18・柱に残る無念の印〜藩校明倫館跡にて〜
藩内二大政党のどちらが主導権を握っても、意見具申に対してとにかく「そうせい」と言ってばかりいたということから「そうせい候」というあだ名までついた藩主毛利敬親だから、ともすれば主体性のないバカ殿様であったかのように誤解されている。 しかし彼が藩主となってのちの長州藩の変化を知ると、この殿様、実はキレ者?と思えるほどの経歴であることがわかる。 なによりも門閥主義をあらため、広く人材を集め登用したことが大きい。 優秀なヒトが力を発揮できる環境を作り出したのだ。 この藩校明倫館の移転から始まる大改革もそのひとつで、学校の門戸を広げたことにより、さらに多くの人材が世に出てくることになる。 その藩校明倫館跡の敷地に明治後建設された明倫小学校の、ほとんど当時のままの姿を残している校舎が、つい最近、2014年3月まで現役だったそうだ。 その明倫小学校がすぐ近くに新校舎を造って移転したあと、旧校舎の一部がリフォームされ、萩・明倫学舎として新たな観光拠点として整備された。
ちなみにこの建物の裏側には、同じ造りの旧小学校時代の校舎が3棟ほど残っていて、そのうち手前の1棟は本館同様にリフォームされ、2号館として有料公開されている。 でもその背後の2棟は廃校になった当時のまま時が止まっており、窓越しに見える室内には体育用ツールなどの備品が積まれていたりするなど、廃校感たっぷり。 老朽化に伴い旧校舎周辺は立ち入り禁止区域になっているのだけど、そうとは知らず外から入ってしまった……。 それはさておき、こういう経緯を踏まえておかないと、ついついこの建物が藩政時代の明倫館の学び舎だったかのように勘違いしてしまうから、観光客としては注意が必要だ。 これはあくまでも小学校の校舎を復元再利用している建物であって、再現されている教室の教壇で吉田松陰が講義をしたわけではいし、高杉晋作や久坂玄瑞が机を並べて学んでいたわけではない。 ただし一万坪を越える広大な敷地には、藩校だった頃の面影を残す建造物もちゃんと残っている。 前ページで登場した南門も、往時の構造物だ。
明倫館をこの地に移した際に、正門として建てられたものだそうだ。 往時も中央の扉は年に数度の行事の際にしか開けられることはなかったそうな。 幕末もいよいよ煮詰まってきた頃になると政庁を山口に移した長州藩は、この藩校の機能も山口に移していた。 その頃なのか維新後のことかわからないし、どさくさ紛れなのかなにか縁あってなのかも知らないけれど、どういうわけだかこの門は明治の頃には本願寺山口別院に移され、以来長らくそこで「正門」となっていたという。 それが2004年にそのお寺から寄付という形で萩に戻され、こうして元々建っていた場所に再び建てられたそうだ。 明倫館南門は、旅する正門なのである。 国道191号に面した現在の敷地の門はこのさらに南にある。
明倫小学校が移転する前の校門だったのだろうか。 一応この門はあるものの、観光客の多くは車かバスで来るからだろう、入口は敷地西側にある広大な駐車場側って雰囲気になっている。 実はこの日午前中けっこうテケテケ歩いてきたものの、我々の他に「観光客」をまったくといっていいほど目にしなかったので、ひょっとして萩、終わってる?と心配していた我々。 しかしここ明倫学舎の駐車場にてようやく他の「観光客」の姿を見ることができて、少しばかりホッとした。 それでもかなり少なかったけど……。 ドドンと真ん中に建っている南門と違い、敷地の隅、交差点側の入り口近くにいじけたように建っているのは、観徳門。
本来はこんないじけた場所ではなく、当時あった孔子廟の前門として、南門と孔子廟の間に建っていたそうな。 江戸のお侍さん社会は今では考えられないほどに孔子の教え、すなわち儒教の影響下にあったから、孔子を祀る建造物は各地に多かった。 しかしどういういきさつがあったのか、この門も明治後には本願寺萩別院に移され客殿門となっていたのだとか。 それが昭和57年に、今の場所に戻されたのだそうだ。 これまた旅する門。 それにしても本願寺グループ、門コレクターなのか?? この観徳門のすぐ近くにひっそりとたたずんでいる重々しげな建物がこちら。
有備館。 有備館というのは固有名詞なのか一般名詞なのかわからないくらい、他の地域にも同じ名前でほぼ同じ目的の施設がある。 単に有備館で検索したら、仙台の旧有備館が当然のようにヒットするし、姫路にはその名を冠した学習塾もあるようだ。 長州藩の有備館もここだけではなく、江戸藩邸にもその名の施設を設けていたらしい。 明倫館跡に残されているこの有備館は、旧明倫館にあった剣術場と槍術場を移築して合体して拡大したものだそうで、武芸修練の成果発表の場、すなわち試合会場として存在していたそうだ。 小学校跡地のあたりに何棟もあったという建物が武芸修練用の場だったのだとか。 敷地の端のほうにあるためか例によって観光客ゼロ状態なので、誰憚らず中を覗いてみた。
梁がまたとてつもなく立派。 54畳あるこの畳の間は、槍術場だったそうだ。 とりあえずここで正座。
誰もいない54畳もの広大な部屋となれば、ここは例のライフワークのチャンス!
有備館で大の字。 建物の真ん中あたりにも玄関があったので覗いてみると、そこはこの畳の間の奥にあたる板の間だった。
39畳あるという剣術場。 他流試合OKだったこともあり、他藩からも数多くの武者が「たのもう!」していたという。 ウソかマコトか、坂本龍馬も萩を訪れた際にここで試合をしたという話が残っているそうだ。 もちろんながらそういった話は後刻知ったのであって、ただ我々は広い館内をへぇ〜ほぉ〜と眺めていただけだった。 そこに奥の間から人が出てきた。 この有備館に常駐しておられるガイドのナカガワさんだ。 見るからに歴史好きらしいヒトの良さそうな年配の紳士で、本日久しぶりの観光客だったからか、尋ねてもいないのに面白いことをいろいろ教えてくださった。 彼によると、さきほどの槍術の間の畳は、表こそ張り替えているけれど、中身は作られた当時のままで、裏には制作年と作者のサインが入っているんだって。 実際に引っくり返して見せてくださった。
安永年間といえば、まだ明倫館が旧の場所にあった頃のはず。 移築時に畳みもこちらに運び込まれたのだろう。 試しに持ち上げさせてもらったところ、現在のおもちゃのように軽い畳とは違い、昔の畳だからたいそう重い。 こんな重いものを54枚も運ぶなんて……。 また、神前に向かって居ずまいを正しているオタマサが座っている床、よく観ると途中からてかり具合が異なっている。
これは経年劣化していた床材を近年張り替えたからだそうで、その張り替え作業の際、床下から数多くの壺が出てきたという。 まさか、成人祝い用の泡盛のはずはない。 実はこの壺は、剣術で床を蹴る際に音が景気よく反響するための工夫………ではないか、と考えられているそうだ。 それってまるで、里中欠場中の明訓高校において、1年生ピッチャー渚の球を少しでも相手に速く錯覚させるべく、キャッチするごとに音が高らかになるようキャッチャーミットの綿を抜き、手が腫れるのも顧みず球を受け続けた山田太郎じゃないか!! たしかにそういう音が高らかになるとピッチャー渚ならずとも気分は高揚するし、実力以上のチカラが出るという効用もあったに違いない。 そんな試合を見るべく、藩主敬親がこの有備館にやって来ることもしばしばあったそうで、この建物内には藩主の控室的部屋も用意されていたという。 現在ナカガワさんがオフィスにしておられるのが、その藩主の間なんだとか。 ということは、お殿様の部屋を独占してるんですね? と冗談交じりに尋ねると、 「そうなんです、申し訳ないことに」 と、嬉しそうに笑っておられた。 そんなナカガワさんに伺った面白いお話のなかでもとびきり興味深かったのが、剣術場の柱に残された傷だ。 藩士たちが背比べをした傷ではない。 (※ちょっと寄り道※) 長州藩出身の前原一誠は、松下村塾で吉田松陰の門人となったヒトで、松陰をしてヒトとしてとってもとっても立派だ(意訳)と言わしめた人物であり、維新十傑の1人に数えられるほどの有力者。 維新後も新政府の要職に就いていたのだけど、ほとんどただ一点、山県有朋進めるところの「徴兵制」による国民皆兵政策だけはどうにも我慢がならなかったらしい。 これは国民の自由を奪うとか命の尊さとかそういった話ではなく、おそらくは職を失って久しい士族の士族たる根っ子の部分をついに徹底的に切り捨ててしまうことになる、ということに対する旧武士としての矜持だったのだろう。 徴兵制度を推し進める政府と袂を分かち、野に下った前原一誠は、その他いろいろ腐敗が進む新政府に不満を募らせ、ついに萩の地にて決起する。 しかし明治新政府にとって、こんなところでそんなことに足を引っ張られているわけにはいかない。 同郷ということもあって前原一誠の動きをいち早く察知した木戸孝允は、決起確実の前原一誠のグループにスパイを送り込み、切り崩しにかかるとともに、決起の妨害も併せて行う手はずとなった。 そして決起の日は迫る。 すでに切り崩しによって人数が大幅に減ってしまった前原グループではあったけれど、拠点を明倫館と定め、ここを武器の集積地として準備し、あとはもう暴発あるのみ、という段になったとき。 集めておいたはずの銃器類がすべて、明倫館敷地内にある水練場の池に放り込まれてしまったのだった。 木戸が送り込んだスパイのシワザである。 用意した武器弾薬のほぼすべてが使用不能になったことを知った決起参加者たちの無念たるや、察するに余りある。 (※寄り道終わり※) 無念が噴火した一部の隊士が、ついに逆上して白刃を抜き、ありったけのチカラと恨みを込め、渾身の一撃をもって切りつけたのが……
……この柱の傷なんだって。 藩主も臨席することがある藩政時代には聖なる武道場で真剣を抜くことなどあるはずはなく、柱に刀傷なんてことは江戸の間はあり得なかっただろうから、柱にとっても生まれて初めての刀傷。 前原一誠の乱や木戸孝允が放ったスパイのエピソードは、司馬遼太郎の「翔ぶが如く」で読んだことがあったような気がするけど、柱の傷の話は知らなかったなぁ…。 ナカガワさん、その他いろいろ、面白いお話をありがとうございました!
有備館をあとにした我々は、この明倫館跡地に今も残るという水練場跡に寄ってみることにした。 場所はだいたいわかっていたので、いったん敷地の外に出て水練場方面に入ってみたところ、そこは安全のため立ち入り禁止区域になっていた(明倫小学校の旧校舎を間近で観たのはここ)。 正しい場所から眺めるべく、来た道を再び戻ってふりだしに戻り、反対側に出てみる……って、なんだかイオンライカムの端から端まで行き来している感あり。 ようやくたどり着くと……
満々と水を湛えた水練城跡があった。 39メートル×16メートル、水深は1.5メートルだとか。 水質的にどうかはともかく、水量的には今でもフツーに水練できそうなほどだ。 それもそのはず、かつて湿地帯だったこの地帯に造られたこの水練場は水が湧き出ているらしく、造られて以来ただの一度も水が枯れたことがないという。 「池の水ぜんぶ抜く」が来たら、ひょっとすると萩の乱のときに使用されるはずだった無念の銃器も出て来るかも?? ちなみに背後に見えているのが、新築相成った明倫小学校の校舎で、写真右手奥にグランドがある。 こういうところを学び舎にする児童って、どんな気分なんだろう…。 むしろ先生の方がテンション上げめだったりして。 ところで、水練場というからワタシは水泳の訓練場だとばかり思っていたところ、先ほどのナカガワさんによると、水泳ももちろんながら、ここでは水中騎馬の鍛錬もしていたのだそうだ。 水中騎馬戦じゃないですよ。 そのため馬が乗り入れられるようにスロープが設けられていたそうだ。
この階段は当時のものなのかどうかは不明。 藩校として整備された水練場は当時各地にあったようながら、現存しているのはここだけなのだとか。 もっとも、土佐藩の水練場は鏡川だったんだろうし、天然の環境を使っていたところも多かったのかもしれない。 不思議的水面を眺め終えたあと、駐車場から敷地の外に出て、明倫小学校の裏門だか通用門側をゆく。
さすが、学校の塀は石垣&白い土塀。 この北側は、小学校と隣接する形で山口地方裁判所萩支部があるのだけれど、そこの塀もやっぱり土塀。 そして裁判所なんて堅苦しそうな場所ではあっても、この土塀で優先されているのは……
木々なのだった。 なんだかステキ。 さて、この写真を撮ったのが、午前11時59分。 朝食抜きでテケテケ散歩している我々としては、11時過ぎくらいにランチってのが理想だ。 ところがこの日ロックオンしていたお店は、12時からオープン。 なのでやや井之頭五郎と化しつつ、その店目指して歩いている我々である。 直線距離なら先ほどの水練場からほんの100メートルほどだというのに、出口の関係上回り道しなきゃならず、そのためオープン時刻に間に合わない羽目になってしまった。 定休日じゃないことだけは確認してあるものの予約しているわけじゃなし、予約必至の人気店のこと、この数分の差で「満席」なんてことになってたらどうしよう……。
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