47・ローマ軍団兵士の末裔

 ちょっと前までは、フォロ・ロマーノやパラティーノの丘、そしてコロッセオといったローマ時代の遺構は、すべて出入り自由だったらしい。
 ところが今や、すべて有料になっている。

 もっとも、それら3ヶ所がセットになっていて、しかも2日間有効なチケットの値段は、これらの遺構を維持している労苦を思えば大したものではない。
 観光客としてはそれくらいの料金を払うのはやぶさかではない。

 ただし、有料になったおかげで出入口が限定されてしまった。
 カピトリーノの丘からそのままフォロ・ロマーノに降りられれば便利なのに、出入口まで回りこまなければならない。

 というわけで、出入口に回りこむついでに、フォーリ・インペリアーリという大通りを挟んで隣にある、トライアヌスの市場に寄ってみた。

 トライアヌス。
 トライヤーノとかトラヤヌスとかいろいろ呼び名はあるものの、ローマ帝国大全盛時代である2世紀の五賢帝時代の中核をなす人物だ。

 塩野七生の「ローマ人の物語」によって、ローマ帝国のありようをオボロゲながら理解したつもりでいる僕にとって、ローマ帝国についてかなり感心したことの1つが、このトライアヌスの皇帝就任だ。

 このヒトは今のスペイン地方の出身なのである。
 当時のスペインといえばローマの属国。そして彼は、帝国始まって以来初めての、属国出身の皇帝になったのだ。

 これって、たとえは悪いけどわかりやすく考えてみるなら、朝鮮半島を日本が統治していた時代が仮にさらに長く続いたとして、半島出身の人が日本国の総理になるようなもんですぜ。

 占領した国に自らの宗教、言語を強制するような日本じゃ、考えられないでしょう?

 でも、それをフツーに為し得たのが「ローマ」という国のありようだったのだ。
 優秀な人材を登用するのに、出身地といった些細なことにいちいち束縛されない。そしてローマに害をもたらさないかぎり、イデオロギーや宗教といったものを排さない。

 ローマ帝国とは、この寛容の精神あってこその大版図だったのだ。

 で、そのトライアヌス帝。
 初代皇帝アウグストゥスは、当時の帝国の版図が国として成り立つ限度一杯だと判断した。そのため、以後はその領土を維持することに専念し、けっして版図を広げようとはするな、と言い遺した。
 毛利元就が毛利家に残した遺言と似てますな。

 毛利家はその遺言に盲従し、結果その大版図のほとんどを失うことになったのに対し、ローマ帝国は違った。
 トライアヌスがいたからだ。

 ライン川を境にゲルマン民族と相対していたローマにとって、ダキアという地域は防衛上かなりの重要拠点で、以後のローマの安泰を図るなら、その土地を奪取しておくほうがいい、というのは、軍団統率者であれば誰しも思うことだったらしい。
 そこでトライアヌスは、初代皇帝の遺言には反するものの、国家ローマのためにダキア地方への遠征を決行。
 以後100年ほどのローマの安泰のひとつは、彼のおかげといってもいい。

 そんなダキア地方に遠征、そして勝利したトライアヌスは、自らの墓所として、そしてテレビもラジオも新聞もない時代の一大プロパガンダとして、ダキア遠征の様子を伝える一連の絵物語を掘り込んだ大理石で、巨大な円柱を拵えた。

 それがこのトライアヌスの記念柱だ。

 マルクス・アウレリウスの記念柱は、いわばこれのパクリ。
 で、マルクス・アウレリウスの記念柱同様、本来天辺にあったトライアヌスの像は、聖人像に変えられている。

 記念柱に描かれている絵物語をアップ。

 ちなみにこれ、あまり知られていないけど、「ローマの休日」の一番最初に登場していたりする。

 
ローマの休日より

 気が遠くなりそうな作業であることが容易に想像できる、石に彫られた絵物語にも驚いたものの、この記念柱の周りをはじめ、そこらじゅうに松が生えていることにもビックリした。

 ローマに松って……

 カモメ同様、イメージ的に全然結びついていなかったのだ。
 でもよくよく考えると、地中海料理に欠かせないアイテムのひとつが「松の実」だものなぁ……。

 カモメといい松といい、いちいちそういうことに言及するガイドブックなどないから、来てみたら当たり前のものをまったく知らなかった。

 さて、そのトライアヌスの記念柱のすぐそばにあるのが、トライアヌスの市場。


窓ガラスがはまっている建物は現代の建物です

 少し前までは本当にここが市場だったという見解がもっぱらだったのだが、最近は、実は公的なオフィスだったとか、銀行その他の事務的な仕事場だったという話も出ているそうな。

 市場であれオフィス街であれ、約2000年前に3階建ての、しかも弧を描いた建物というのがスゴイ。

 父ちゃんはどうやら、ローマ帝国という国のありようを、古代エジプト文明のような雰囲気で捉えていたフシがあったので、このあたりは誤解を正すよう、添乗員兼観光ガイドのワタクシは頑張っておりました。

 頑張っていたのは僕だけではなかった。
 このあたり一帯ならどこでも見られる、お馴染みのローマ軍団兵士たち。


後刻、コロッセオ周辺にて

 万座毛や守礼の門にいる琉装美女と同じく、観光客との記念撮影を生業にしている人たちである。
 ただ、我々がトライアヌスの市場にいたときはまだ時間が早かったこともあって、ローマ軍団兵士は…………

 お着替え中♪
 これ、うちの奥さんを撮るフリをしてズームにして盗撮したんだけど…………バレてたみたい??

 彼には悪いことをしたものの、あの衣装がこのような衣装バッグにキチンと詰め込まれているということに、ちょっぴり感動してしまった………。

 かつて東映太秦映画村の池田屋の前で出会った新撰組隊士のように、彼らもまた、(まだ)売れない役者さんたちなのだろうか??
 …そうは見えない人のほうが多いけど。

 国家ローマがますます成長していくにつれて人口は増加。やがて当初のフォロ・ロマーノだけでは手狭になっていった。
 そこでカエサルが私財を投じて新たにフォロを増設。

 それが「カエサルのフォロ」。

 借金大王だったはずなのに、はたして投じるだけの「私財」があったのかどうかはともかく、惜しげもなく自費を投じるところがスゴイ。
 当時の貴族や実力者たちは、それなりの権利を有しているかわりに、公共への貢献という使命感があったのだ。
 「私財」といえば選挙資金にしか使わない、どこかの国の政治家たちとは大違いなのだ。

 このカエサルのフォロのほか、この周囲にはその後の歴代皇帝が造り続けたフォロがたくさんあって(記念柱のそばの列柱はトライアヌスのフォロ)、いつしかフォーリ・インペリアーリと呼ばれるようになっていた。
 キリスト教社会になってからこの地が土に埋もれるままに任されていたものを、19世紀から始まった発掘が、それらを再び地上に甦らせた。

 ところが第二次大戦前、ローマ帝国の栄光再び、を夢見ていた時の権力者ムッソリーニは、「帝国の首都にふさわしい大通りを!」ってことでフォーリ・インペリアーリ通りの建設に着手、せっかく発掘された数々のフォロは、元の木阿弥に戻ってしまったのだった。

 その後の歴史に明らかなように、当時のイタリアに必要だったのは「ふさわしい大通り」ではなく、「ふさわしい指導者」だったのは間違いない。

 幸い近年の発掘作業で、埋められた数々のフォロのうち、半分くらいが日の目をみるようになっているという。
 ムッソリーニが遺した太い太い道路の下には、まだたくさんのフォロが眠っている。

 さてさて、松林を眺めつつ歩いていくと、ようやくフォロ・ロマーノの入り口に到着!