●海と島の雑貨屋さん●

写真・文/植田正恵
月刊アクアネット2026年8月号
4月後半に埼玉へ帰省した。
短期日とはいえ4月の埼玉に身を置くのは、昨年6月の帰省同様前世紀以来のことで、桜には遅すぎたものの、春の西武地方は様々な花々に彩られ、実に艶やかな景色を堪能することができた。
その帰りに那覇空港で外気に触れたとたん、ああ沖縄に帰ってきたのだな、としみじみ実感した。生ぬるく湿度に満ちた空気が、ねっとりとして重たい…。気温は埼玉とほとんど変わらないのにこのねっとり、これが亜熱帯だ。
琉球大学に入学した際にも、やはり4月に空港に降り立ち、ああついに亜熱帯の沖縄に来たのだなあ、と感慨深かった。
その後沖縄での暮らしが始まり、ある夜大学近くのとある民家の脇を通りかかった際には、とても甘く蠱惑的な香りがあたり一面に漂っていて、それが庭木に由来しているっぽいことに気がつき、あらためて亜熱帯沖縄は、埼玉とは本当に空気が違う!と感じた。
その衝撃はかなり大きかったのだけど、沖縄には他にも刺激的なことが多すぎ、香りについてはそのまま記憶の奥底にしまわれたままになってしまった。
時は流れ、気がつくと水納島で暮らすようになっていた私は、当番の朝の道清掃をしていた早朝、学生時代の衝撃をまざまざと思い出すこととなった。
あの甘く蠱惑的な香りが、桟橋へと続く石畳の道一面に漂っていたのだ。
ただちにその正体を特定すべく、道掃除は二の次にして香りをたどっていくと、道沿いの民家の高さ2mほどの庭木が匂いの素であることがわかった。
近寄ってみると、小さな白い花が寄り集まってたくさん咲いている。
その花に鼻を近づけてみれば…まさにビンゴ!
ひとつひとつの花はとても小さいため、たとえ咲き誇っていても見た目はとても地味なゲッキツ。そのため庭木として見ていた頃は全然注目していなかった。でもそんな地味な植物から、それもこんな小さな花から、まさかの衝撃的甘い香り。亜熱帯の濃厚な空気は、このような数多の生命によって彩られている。
ひとつひとつは小さな花でも香りは力強く、かつ甘い。あの日あの時あの香りの正体が、実に20年の時を経て判明したのだった。
感動に包まれながら調べてみると、その庭木はゲッキツという常緑植物で、インドやマレーシア、フィリピンなどとともに琉球諸島にも自生しているものであることが分かった。
ゲッキツとは「月橘」で、月夜によく香ることからつけられた和名らしい。蠱惑的な香りに気がついたのは、まさにそんな月のめぐりの夜や早朝だったなぁ…。
長い年月を経てようやくナゾが解明されて以来、道掃除のときにその香りを味わうのが楽しみになっている。
ゲッキツは英名でシルクジャスミンともいわれるけれど、いわゆるジャスミンテイーに使われるジャスミンとは分類学的に系統がまったく異なり、スパイスとして使われるカレーリーフに近い植物なのだそうだ。
またその常緑の葉や花の良い香りから観葉植物として人気があるらしく、通販サイト等を見るとけっこうなお値段で売られていた。
そのわりには水納島では別段注目されるでもなく、件の家以外の場所に植えられているのを見たことがない。実をつけない(食べるものが生らない)植物は、あまり興味を持たれないからかもしれない…。
学生時代の衝撃がまだわりと新鮮なまま残っている私としては、満月の夜ごとゲッキツの香りが水納島のそこここで漂えば、かなり妖しく蠱惑的に素敵なのではあるまいか、と思ってしまう。
ほろ酔い気分で月夜に散歩をしたら、ねっとりとした亜熱帯の空気の中から、甘く濃厚なゲッキツの香り…。
それだけのことで、なんだか異世界に迷い込んだような、亜熱帯の旅情をかきたてられるエキゾチックジャパンてなことになるのではなかろうか…。
具体的にそこまで企図しているわけではないけれど、ゲッキツの種を頂戴してポットに撒いたところ、ちゃんと芽が出てきた。ひそかに「ムフフ…」とほくそ笑んでいる私である。