節を問わず夜に虫の声が聴こえることが我知らず当たり前になっていた。

 虫が当たり前なら鳥も同様で、朝目覚めるとイソヒヨドリが囀り、朝夕にはウグイスが、そして梅雨時にはヒュルルルル…というどこか物悲し気なアカショウビンの声が響き渡る。また、相手を探しているのか四六時中シロハラクイナが「クヮッ、クヮッ、クヮッ…」と鳴き続け、夜になるとリュウキュウアオバズクがずっと感心し続けているかのように「ホォ…ホォ…ホォ…」と鳴いている。

 それらの声が、窓さえ開けていれば家の中でいつでも聴こえてくるのだ。

 こうしてツラツラ並べてみると、私の普段の暮らしって、どこかの山の中でキャンプをしているようなものではないか!とふと気づいてしまった。

 雲ひとつない夜には庭のデッキの上で寝転ぶだけで、満天の星空も見られる。季節と時間によっては、天の川が真上を横切っていることもしばしばだ。その視界を大きなオオコウモリがバサッと横切っていくこともある。部屋から一歩外に出るだけで、文字どおり「アウトドア」な我が家である。

 週末に本島北部の海辺でキャンプを楽しむこともある、というゲスト夫婦は大都会那覇にお住まいで、キャンプは都会では味わえない非日常を経験するためのものだという。

 大都会における非日常とはすなわち、波の寄せる音や、虫の集く声など自然の音しか聴こえない、月と星の光しかない、といったことのようだ。

 我々はその真逆で、都会の大きなショッピングモールでの買い物や、居酒屋の生ビールなどが非日常体験なのだから、お互い無いものねだりということなのだろう。

 そういえば世間ではコロナ禍の影響でアウトドアが流行り、そういった用品の売り上げが好調だったという。昔に比べれば遥かにお手軽なアウトドア用品の賜物なのだろう。

 一方で、お手軽アウトドア流行りのなか、そのマナーの悪さに地元の方々が閉口しているというニュースもちょこちょこ目にするようになっている。

 アウトドア流行りといっても自然を愛するヒトたちがにわかに増えたわけではなく、街中でタバコをポイ捨てするような方々の活動先が、コロナ禍のためにアウトドアになったというだけのことなのかもしれない。

 アウトドアといいながら快適を追求する商品がやたらと並んでいるところを見ても、そもそもキャンプと普段の生活との境目がぼやけてきているような気もする。

 水納島で毎日野鳥や虫たちの声を聴き、シロアリやらカナブンやらカメムシの大発生で季節を感じる生活をしていると、もともとこういった生き物たちの営みが有史以前から続いていたところへ、あとから人間が入ってきただけなのだよな、ということがよくわかる。

 ところが近頃のお手軽快適アウトドアブームでは、人の手によってコントロール下にあるものと「自然」との区別がついていない人が増えているようで、ある種の怖さすら感じてしまう。

 「自然」は快適さだけではなく、時に試練をもたらしもする、という覚悟がない人には、空調完備の家で4Kテレビのアウトドア番組や自然番組でも観ているほうが、よっぽど快適な「アウトドア」かもしれない。

 ふと我に返ると半分キャンプのような私の日常には試練もつきものではあるけれど、それ以上のヨロコビをも堪能させてもらってもいる。4Kテレビなど無くていいから、この環境が今後ともこのままであってほしいと願ってやまない。